短編集『春の夜に降る雨は』販売&掌編小説を無料公開中
同人誌販売のお知らせです。
新刊『春の夜に降る雨は』の販売を開始しました。
通信販売サイトBOOTHにてお買い求めいただけます。
幻想的な短編小説、4作を収録。
「春の夜に降る雨は」
「秋の真昼に舞う蝶は」
「沈める寺で」
「風の過ぎゆく」
実はこちら、新刊とは言うものの実際に書いたのは少し前……というか10年ばかり前になります。
詩と小説の学校「大阪文学学校」、略して「文校」という場所がありまして。
私は2012年から2014年の3年間、通っていました。
その間に文校の機関誌『樹林』に掲載していただいたものを許可を得て再録しています。
(「風の過ぎゆく」のみ文校を出た後、2021年の作。)
「沈める寺で」は、ありがたいことに第36回大阪文学学校賞を頂戴いたしました。
古い作品を今更、という恥ずかしさはあります。
ただ、ここ数年、文学フリマなどで私の小説をお買い求めくださっている皆さま(本当に嬉しいです!)に、「昔、こんなのも書いていたんですよ~」と披露したい欲がわいてしまいまして。
思い切って一冊にまとめてみました。
昔の小説ですが作者として愛着がありますし、今読んでもそんなに悪くないのでは、と思っちゃったりしています(自画自賛すみません……)。
通信販売BOOTHのサイトはこちら。
販売開始記念として、表題作「春の夜に降る雨は」を下記に全文無料公開!
幻想的な掌編小説がお好きな方、どうぞお試しあれ。
*****
「春の夜に降る雨は」
だれかに睡眠薬でも服(の)まされたかのように、眠い。
脳みそが半分以上、とろけてしまっている気がする。気を抜くと体もどろどろと崩れ落ちそうだ。しかしともかく、今日の仕事は終了。僕はパソコンの電源を落とし、残業時間を記録簿に記入した。席を立ち、「お疲れ様でした」と言うべき相手を求めて辺りを見回してみたが、もうオフィスには誰もいない。皆、いつのまに帰ってしまったのだろう?
近頃はつい、疲れていても遅くまで残業してしまう。業務が立て込んでいて忙しいせいではあるが、帰宅してもどうせ一人でテレビを見て寝るだけだしな、という思いが拍車をかけていた。一緒に暮らしていた恋人が半年前に出て行って以来、自宅マンションはひどく味気ない場所と化していた。
照明を消し、戸締りをして廊下に出る。一歩一歩がひどく重たい。エレベータで一階へ降り、正面玄関はとうに閉まっている時刻なので裏の通用口へ回った。守衛室の小窓をのぞくと、顔なじみの老守衛が音声を小さくしたテレビを眺めていた。こちらに気付くと立ち上がり、上がりですか、と笑いかけてきた。
「三階、僕で最後です」
「了解です。毎晩遅くまでご苦労さんですね、気をつけて」
どうも、とぼんやり返事をして外へ出ると、雨が降っていた。
会社のビルは、駅前の表通りから少し奥へ入ったところにある。通用口はさびれた裏通りに面しており、ビニール傘を入手できそうなコンビニははるか彼方だ。タクシーなど通りかかるはずもなく、この時間は人通りすらほとんどない。水銀灯の光だけが、濡れたアスファルトとおおかた明かりの消えたビル群を照らしている。
一瞬、守衛室に頼んだら傘の一本くらい貸してもらえるかと思ったが、数メートルの距離を引き返すのさえおっくうだった。小雨だし、駅までは十分もかからない。僕はそのまま歩き始めた。
春の雨は柔らかかった。
空から降ってくるというより、生ぬるい空気の中に細かい水の粒が充満しているようだ。冷たさはなく、ほのかな温みさえ感じられる。こんな雨に包まれながら、泥人形のように静かに溶けてゆくのも悪くないな。そんなことをつい思ってしまうほど、眠たかった。
だからその後に目の前で起きたできごとについて、本当にそれが現実に起きたことなのかと訊かれたら、正直、自信が無い。歩きながら夢を見ていたとしても、少しも不思議ではなかった。
僕の少し前を、白いスプリングコートを着た女性が歩いていた。いつからそこにいたのか、わからない。雨に濡れるのがいやなのだろう、彼女は少し早足だった。長い髪が背中で踊っている。
歩きながらふと、彼女は左肩にかけた大きめのバッグの中に右手を突っ込んだ。折り畳み傘でも出すのだろう、と思った。
だが彼女が取り出したのは、一本の、人間の腕だった。肘のところでぷつんと切断された、裸の人間の腕。彼女は速度を緩めることもなく足を運びながら、無造作にそれを道端に投げ捨てた。
僕は、あんまり眠かったせいだろう、あれこれ深く考えることができなかった。
ああ、腕を捨てたな。ポイ捨ては良くないんじゃないかな。
そう思いながらそのまま歩き続け、彼女が捨てたその腕のそばを通り過ぎる時も、道端の空き缶か何かと同じようにただ眺めただけだった。
腕は男物だった。がっしりとした筋肉質でなかなか立派な代物だが、皮膚は青白くて生気がない。肘で綺麗に切断された断面だけが薄紅色をしていて、何となくハムの固まりを連想させた。真ん中に白い骨が見えた。血は出ていなかった。
そしてそれは確かに人間の腕であるというのに、いったいどうしてだろう、まるでアイスクリームのようにぐちゅぐちゅと水に溶け始めていた。肉の部分だけではなく、固そうに見える骨も同様だ。黒い路面に白っぽい染みがゆっくりと広がっていく。このまま雨に打たれ続ければじきにすべて溶けて、あとは側溝に流れ込んでゆくことだろう。
溶けてなくなってしまうのなら、まあ捨ててもよいか、とぼんやり考えた。
前方に視線を戻すと、彼女はバッグの中から腕をもう一本取り出し、それも同じように投げ捨てるところだった。
電信柱の根元の水たまりに落ちて、小さく水しぶきが上がった。ブーツの足元に水がはねたようだが、気に留める様子もなく歩き続けてゆく。
あと数メートル行けば、にぎやかな表通りに出る。駅もすぐそこだし、この時間でも車や人が行き来している。だから人目につかないこの辺りで捨ててしまいたかったんだろうな、と思いながら、もう一本の腕も横目に見ながら通り過ぎた。先ほどの腕と同じように、こちらも雨に濡れてどろどろと溶け始めている。
先ほどの腕と、肌の色の感じも似ているしサイズも同じくらいだ。同じ人間の腕なのだろう。だが一つ異なっている点があって、こちらは、薬指に指輪をはめていた。水銀灯の光に照らされて鈍く光るその指輪には、何の装飾もなく、宝石のたぐいも付いていない。結婚指輪だろう。
そうするとこちらが左腕で、先に捨てられた方が右腕か――と、僕の思考がそのあたりまで漂った時、不意に、前を行く彼女が足を止めた。
またバッグから何かを取り出すわけでもなく、正面を向いたままただ突っ立っている。背中ではねていた長い髪が、しっとりと雨に濡れていた。表通りの華やかなネオンがここまで届いて、その髪が光って見えた。
そのまま歩いて、彼女の横を行き過ぎた。顔は見なかった。だが何となく、美人だろうな、と思った。そういう雰囲気というのは、はっきり見なくてもわかるものだ。
だがその時の僕には、美人だろうと何だろうとどうでもよい、というのが本音だった。とにかく眠たかった。家に帰ってベッドに倒れ込み、朝までぐっすり眠りたい。いや明日は土曜で、会社は休みだ。久しぶりに休日出勤をしなくてよいくらいに仕事も片付いている。昼まで眠ろう。太陽の光がさんさんと降り注ぐ真っ昼間まで、思う存分惰眠を貪りたい。それしか頭になかった。
そんな僕の背後で、彼女が言った。
「――今の、見ましたか?」
とても綺麗なソプラノの声だった。
僕は立ち止った。反射的に。だが振り向かなかった。
「……いえ、別に……」
ぼそっとそれだけ答えて、また歩き始めた。正直、自分の声が彼女に届いたかどうかわからない。
その後もう一度、彼女がこう言うのが聞こえた。
「――どうしようもなかったんです……」
僕はそのまま歩き続けた。それは独り言めいて聞こえたから、自分がぜひとも反応しなくてはならない義務感を覚えなかったのだ。そして、とにかく眠たかった。
背後で彼女が泣き始める気配がした。振り返って見てみたわけではないし、泣き声が聞こえてきたわけでもないが、背中でそれが感じられた。彼女は静かに涙を流していた。まるでこの春の夜の雨のように、音もなく。
翌日、目を覚ました時には、かねての念願通りすでに昼過ぎの時刻になっていた。夢も見なかった。これだけぐっすり眠ることができたのは久しぶりだ。
頭は少しぼんやりしているが、気分は悪くない。ただ、わずかに肌寒さを感じた。
インスタントコーヒーを飲もうと思ったが、粉が切れている。戸棚の奥にストックがなかったかと探してみたら、紅茶が出てきた。半年前に出て行った恋人が残していった、アールグレイのティーバッグだ。賞味期限が過ぎているようだが気にしないことにして、それを淹れた。
湯気の立つマグカップを両手に挟んで、温もりを味わう。紅茶をすすりながら何日ぶりかでカーテンを開けると、昨夜の雨はすでにどこか遠くへ去って、目にしみるような青い空が広がっていた。
そういえば昨夜は腕が捨てられていたな、と思い出す。
しかしあの腕はどういう仕組みか、雨に濡れるが早いがどろどろと溶けていたから、もうとっくに跡形もなくなっていることだろう。濡れた路面も、この天気ならじきに乾いてしまいそうだ。
だが、あの指輪は。
左手の薬指にはまっていた、あの指輪は。あれだけは雨に溶けずにそのまま残っているのではなかろうか。彼女はそれに思い当って、ちゃんと指輪を回収しに行っただろうか。結婚指輪のようだったから、きっとイニシャルなども刻印されているだろう。そんなものを路上に放置しておくのは具合が良くないんじゃないか、という気がする。何となく。
どうしようもなかったんです、と彼女は言った。
僕はあの時、振り向いて返事をするべきだったのかもしれない。どんなつまらない言葉でもよいから、何か、言葉をかけてあげるべきだったのかもしれない。いったい何と言えば良かったのか、それは少しもわからないのだけれど。
――だからあなたは、駄目なのよ。
不意に、別れた恋人がそう言いながら眉をしかめる様子がまざまざと思い浮んだ。アールグレイの香りのせいかもしれない。もし僕がこの話をしたら、きっとそう言ったことだろう。――あなた、冷た過ぎる。うつむいてそう呟き、後も振り返らず出て行った恋人ならば。
ああ、そうか、と思う。もしかしたら僕も、腕を切られて道端に投げ捨てられていてもおかしくなかったのかもしれない。ほんの少しの違いでそうはならなかっただけで、僕も――。
……彼女、あの指輪、ちゃんと拾いに行っているといいけどな。
そう思いながら、少し冷めかけた紅茶を飲み干した。窓を開けると、空は晴れていたが、どこかにまだ雨の匂いが残っている気がした。
遠くに、パトカーのサイレンの音が響いていた。
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最後までお読みいただき、ありがとうございました。
(了)
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