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ねじまき鳥クロニクル【読書感想文】

3冊に及ぶ村上春樹著作『ねじまき鳥クロニクル』。思ったより読み終えるのに時間かかってしまいました。

ざっくりあらすじ

「僕」であるオカダトオルは突然妻のクミコに離婚を告げられ、家出される。それと同時に、「僕」の周りでは奇妙なことが次々と起こり始める。突然失踪した猫。妻の兄である綿谷ノボルとの再会。預言者だと自称する加納姉妹との接触。昔お世話になったおじさんの死去、そして遺言。様々な人との出会いを通し、「僕」は妻との再会を果たすことができるのだろうか。

「死」

本書では戦争にまつわる引用が数多く登場するのですが、それに関連し、「人の死」は1つの大きなテーマとして取り上げられているように思えます。1章の冒頭文では、幼い少女である笠原メイは「死」についてこのように述べます。

「人が死ぬのって、素敵よね」 ー笠原メイ

なんだか怖い発言ですね。笠原メイは不登校で「僕」の近所に住む少女なのですが、よく「死」に関する発言をします。

「私は思うのだけれど、自分がいつか死んでしまうんだとわかっているからこそ、人は自分がここにこうして生きていることの意味について真剣に考えないわけにはいかなんじゃないかな」 ー笠原メイ

なぜ彼女はここまで「死」にこだわるのか。それは幼い頃、家族と離れて暮らし、幼いうちに姉を亡くしていることに起点しているのかもしれません。現に、彼女は数年前に、一緒にバイクに乗っていた少年を突き落とし死亡させています。その時の感想も恣意的でやったのではなく、「なぜかやってしまった」と振り返っています。このように、彼女はこれまでに愛よりも哀しみに触れた回数の方が多く、結果、「死」という概念から一般的にいうまともな距離を取れていないように感じます。

「死」に関連した歴史を持つのは笠原メイだけではありません。大学の頃に母を亡くした「僕」、20歳の時に自殺しようと考えた加納クレタ、夫と母を亡くしシングルマザーになった「ナツメグ」、そして血なまぐさい戦争に巻き込まれた間宮、本田、「ナツメグ」の父親。このように、やたらと「死」の匂いがつきまとう小説です。

後ほど書きますが、この作品で描写されているのは「死」をもたらす人の「憎悪、憎しみ」。その残虐性、そして恐ろしさを浮き彫りにするために、絶えず「死」は登場人物の近くで漂っているのかもしれません。

「ねじまき人間」ならぬ「ねじまき鳥」

本書のタイトルである「ねじまき鳥」ですが、これは登場人物が何かしらの憎悪に巻き込まれた時に、ねじまき鳥と呼ばれたとりが近くに来てギイイイイとネジを巻いています。これはネジをまけば動くという、あのねじまきが付いているおもちゃのことをさしているように思えます。(それにしても、この「ギイイイイ」という表現、なんだか怖いですよね)

彼らは人形が背中のネジを巻かれてテーブルの上に置かれたみたいに選択の余地のない行為に従事し、選択の余地のない方向に進まされた。ー本書抜粋

つまり、「ねじまき人間」のように、上からの命令に逆らえず動く人間、そしてその行為から広がる憎悪を察した時に、このねじまき鳥が鳴いているように感じました。その残虐性は、特に戦時中の残虐行為と重なり、リーダーに命じられて殺したくない人を殺したくない方法で殺す、などといった残虐な場面でもねじまき鳥は出てきます。

そんなねじまき鳥が示唆する「憎しみ」そして「憎悪」とはどんなものなのだろうか。

憎しみ、憎悪 (戦争、綿谷ノボル)

人の憎しみはおぞましく、その憎しみは強い伝染力を持っており、止められない力として他者へと繋がっていく。それは複数人の間で発生するものではなく、長い歴史を通して今現代にまで伸びる、図太く気味の悪い影として存在します。

本書では、「憎しみ」は日本の戦時中、ノモンハンの戦いにまで遡ります。ノモンハンの戦いとは、1939年5月から9月にかけ、満州国とモンゴル人民共和国の国境を巡って争った戦いです。この戦時中の話は本田さんと、その友人間宮という元軍人、そして登場人物の1人であるナツメグの父からの体験談として語られています。当時の日本兵は、機械化部隊されたソ連とは技術の差が圧倒的で、数多くの兵が自殺を強いれられ戦死したとされています。特に本書では「皮剥男」なるソ連の男が、日本軍を捕まえては全身の皮をゆっくり剥いでいくという、軽佻浮薄な、利己的かつおぞましい殺し方をする場面があります。この人物は当然道徳心や良心のかけらがなく、常にどうやって周囲の恐怖心を操り人を動かせるのか、を中心に考えています。

歴史の因縁

このような、間宮、そしてナツメグの父が体験した戦時中のおぞましさは今現代ではありえない話ではあるが、かといってその憎悪は消滅したわけではないことを示唆しています。人を通じて憎しみというものは語り継がれるものであり、そう簡単には憎悪を切れない。その人物こそが、妻の兄である綿谷ノボルなのです。

具体的には描かれていないのですが、彼の性格は「僕」が感じるにとても表面的であり、周囲の関わる人間(自身の妹であり、僕の妻であるクミコを含め)を次々と不幸にさせていったのです。そんな彼は表では東大卒で頭が賢く、有能な若い政治家として世間から期待されていました。

「ある種の下品さは、それ自体の力で、それ自体のサイクルでどんどん増殖していく。そしてあるポイントを過ぎると、それを止めることは誰にでもできなくなってしまう。たとえ当事者が止めたいと思ってもです。」    ー「僕」から綿谷ノボルへ

そんなノボルに対し、「僕」はこのような言葉を投げかけます。彼の中には確実に何かしらの「憎悪」「下品さ」が存在しており、「僕」はこの彼の招待こそが、妻を自分の手元から離れさせ、陥れた原因であると突き止めます。世間からすると「若く有能な政治家」として見られているのも、憎悪というのは目に見えない場所に隠れているのだということをあらわしているのかもしれません。

「憎しみというのは長く伸びた暗い影のようなものです。...それは両刃の剣です。相手を切るのと同時に自分をも切ります。相手を激しく切るものは、自分をも激しく切ります。命取りになる場合もあります」 ー加納クレタ

そんな憎悪の鎖は簡単には止まりません。現に、憎悪はそれを止めようとした人を破壊します。物語では、それは戦時中に逃げ切れたけど将来の有望を一切失った間宮であり、綿谷ノボルの影響で夫から離されたクミコであり、同じく”汚くされた”加納姉妹であり、夫からの死をきっかけに不幸な超能力を持つようになったナツメグと、言葉が話せなくなったその息子シナモンであります。

そんな断ち切れぬ憎悪に全力で向かうのが「僕」なのですが、物語の終盤で「やりたくないけれどやらなければいけない残虐なこと」をします。ここでも残虐さが出てくるのですが、彼の行う残虐さは、戦時中の話で出てくる残虐さとは違うことが以下の引用文からわかります。

「そんなことをしたくなかった。でもしないわけにはいかなかった。...憎しみからでもなく恐怖からでもなく、やるべきこととしてそれをやらなくてはならなかった」 ー「僕」

これこそ、憎しみを断つことは難しく、それを断ち切る勇気が必要であることがわかります。それも、このセリフは逆説的に捉えると、相手に対して同じ憎しみを持ちながらであったりとか、恐怖に支配されながらでは断ち切れないことをを示唆しているように思えます。戦争と同じで、「敵であるアメリカを撃つ!」であったり、「上からの命令に逆らえないから殺した」などでは何も憎悪を断ち切ることはできない。そんな平和的解決先の提案として、村上さんの考えが埋め込まれているよに思えます。

最後に

この物語を描いた頃を起点に、村上春樹では現代社会の問題である戦争、歴史、宗教などの触れにくい部分を引用しているような気がしました。特にこの物語では戦争の引用が多く、すぐそこに「死」が見えるのではないか、と感じてしまうほどです。「死」をまだ身近に感じたことがない人生を送ってきた私にとって、ちょっとまだ読むのに早すぎたのかも。また数年後に読み返してみたいです。

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