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思い出を再構築するためにビーチ

「二十代、三十代の過ごし方ではまだ人生を決まらない。四十代こそが、五十代、六十代、その先の老後まで、どういう人生だったのかを決めるのよ。」
 人生にレールがあれば、寝台列車に乗ってそのまま終点まで惰眠を貪りたいものだと思いつつ、そんなレールを走る列車はどこにも存在しないものだから、人生の隘路に迷いっぱなしである。不惑とはなんぞ。
 しかるに、どんな隘路であってもゴザを敷き、鼻をほじりながら横たわってみれば、案外快適なところも見つけることができる。
 「多分、私はどんなものであろうといいところを見つけることが得意だ」と得意になっている場合ではないことは分かっている。
 人生の新しいチャレンジを始めた武庫川さんにとってはたわいない雑談かもしれないが、ゴザの上でとどのごとく惰眠を貪る私にとっては叱咤激励である。

 武庫川さんの言葉もあり、このままではいかんぞと思いながらも、四十代はさらに疾風。何もせぬままに、もうたったの七年しか残されていない。更なる人生の先輩からも薫陶を受け、私も老後へ至る人生の礎を構築したい。
 手っ取り早く、五十歳になったばかりのおっさんに聞かんとする。他の人生の先輩には上下関係が付き纏い面倒だ。
「おまえの四十代はどうだったの?五十歳になってどうだ?老後への展望はどうだ?」
 おっさんに薫陶を受ける謂れはないが、シンパシーくらいは覚えるはずだ。
 しかし、無礼千万にもおっさんは私の問いにまるで回答しようとしない。
 ゼミ飲みとして行きつけだった居酒屋「包丁や」。そこの掘りごたつの下を這いずり回り、灰皿で締めの蕎麦をすすっていた木俣から「大切な話がある」と連絡が来て以降、私は怒り心頭であった。
 奴は五十歳になるや、十数年前の突如としたヘアスタイルの変化の謎も明らかにすることもなく、連絡もなしに姿を消していたからだ。
 薫陶には全く期待していなかったが、まるで頼りにならん。怒りしかない。
 しかし、怒りにもエネルギーが必要。
 我が弔辞を読むべき男の突如たる梯子外しに対し、いつまでも怒り続けるには、奴を我が脳内に刻み続けなければならない。
 気色の悪い言葉へ言い換えると、五十歳のおっさんとの思い出を少し鮮明にしなければならない。そう思った。

 LGBTというキーワードはダイバーシティ社会において欠かせぬキーワードであり、「おっさんずラブ」というドラマも大流行した。
 しかるに、ここで私がおっさんとの思い出を鮮明になどと書こうものならば、「ああ、そういう感情ね」などと昨今流行りのキーワードとともに早とちりされかねないが、そうした感情はないことを明記するものである。
 確かに我々は濃厚な裸の付き合いをした。場は「富士眺望の湯 ゆらり」であり、「深大寺天然温泉 湯守の里」であり、「高井戸天然温泉 美しの湯」であり、「さいたま清河寺温泉」など。
 しかし我らが求めるは胸襟を全開した虚心坦懐の清談であり、温泉成分である。互いの気色悪い感情や肉体ではない。誤解してはならぬ。断じて。
 そもそも、いくら頭の中ではダイバーシティは重要であると認識したとしても、我ら二人がそのような関係であるとするならば、その絵面たるやどんなダイバーシティへの理解の深い者であろうとも須く頓死せしめる破壊兵器であり、もはやダイバーシティインクルージョンの問題ではなく、公衆衛生、地域安全、国家防衛のテーマだ。
 ただ、我らの恋愛対象は女性と書くと、どんなに純心からなる正直な気持ちの吐露であろうと、これもまた公衆衛生、地域安全、国家防衛の脅威となることは必然。八方塞がり。中年男の悲哀である。
 
 そうしたわけで、新しい一週間の始まる月曜日の朝に、ずるずると過去を引きずる中年男は出社するわけでもないのに浦和駅へ向かうのである。むろんそんな中年男の心情を家族が理解するわけもない。ただ、人事からの「有休は年内に最低五日以上は取得せよ」という大号令に、既に十日取得していた私も乗じ、一年に一度くらいはいいだろうと、出社の体で家を出たのだ。

 ここで「物語」を抜けて、突如として筆者が登場する。
 出社すると言って家を出た以上、原稿用紙が破れるほどに、キーボードのキーが押し潰されんほどに、本稿はフィクションであるということを明記しておくのである。嘘か真か、そんなことに私の興味はない。我が身の安全こそ大切だ。繰り返す。フィクションである。
 閑話休題。
「物語」へ戻る。
 強調するため、もう一度書く。
「物語」へ戻るのだ。これは「物語」だ。
 
 八時二十八分発の品川行きに乗りたく駅へ急ぐも、この中年男は過去だけでなく、前日の草サッカーでの肉離れにより、右足をも引きずっていたのである。
「ライオンに追われたウサギが逃げ出す時に、肉離れをしますか? 要は準備が足らないのです。」
 ボスニア・ヘルツェゴビナの英雄にして、元ユーゴスラビア代表、ジェフユナイテッド千葉・市原、日本代表監督を努めたイビチャ・オシムの言葉は耳に痛い。四十代のただでさえ運動不足の肥えた男がアップすることなく、サッカーをしたのだから。開始三分で右足脹脛に違和感であった。
 ずるずると右足を引きずりながら、八時三十三分に駅へ着くと、八時三十一分の小田原行きも行ってしまい、次は八時三十八分発の熱海行きかと思い、伝高下掲示板を見ると、八時二十五分発の上野行きの表示があった。ホームに上がると、電車が止まりっぱなしとなっていた。出社への乗り換え駅となる東京を通り越して、今日の乗り換え駅たる品川へ向かうには、上野は手前すぎ。しかるにずるずる引きずってきた足にとって、ドア越しから見えた空席はあまりに魅惑的である、イギリス軍に対峙したザンジバル軍のごとき神速の降伏で、座席に収まるのである。
 いざ、とりあえず上野へ。

 上野行き。行き止まり式の地上ホームに止まるは必至。座りながら私は想像する。奥深い地平ホームから一度三階の大陸橋まで登り、再び二階の高架ホームへ降りるという行程を。私は肉離れなのだ。一駅手前、尾久駅で同じホームに着く後続の品川行きを待つこととする。
 品川行きは来なかった。人身事故でダイヤが乱れており、品川行きは上野行きへ変更となり、その次は再びの上野行き。
 朝ラッシュの時間帯、尾久駅は有閑であった。
 次の次の小田原行きはビュンビュン飛ばし、品川駅九時三十二分着。絶対乗りたい電車、赤い電車、京急久里浜行きの快特は九時三十六分発であった。この時間で唯一の京急二一〇〇系。進行方向に向いた座席の窓側に身体を沈めるのだ。この列車を逃すと、次に快適な特急型の快特が来るのは一時間後なのだ。
 東海道線ホームから京急線ホームは離れているにもかかわらず、座りたい一心に十五両編成の十五両目に乗っていたものだから階段は遠い。
 ズルヒョコぴょんズルヒョコぴょん。右足は引きずり、左足は跳ねる異様な中年男が襲われるは、唐突な尿意である。とても久里浜まで我慢できようはずもなく、尿意を気にしてなにが快適な移動だ。発車まで一分しかないが、ヒョコぴょんヒョコぴょんと階段を跳ねてトイレへ駆け込み、黒部ダムのごとき大放流。ヒョコぴょんヒョコぴょんとエスカレーターを跳ね上がると、発車ベルの鳴り響く中、赤い快特へ滑り込む。
 車内は朝の下りなのか、コロナ渦のせいか、さほど混雑しておらず、ドアから一番奥。車両の真ん中の窓際に座り、隣の席に重い通勤用のリュックを置き、ふう。他の乗客から見えないことをいいことに、ポロシャツの中に手を突っ込み、夏の中年男必須のアイテムであるデオドラントシートにて上半身を磨くがごとく拭きに拭き、雑菌まみれの古いシートをリュックの使っていない適当なポケットへ突っ込み、新しいシートにて顔も拭きに拭く。ふう。

 すっかりリフレッシュした私を乗せ、赤い電車は三浦半島の先へ向けて、疾走し始めた。
「あっ……。」
 誰も求めていないのに、毎週月曜日十三時に開催されている他チームの定例会議へ乱入すると予告したのは、一ヶ月前。
 己の業務について、美人揃いのメンバーたちから尊敬と憧れの視線を一身に浴びるの講釈を垂れる鼻息は、その翌週は準備不足のため見送り、その次の週は緊急会議で断念し、またその次の週の祝日を経て、今日こそはという意気込みは先週の半ばまで。木曜日にはその意気込みの勇敢たる姿はまるで認めることはなく、綺麗さっぱり忘れていたのであった。
 間違いない。いつまでも坂井さんがカレンダー招待しなかったせいだと他責にしつつ、しどろもどろの無能に対して、画面の向こうの美女たちは蔑む目。そして夫や彼氏に己に鯉のたたきでも振る舞うつもりなのか、まな板の上の鯉たる私を叩かんとサディスティックにほくそ笑んでいるのだ。なお、その会議の出席者たる二人のおじさん、つまり溝畑さんと趙さんの存在は綺麗さっぱり忘れている。
「ま、いっか。」
 EAST END×YURIは私より上の世代だよね……。

 横浜を過ぎると、郊外の色は強くなり、金沢八景の先は三浦半島らしい海まで小さな山の迫った地形となる。赤い京急は無数のトンネルで素早く半島を突き抜け、横須賀中央を過ぎ、浦賀方面への線路が分かれる堀之内駅の手前で微かに海が見える。京急久里浜駅で三崎口行きに乗り換える。
 四十代を過ぎても変わらずに毎年のごとく既に定年退官している先生の家へ押しかけ、散々飲み食いしている。そんな腹を空かせた中年男女を乗せたバスが上り、膨満感の中年男女を乗せたバスの下る尻こすり坂をトンネルで抜け、少し走ると赤い電車の車窓に、窓いっぱいに海の青が広がる。青い海の脇をゆっくりと走るのなら、似合うは江ノ電の緑。素早く駆けるなら京急の赤が似合う。
 京急線の終点、三崎口駅に着いたのは十時五十三分。まったくもって観光地であった。「三崎マグ口駅」という駅名標に同じ列車に乗ってきた者たちは記念撮影をし、三浦漁港や城ヶ崎方面のバスには平日月曜日なのに列がある。
 背負うビジネスリュックにはパソコンが入っており、道中何か書きたくなるかもしれないからとiPadとキーボードが入っており、何か読みたくなったらと文庫本も入っておりいる。そして、電源確保が期待できなかったウィーンからハンバリー、セルビアを超えて、ボスニア・ヘルツェゴビナまでの陸路三十六時間をiPhoneとiPad、レンタルしたモバイルルーターの電源の心配もまるで必要としなかった、かつそれ以降はオーバースペックすぎて持て余すにも程があった大容量のモバイルバッテリー。早くも肩にリュックの重量は伸し掛かり、コインロッカーを探すも見当たらなった。

 二○○一年の同じ九月の平日。我々は未鷺口駅の改札で待ち合わせをした。
 守屋が改札を抜けるや否や、「あんな大事件があったから、とても電車の中で本開けなかったよ。」と呟いていた。
 彼女は三崎口へ電車の中でも少しでも己が研究内容を深めようと必死だったのか。適当なバイトに明け暮れ、破れかぶれで用意した己が発表のコピペかつ論の破綻したレジュメを振り返ることもなく、悠々と、しかし相変わらずの浦和レッズの弱さに怒り心頭となりながら、ここまでの道中サッカーダイジェストでも読んでいたのであった。
 東洋史専攻のイスラム史、主にトルコ・イラン史系のゼミ合宿であった。サバティカルを終えたばかりの先生のゼミだから、まことに居心地の良いことに上級生は一人もおらず気楽であった。あ、一人いた。冬彦は四年だったが、一番の年下だ。しかし、奴は無闇に頭が良く、警戒は必要。しかし所詮は多勢に無勢。おっさん、木俣、玄海、私。この複雑怪奇な大学遍歴の前に、奴の優等生も手足も出ないはずだ。最初から議論する気にもならないだかかもしれない。面倒な議論は、優秀な同期、広島から飛行機通学の朝船と戦わせてもらいたい。
 三崎口駅からどうやってゼミ会場となる漁村のビーチ沿いにあるホテルへ向かったのか。どんなホテルだったか。海岸だったのか。何をした合宿だったのか。
 飲み崩れた後の三枚の写真しか残っておらず、小さなホテルのウッドデッキのビーチで男の外国人モデルがムキムキの裸体(海パンは着用)してポージングして写真に収まっていたことくらいしか記憶にない。我ら対抗できる術何もなし。
 思い出しても大した思い出はないかもしれないが、十九年前の景色を見ることで、多少は思い出すこともあるかもしれないし、おっさんを記憶に留め続けるには、いなくなった後でも更新し続けなければならない。

 ほどよく風は抜け、残暑も吹き飛ばされる。きっと両肩に伸し掛かるリュックさえなければ、心地よいウォーキングであろう。駅前の国道を渡り、路地に入ると、三浦半島の端らしい丘陵地帯に広がる三浦大根やキャベツなどの見渡す限りの畑である。そして丘の向こうには相模灘が顔を出す。

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 しばらく丘の上の畑の真ん中を突っ切る道を歩き、崖を下って、漁村らしい細い路地。向かい側から対向車が、後ろからは大きなハイエースに挟まれ、難儀しながらも、ゼミ合宿会場と重和式ホテルに到着した。
 現在ではホテル営業は行っておらず、イベントスペースや撮影施設として使われているだけのようであった。完全私有地になるため、これ以上近づけず。私の背後を脅かしたハイエースの目的地はここだったらしく、そうしたら誰か有名人が乗っていたのか。石原さとみか、綾瀬はるかか、佐々木希か。私はここにいる。私ならここにいるぞ。

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 ハイエースから駆け下りてきて近づく影はまるでなかったため、引き返して、ホテルの奥に広がるビーチへ出てみる。大学の合宿所の脇の獣道を抜ける。先生がこんな漁村の目立たぬホテルを知る土地勘があったのは、大学の合宿所があったのか。
 ビーチへ出た。
 波の音しかしなった。人は一人もいなかった。

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 ビーチからホテルを見る。あのウッドデッキにプールがあり、そのプールサイドで、外国人の男のモデルがポージングしていた。いや、そんなのはどうでもいい。

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 あの二階が客室であった。
 ゼミ合宿はあの一室で飲んだくれた。そして思い出したことが一つあった。
 客室にはトイレはなく、早朝六時くらいであろうか。頭痛と尿意で目覚めて、ポカリスウェットをゴクゴクと五口。ヨロヨロと立ち上がり、廊下に出ると、「ギャっ!」
 無表情の青白い顔が、薄暗い廊下にあった。前日いなかった上井さんが廊下の椅子に静かに座っていたのであった。
 上井さんは私と同い年。現役で入学したのに、なぜか私と同じ三年生である。
私は大きな声を出す。
「うひゃー、上井さんどうしたの?なんでいるの?」
「二日目は参加しようと思ったから、近くのホテルに泊まって、移動してきてここで待ってたよ。」

 一年生の夏。日吉から埼玉へ戻るのではなく、酔い潰れたからと開放のために埼玉とは逆方面へ。最終の横須賀線に乗り、下宿まで送り届けた挙句、「今日はありがとうなあ」とあっという間に鍵をかけて、百鬼夜行蠢く丑三つ時の鎌倉(参考『鎌倉ものがたり』)へ私を放り投げた中元くんと並び立つ、我が大学生活の二大ホラーを演出した上井くんなのである。
 振り返ると、謎の人がポッと現れるゼミであった。
 冬彦しか上級生はいないはずだが、一回テヘラン留学から戻ってきた女性の先輩がゼミへ参加したことがあった。母親同伴であった。テヘラン留学という豪胆から何があったのか。根掘り葉掘りしたいが、一度きりで話を聞けずじまい。
 日本有数の華やかさを気取る大学のはずで、一年生の四月くらいはその波に乗って、華やかなキャンパスライフを送ってやろうと鼻息荒かったが、流れ着いたのは、ここであった。キー局の女子アナを輩出したことは過去の栄光か。華やかさで全国に名を轟かせている大学であろうと、我らのような人間の生息できる場もある。
 私は、他大学で三年過ごしたのちに、腐れ大学生的退廃的なモラトリアムの延長を画策して、一般入試を経て一年生からやり直し。おっさんに至っては、一度八年間の大学生活が頓挫しつつも、再び同じ大学の同じ学部を一般入試で受験し入り直し、さすがに専攻だけは変えて、ここにいた。就活に向けて意識の高い奴は誰もおらず、もちろん居心地は最高であった。

 先生の思いつきで、夕方にこのビーチを散歩した。
 夕食後の酒でも買い出しに行くついででもあった。
 華やかさのない一向であった。言語道断なことにおっさんは彼女という存在はいたものの、他はまるで私の筆頭に彼女の存在なんぞ影も姿もないくすんだ男。女もテニスサークルやイベントサークルに入って一般的女子大生ライフを謳歌するタイプはいない。
 誰もビーチは似合わない。
 しかし、湘南とはつながっている海岸であるのにまるで華やかさのない、この静かなビーチこそが、我々のビーチなのかもしれない。

 十九年後のビーチも静かだった。当時、先へ先へ進み、結局行き詰まった岩だらけの半島へ、ひとり歩いてみることにした。
 人が寄り付かないせいか、ビーチにゴミはなく、海は透き通っていた。いつの間にか肉離れは気にならなくなり、普通に、しかし砂に足を取られながら、ゆっくりと歩く。白い雲。明るい空の青。深い海の青。対岸の陸の色。進む先に人影が見えた。
 私は向こうへ、海に近づき、また離れ、貝殻を拾いながらよろよろと、、向こうは向こうで私の方へゆっくりと。
 女性であった。アディダスの白いリュックを背負い、白いハットを被っていた。サングラスに白いマスク。
 ここで「物語」は新たな展開へ。健康的に日焼けした肌に割れた腹筋、真っ白の歯を輝かせた夏の似合うビーチボーイとして、村上春樹的ひとときのアバンチュールのラブストーリーへ。
 そんなわけもなく、顔色の悪いたるんだ腹をし、黄ばんだ歯の男は、ことさら己が人畜無害であることを証明するかのよう、視界に入らぬよう、引き返すのである。
 おっさんはおっさんであるのに、そういうアバンチュールのラブストーリーへ挑まんとし、結果は知るまでもなかったのだが、挑んだ結果として、都自由いつの彼女という存在がいたのであった。

 コンクリートの防波堤に座り、三崎口駅の自動販売機でポカリスウェットを飲み干す。空にはカモメではなく、鷹が待っていた。私を襲わんとしているのか。私は美味しそうなのか。当時おっさんのことを、おっさん体型だと馬鹿にしてたのに、ここ数年で体重は逆転していた。

 空も海も綺麗であった。たいした思い出でもないし、思い出したこともたいしたこともない。
ゼミ合宿の二日目の午後。三崎口駅から京急久里浜へ赤い京急へ移動し、尻こすり坂をバスで上り、はじめて先生のお宅を訪れた。
 庭でのバーベキュー。若い人が来るからと先生の奥さんが大量に用意した秋刀魚を持て余していた。体育会系の誰もいない、日陰育ちにはとても太刀打ちできる量ではないであった。
 木俣だけが何尾も何尾も、一手に重責を担っていた。私は、今の体型からは想像だにできぬ程、ガリガリであった。おっさんは当時はおっさん体型であったにもかかわらず、まるで頼りにならなかった。
 たいした思い出ではない。しかし、木俣の飽きなき食いっぷりを冷やかしたおっさん。それもまた思い出である。

 当時、三十一歳のおっさんを思い出したことで、「どういう四十代であったか。」という問いへの答えになるわけがない。
「ま、いっか。」
 おっさんにそんな問いの回答を期待できようか。意識の高いだけの問いを投げるのは、互いに性に合わない。おっさんのことを心の中で生かしておき、戯言を言い合い猥雑な妄想のフロンティアへ疾走するのだ。

 四十代をどう過ごすか。おっさんではなく、自問自答のテーマだ。まずは背負ったリュックの重さの要因であるるパソコンを、この帰りにApple Storeへ持って行くのだ。税込六万八千円の修理日に承諾し支払う覚悟。パソコンがなければ、私の四十代は前に進まぬことを痛感した一ヶ月。パソコン修理へかこつけて、会社をサボり、家の義務もサボり、ひとり小旅行へ出掛けた記録ではなく、「物語」である。


サポートしてもらって飲む酒は美味いか。美味いです。