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【読書感想文】限りなく透明に近いブルー

本屋へ寄るとき、みる棚は決まって「村上春樹」。そしてその隣に必ずあるのが「村上龍」。なんとなく一番有名な作品『限りなく透明に近いブルー』を手に取ってみました。本書は彼が24歳の時に発表され、群像新人賞とともに芥川賞を受賞した、衝撃の一作です。

ざっくりあらすじ

場所は東京都福生市。アメリカ軍基地の近くに住む主人公リュウ。その影響からか、彼は19歳にして女友達を娼婦として「パーティー」へ売り込み、空き時間には麻薬とセックスを繰り返す。彼の同級生らも、同じように鬱憤とした、気だるく淫らな生活を送る。そんな彼らの自堕落な生活を淡々と描いた作品。

居場所がない彼ら

激しいまでにセックスと麻薬を繰り返し、公共の場では他の人からジロジロ見られる「異常集団」。そんな彼らの言動はいつもふわふわと宙に浮いていていて、つかみどころがありません。誰しもが蔑視してしまうほど、楽観的で無責任な彼らの生活。しかし、彼らは本当に「ただのみだらな異常集団」なのでしょうか。

彼らの言動は淡々と描かれており、かすかな感情の揺れさえないように見えます。しかし注意深くみてみると、彼らは孤独から逃げるために、自ら自墜落な生活に身を落としていることが読みとれます。

たとえばこのシーン。

「あなた変な人よ、かわいそうな人だわ...うまくいえないけど本当に心からさ楽しんでいたら、その最中に何かを探したり考えたりしないはずよ、違う?」 ー リリー、リュウに向かって

ことあるごとに過去を回想し、「探したり考えたり」するリュウ。これに対し、恋人のリリーは「可哀想」だとぼやくのです。過去の記憶というものは、リュウにとって頭の隅にこびりついた塊のようなもの。彼は過去にとらわれ、いま生きている瞬間を「本当に心から」楽しめていないことがわかります。

過去の記憶とは何なのか。それは彼がある日、麻薬に溺れながら「過去に帰りたい」と激しく訴えるシーンで露呈します。

「俺帰ろうかな、帰りたいんだ。どこかわからないけど帰りたいよ、きっと迷子になったんだ。もっと涼しいところに帰りたいよ、俺は昔そこにいたんだ、そこに帰りたいよ...いい匂いのする大きな木下みたいな場所さ、ここは一体どこだい?ここはどこだい?」ーリュウ

「もっと涼しいとこと」「いい匂いのする大きな木下」これらの言葉は、彼の幼い記憶であり、「真の居場所」を示しているのでしょう。麻薬とセックスを繰り返す日常はただの見せかけにしか過ぎず、本当に彼が欲しい居場所はどこかもっと遠い、「大きな木下」のような、あたたかく包み込んでくれる場所なのです。そう捉えると、リュウという少年は自分の居場所を見失った、救いようのないあわれな若者であることに気づきます。

大勢の友だちと一緒に呑んでいても、なんだか無性に寂しくなる。そんなどうしようもない孤独感は、誰しも一度は感じたことがあるはずです。リュウのように、私たちは自分にとって本当にあたたかいと思える居場所を、迷いながら、遠回りしながら、時には破天荒なこともやってみながら、探し続けているのではないのでしょうか。

こちら側でとどまるには

この世界は、なんとなく「今生きているこちら側」と、「死にゆくあちら側」のふたつの世界にわかれているような気がします。

最初にお断りしておきたいのですが、わたしは決しておばけや幽霊の存在を語りたいわけではないのです(生まれてこの方霊感と呼ばれるものがなく、特にそのような存在に目を向けずに生きてきました)。わたしが話したいのは、現実世界の「こちら側」でとどまるには、何か現実的で確立した方法を身につけないと、気づいたらふわふわと「あちら側」へいってしまうのではないのか、という、「人間」そのものの言動についてです。二本の確立した足で地面に立ち、この世界で「ちゃんと」生きるのはとても難しいことです。地面に自分の足をしっかり繋ぎ止める手段を見つけないと、いとも簡単に「あちら側」へふわふわと行ってしまう。例えば芥川や太宰治らは、明らかに何かしら意識が「こちら側」ではない、どこか遠い「あちら側」でさまよっていたように感じます。この「こちら側」と「あちら側」の境界線は、繋ぎ止める手段がなければ、誰もがいとも簡単に飛び越えてしまうのです。

麻薬とセックスに溺れる彼らも、「こちら側」でとどまる手段を模索するシーンがあります。

「俺とヘロインだけじゃあ何か足りないような気がしたな...玲子とかお袋じゃないんだな、あのときのフルートだって思ったんだ」ーオキナワ

オキナワと呼ばれる少年が、自分の人生に足りないものは「あの時のフルート」であると話します。「あの時のフルート」とは、主人公リュウが趣味で吹いているフルートのことを指します。この「フルート」は、リュウが唯一麻薬をしていないシラフの状態で行った行動であり、これこそが「こちら側」でとどまる唯一の手段であると捉えました。つまり、麻薬やお酒などで酔った状態でなく、シラフで心から楽しめる、いわゆる自分だけの人生の嗜好品のようなもの。フルートを吹いている時、リュウの足は地面にしっかりとついており、確実に「こちら側」にとどまることができるのです。この「玲子とかお袋じゃないんだな」という言葉からも、自分を「こちら側」でとどまらせる最終的な手段は、恋人でも家族でもなく、自分自身の力なのだと訴えかけているように感じました。

最後に

前回読んだドストエフスキーの反動で、とても曖昧で抽象的な感想文になってしまいました。後半で書いた「こちら側」「あちら側」に関してですが、うまく伝わるか。いまいち不安です。このふたつの世界と、それを隔てる境界線については時々考えてしまうことがあります。また、いろんな本でもよく題材にされており、例えば村上春樹の『IQ84』では、この異なるふたつの世界を主題テーマとし書かれています。最終的に、何がわたしを「こちら側」でとどまらせてくれるのか。もっと大きな意味でいうと、この世界で生きる意味はどこにあるのか。突き詰め次第では「あちら側」へいってしまう、とても危なく、それでも大切な、人生究極の難題のように感じます。

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