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評㉝新国立劇場演劇研修所公演・朗読劇『ひめゆり』小劇場A席2200円

 戦後77年。終戦記念日。演劇が存在する意味の一つを真面目に考えたい。

 新国立劇場演劇研修所公演・朗読劇『ひめゆり』、8/11~8/14新国立劇場小劇場、A席2200円、B席1650円(9/3パルテノン多摩、9/7国立劇場おきなわ)。脚本:瀬戸口郁(文学座)、構成:道場禎一、構成・演出:西川信廣(新国立劇場演劇研修所副所長、文学座)。1時間50分(休憩無し)。

ひめゆり学徒隊の死と生を、若者たちの声が語る

 昭和20年(1945年)3月、14~19歳で従軍命令により戦場に出され、沖縄本島の南端で集団自決に追い込まれた「ひめゆり学徒隊」の死と生を、奇跡的に生き残った生徒や引率教師の手記等をもとした作品。3年制である研修所16期生(主に20代前半)や修了生の男女13人が演じた。
 (なお、「ひめゆり」は、沖縄県立第一高等女学校(一高女)の学校広報誌の名前「乙姫」と沖縄師範学校女子部の学校広報誌の名前「白百合」を併せて「姫百合」という名称が由来、だそう。初めて知った)

 2016年初演、今年で4回目。コロナ禍で稽古や公演の負担減らしのため朗読劇は増えたが、この劇はそれ以前から朗読である。関係者に知人がいるので、劇の存在は知っていたが、初見。

言葉、台詞をしっかりと客の心に届け、聞かせる朗読劇

 正直、朗読劇だろう、と心のどこかで軽く考える思いは観る前にあったが、結果的には引き込まれた。また、このテーマは残酷でもあり、実演でそのまま再現すれば残酷さだけが際立ち、といって表現のアレンジが中途半端だったとしたら事の真髄が丁寧に伝わらない危険性もある。言葉、台詞をしっかりと客の心に届け、聞かせる朗読劇は向いているのかもしれない
 (ひめゆりをテーマにしたたくさんの映画、舞台、ドラマが上演されてきているが、私は不勉強で観ていない。また別の考えもあろう)。

生身の人間の発する生の声による物語が心に入ってくる

 第二次世界大戦で唯一地上戦を経験した沖縄。空襲だけでなく、砲撃や銃撃を受け、地を這う身体が射撃され、首が飛び、血や肉が飛び散り、内臓がはみ出す。破傷風になる。「いたーい」と叫ぶ。「学生さん、置いていかないで」と置き去りにされる重傷兵らがすがるように叫ぶ。「置いていかないで」「死にたくない」と、友人たちが叫ぶ。手りゅう弾を握りしめる。死体や吹き飛んだ手足がその辺に転がっている。だんだん死に慣れていき、一発で死んだ方が楽かと思う。
 今まで本を読んだり映像を観たり、頭の中ではわかっていたことだが、目の前で、生身の若者たちから絞り出される生の声は、どんどん自分の中に入ってくる。物語として聞くと、心に届きやすいと改めて思う。

亡くなっていく真の語り手、の後、心に届く手段として

 朗読劇の終盤、この劇の主な語り手のひとりで、元ひめゆり平和祈念資料館館長、劇原案を形作った『私のひめゆり戦記』作者、宮良(みやら)ルリさんが「令和3年8月12日逝去」(老衰、94歳)と役者が伝える。その瞬間、劇として上演する意味を自分なりに悟った。
 戦争の体験者、語り手は次々に亡くなっていく。生の声を聞くことは近々完全に不可能となる。その時、残される方法の一つとして、生身の人間が生の声で物語を語ることがあるだろう。勿論、たとえ手記をもとにしても完全なる実話でなく、どこかに虚構は混じる。そのうえで、心に届き、揺り動かすものであると思う。

 〇〇から何年、という「記念日報道」はそれなりに意味があり、真夏のこの日に戦争を思い出すことには意味がある。24時間365日、戦争のことを考えるのは無理で、いや、考えなくてすむ平和の今。
 ウクライナ情勢を思えば、けん制も含めた上での自国軍備の必要性も頭をかすめるが、こうした劇を観ると、正直に「怖い」と震える。大切な人を送りたくないと思う。しかし。その一方。そして、しかし。

バスガイドさん「南部に来てくれてありがとう」の声

 私自身は、10数年前、当時の仕事の関係で沖縄本島を訪れ、帰りの飛行機までの時間に、バスツアーに参加した。
 たまたま時間が合い、軽い気持ちで南部ツアーを選択。その時、バスガイドの女性が「皆さま、観光地でもない、この、南部のツアーを選んでいただきありがとうございます」と言ったことが心にずっと残っている。ひめゆりの地を見学し、亡くなった女子学生たちの写真を見た記憶はうっすらあるが、申し訳ないがその記憶はやや薄い。
 その、顔も声もとうに忘れたバスガイドさんが「ありがとうございます」の方が、自分の心に何かを残したのだろう。生きている人間の生の声、と思い。記憶の中から、それが浮かび上がり、脳みそをつつく。
 近いうちに、再び、今度はきちんと沖縄を訪れよう。

新国立劇場演劇研修所の若者たち

 演者たちは、今回の朗読劇上演にあたり、6/21~6/25に沖縄で事前研修を受け、ひめゆり平和祈念資料館を訪ねたり、琉球舞踊ワークショップに参加したりしたという。

 その、新国立劇場演劇研修所の若者たちは、現時点では唯一国が養成する役者の卵たち、のはず(国立大学法人・東京芸術大学に演劇科はない。公立では、兵庫県立芸術文化観光専門職大学=平田オリザ学長=が2021年春に開校)。

 俳優養成所では、以前ほどの倍率ではないが、以前、文学座養成所の人気が高い。その文学座の西川氏(この演劇の演出担当)らが指導に参加していることもあり、新劇、リアリズム演劇を中心としたオーソドックスな演技指導がなされている。3年間のうち、確か今は年に1人以上が強制脱落していく(内部競争がある)、やや厳しいシステムを導入したかと。
 しかし、修了しても新国立劇場には付属劇団がない。修了後は「研修所出身」のプロフィルをもとに国内外の公演に散らばっていくしかない。今のところ、一般人の目に付くほどの「研修所出身」活躍!!にはなっていないと感じるが、終了生もそろそろ四十路。飛躍、成長していることを祈る。

 なわけで、今回の上演も、20代前半の若者たちが、そつなく、綺麗に、かつ情熱的に、まっすぐに演じた。この中から、スターが生まれるか、現時点で成長株がいるのか、まるで自分にはわからないわけだが。
 この劇を観る前日には、演劇駅数十年のベテランたちのプロの芝居を観た(その評も書く予定)。それに比べれば発展途上は明らか。やはり、経験を積んだ違いは大きい。というわけで、技量はまだまだだが(と、素人が言うww、といっても最低限はクリアしているはず)、彼女ら彼らの成長を、繰り返し、祈る。期待する。

 平和を祈る。 

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