大企業事件簿① オッパブはコミュニケーション
その日は、水曜日だった。
27歳の冬。初めての転職で入社した大手企業での、配属初日。私にはもったいないと思うくらいの、日本を代表する超有名企業。
小さな居酒屋で、部署の先輩数人で開いてくれた、私のプチ歓迎会。先輩たちはみんな良い人で、楽しい夜は徐々に更けていった。
途中で、上司のT課長も合流した。
22時半まで残業をしていたのに、その後、私の歓迎会をやっていると聞いて、わざわざ来てくれたのだった。
なんて良い上司なのだろう。水曜日の23時だというのに。
そうしている間に、時計の針が、てっぺんを回った。もうすぐ終電だな、と思った。
そろそろお会計かな、と周りを見たが、なぜか誰も帰ろうとする様子がない。
みんな飲み会が好きそうな人たちだが、今日は華の金曜日ではない。
さすがに帰らないとな・・・と思い、「私、そろそろ終電なので・・・」と言うと、
T課長が、真面目な顔をして「いや、大丈夫。」と言った。
何が大丈夫なのか全く分からなかったが、上司も先輩も、帰ろうとする私を何度も引き止めて、結局私はその居酒屋で、終電を逃した。
その後、私たちはタクシーに乗り込み、T課長の行きつけだというお洒落なバーで、もう何杯か飲んだ。時計は深夜2時を回った。
明日も朝8時には出勤しないといけないのに・・・。
そのバーを出て、今度こそ帰るのかと思った時、先輩のKさんが、T課長に興奮気味に話しかけた。
「Tさん、この前、いいお店見つけたんですよ!」
T課長は、酔っ払って赤くなった顔で答えた。
「え、あれだろ、あの六本木のバニーガールの店だろ?」
Kさんは、また興奮気味に言った。
「違いますよー。 赤坂のオッパブですよ! すごいんですって〜〜!」
どうやら、この後は男5人でオッパブに行くらしい。
私はオッパブには行ったことがない。
正直、興味もない。
いや、もちろん私だって、おっぱいは大好きだ。
おっぱいには大変に興味はあるけれど、見知らぬ他人の何カップかも分からないおっぱいを、お金を払う代わりに触らせてもらおうなんて、おっぱいに対して失礼だと思う。
「あ、私は帰りますんで、今日はありがとうございました。」
そう挨拶して帰ろうとすると、23歳、この中で一番若いS君が私を引き止めた。
「いやいやいや、行きましょうよ!」
S君は小声で私の耳元で、「安斎さん、ここは行っておいたほうがいいです。」と、妙に深刻そうに、冷静な声で囁いた。
私は、S君の制止を振り切ってタクシーに乗って帰った。
すでに深夜2時半である。これだけ付き合えば十分だろう。そう思った。
帰宅して、眠りにつく頃には3時半を回っていた。
翌朝8時、眠い目をこすりながら会社に出勤すると、すぐにS君に声をかけられた。
周りから隠れるように小さな会議室に入ると、S君は真剣な目で私を見た。
彼はオッパブに行ったのだろうか。一体何時に家に帰ったのだろう。彼の目は赤くて、見るからに寝不足のようだったが、何か切羽詰まった様子だった。
「安斎さん、やばいです。先輩たち怒ってます。すぐに謝罪したほうがいいです。」
「えっ?」と思って、「謝罪?何をですか?」と私が聞くと、
どうやら、昨日一緒にいた数人の先輩たちが、深夜2時のオッパブに付き合わなかったことを、本気で怒っているらしいのだ。
「とりあえず、一人一人にメールで謝罪して、その後、今日中に時間を見つけて、一人一人に謝りに行ったほうがいいです。うちの会社、こういうの厳しいんで」
私よりも4歳も若い彼は、真っ直ぐに私を見て、真剣に言うのであった。
なるほど、S君は、入社したばかりで社風を知らない私が、社内で変に浮かないように気を使って教えてくれたのだ。いい奴じゃないか。
なんで謝らなければいけないのか、全く理解はできなかったが、とにかく、真面目そうなS君がこんなに真剣に言うのだから、言う通りにしておいたほうがいいのであろう。
私はメールを書いた。
「昨日は私の歓迎会を開いていただき、ありがとうございました。また、折角お誘いをいただいたのに、3軒目のお店にお供ができず、誠に申し訳ございませんでした。」
まあ、そんなに本気で怒ってはいないだろうし、よく分からないけど大丈夫だろう、と思った。
大丈夫ではなかった。
その少し後、T課長に呼び出され、個室で話をされた。
私は、入社してすぐのことなので、書類手続きがまだ残ってたのかな?と思った。
「君さあ・・・分かるよね。
営業っていうのはさ、社内にしろ社外にしろ、コミュニケーションが大事なんだよね。
だからさ・・・、 君のためにみんなが歓迎会を開いてくれたんだからさあ、付き合いは、大事にしないとさ。
その・・・、 何が言いたいかっていうとさ・・・」
私はようやく、
「自分が上司から説教をされていること」に、
気がついた。
え? もしかして・・・・、 これは・・・・・
「昨日オッパブに行かなかったこと」を、怒られているのか。
仕事中に上司から呼ばれて、会議室で?
いや、まさか・・・。
T課長は、固い表情で、更に続けた。
「この会社はね、というか、この部署はね、仕事のほとんどがルーティンワークなんだよ。いわゆる単純作業。業務量が多いから時間はかかるけれど、一度仕事を覚えてしまえば、誰でもある程度はできる仕事なんだよね。
だから、なんというか・・・、仕事じゃあ、差がつかないんだよ。
じゃあ、どうやって差をつけて、社内の出世競争を勝ち抜くと思う?
・・・・・・・・。
・・・・・飲み会だ!!
・・・飲み会しかないんだよ。先輩達や偉い人に朝までついて行って、どこにでも飲みに行って必死でアピールしないと、この会社じゃ出世はできないよ。」
呆然としている私に、T課長は更に続けた。
「君が入ったのは、そういう会社なんだよ。もう入っちゃったんだからさ。
だから、分かるよな。
次回は頼むぞ。 ほんとに。
オッパブは・・・・・コミュニケーションだからな!」
私の上司、47歳の営業課長は、本気で、真面目に、説教をしていた。
「オッパブは、コミュニケーション。」
「おっぱぶは、コミュニケーション。」
「おっぱぶは、こみゅにけーしょん。」
“Oppub is Communication.”
・・・・・・。
私は、頭が真っ白になった。
もう私は、この会社に入ったことを、部署の配属初日にして、完全に後悔していた。
どうしよう、と思った。
人生最悪の瞬間だったかもしれない。
会議室を出て、席に戻った後、私は気づいた。
昨日はあんなに優しかった先輩たちが、嘘のように冷たい目で、私を見ていた。
「アイツは、昨日オッパブに来なかった。」
「自分の歓迎会の夜だというのに」
「礼儀がなってない。ゆとり世代だからか。」
「新人がオッパブに誘ってもらえるだけでも有り難いのに。まったく。」
私は、真実を知った。
そうだ。
オッパブは、コミュニケーションだったんだ。
結果的に、私は、この1年後に会社を去ることになる。(K先輩は、私が退社する日までずっとオッパブの件を根に持っていた。)
個人的には、よく1年も続いたなあ、と今でも思うが、なんせ世間体的には最強の超大手優良企業なので、周りからは「あんなに良い会社をたった1年で辞めて、20代で3社目だなんて」と呆れられたし、親には泣かれた。
それから何年か経っているが、私は全く後悔していない。
20代で、大手有名企業を去ったことを。
あの日、赤坂で、誰かのおっぱいを揉まなかったことを。
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