掌編小説「月と恋文」
手紙が届いた。何十年も前に別れた女からだった。お互い深く思い合っていたが、添い遂げられなかった女だった。
――たいそうご無沙汰しております。
覚えておいでですか。あの秋の夜のこと。綺麗な満月の夜でしたね。
小さな風呂敷包み一つ持って、親の目を盗み、家を抜け出しました。待ち合わせは、村外れのお地蔵様。よく来てくれたね。そうおっしゃる貴方の声は、震えていました。
その夜のうちに隣町まで逃げるはずが、道行きははかどらず。荒れた空き家に忍び込み、一夜の宿としましたね。
穴のあいた天井から空の月が見えました。壁の隙間からはさびしい虫の音が聞こえてきます。ふと不安になったわたくしに、貴方はおっしゃいました。今ならまだ、帰れるよ。
帰りません。絶対、帰りません。
狂ったように叫んだわたくしを、貴方は、きつく抱きしめてくれました。そして、貴方の手がそっと、わたくしの頬を包み込んで。
空から舞い降りてきた、月の光のようでした。優しく、切なく、甘い口づけ。
夜明け前に追っ手に見つかり、引き裂かれ。それきりのわたくしたちでございましたね。
けれど、あの口づけを、わたくしは生涯、心に抱きしめて生きてまいりました。
わたくしは今、ホスピスに入院しております。どうぞお笑いください。かくも老いさらばえ、余命いくばくもない身となり果ててもなお、貴方を忘れかねております。
わたくしが死ねば、きっと魂は、貴方と過ごしたあの夜へと飛んでゆくことでしょう。
手紙を読み終え、窓の外に目をやった。あの夜のように、丸い月が空に輝いていた。
どうか待っていておくれ。もう間もなく、私も行くから。君と過ごした、あの夜へと。
返事の代わりに、月に向かってささやいた。
(了)
<あとがき的なもの>
お読みいただき、ありがとうございました。
昨夜に引き続き、月にまつわる掌編をお届けしました。
こちらの作品は二年前、小説仲間のひとりが主催した朗読イベントに参加させてもらった時、朗読作品として書き下ろしたものです。
女性のエンターテイナーの方が朗読してくださる、と事前に聞き、さてどんなものがいいか、と思案。
「女性の語り口調で書こうかな。でも、ずっと一人語りだと単調かも。お、そうだ、女の人から届いた手紙を男性が読んでいる形にしたら、男女それぞれの語り分けをしてもらえて面白いんじゃない?」
ということで、このような作品と相成りました。
イベント当日は、素敵なエンターテイナーさんが男性の声色・女性の声色、見事に使い分けて朗読してくださり、自分の作品が五割増しくらい上等になった気がしたものです。
会場のイベントバーは十人も入ればいっぱい、くらいの広さだったでしょうか。そんな中で朗読したり、お酒を飲んだり。カラオケもしましたっけ。
あの頃には「ソーシャルディスタンス」という言葉も「三密」という言葉も存在していなかった(少なくとも自分の目に入る世界には)んだなあ、と思うと、ほんの二年前なのにずいぶんと大昔のような、不思議な感じが。
またいつか、ああいう「密」なイベントも楽しめる世の中になりますように、とお月様に願っておきます。
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