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感覚について

これまで日記から映画・芸術鑑賞や旅行・観光の記録まで全てscrapboxというツールにまとめていたが、システムの性格上これらの文書の保存には向かないなということでnoteに掲載していくことにする。

というわけでまずは不定期(三日に一回くらいのペース)で行ってきた日記の更新をこちらでしてみることにする。日記といってもまだお昼過ぎなので昨日のことや最近のことの雑記といった感じだが。まあそんな感じで緩く書ければといったところ。

今日は週に一回の大学に行く日だ。大学側のコロナの感染予防策と、私自身四回生の秋学期ということもあり、一週間のうちで対面授業はこの日のゼミのみ。現在は卒論の執筆に取り組んでいる。その90分のためだけに神戸から約二時間かけて京都まで行くというのもなんだが、それでも教授や学友らと話す機会はこの日以外ほとんどないので毎週通っている。

行きの電車の中ではオギュスタン・ベルクの『風土としての地球』という本を読んだ。

まだ第一部、第一章の「利根川と靄、あるいは風土性」という部分を読んでいるところだが、20世紀の近代文学の手法である「意識の流れ」を思わせる語り口で、利根川流域での体験、思考と、和辻哲郎『風土』でも論じられた人間存在や社会的存在の構造を掛け合わせて記述された文章は読んでいて面白い。

読み進める中で「おっ」と感じたのが以下の部分。

重要なのはイメージなのだった。イメージは、その時、一つの単語と一つの風景とをつなぐ道となったのだ。

『風土としての地球』p.30

この言葉からとっさに連想されたのが昨夜参加した『町家オープンカレッジvol.8「庭の世界と自分をつなげることで見えた可能性」』においてお聞きしたお話。このイベントはテーマの通り日本庭園を軸とした講演や発表を聞くといった内容だったが、個人的に受け取ったメッセージは、文化(伝統的な物でも現代的な物でも)と接するにあたって、「感覚」や「イメージ」が先行するのが好ましく、対照的に専門的な知識はあまり意識しなくていいというもの。このメッセージと本書の引用部分が重なったのだ。

さらにこれらの内容は、以前読んだエルンスト・H. ゴンブリッチ『美術の物語』の導入部分、下記の記述にも重なる。*意訳

  • 美術の歴史(技法や作家個人の歴史も含む)を知ることで俗物根性(知識先行で作品の外側しか見ない)が身についてしまわないように注意すべきだ。   

  • 新鮮な目(作品のちょっとした手掛かりや、隠れた調和に反応できる心)で作品を観察し、新たな発見への旅に乗り出すのは骨が折れるが、同時にそこからははるかに大きな見返りを得ることができるだろう。

この部分は、絵画の知識を少量携え、ウキウキで美術館に足を運んでいた当時の私にとって金言でもあった。本を読み、講演を思い出し、さらに別の本の一節を思い出す。コンボが決まったみたいでちょっとだけ嬉しい。積読ではあるが、私の部屋にはクリスチャン・マスビアウ『センスメイキング』も控えており、この本もまたビジネス社会における「感覚」の重要性について論じられている。

にしても最近は「感覚」という誰もが持ち、そして軽視されがちなテーマについて様々な角度から触れることができている。卒論のテーマこれが良かったのかな。やりにくそうだけど絞ればなんとかなりそうな… そんなこと言っててもしょうがないので今のテーマで頑張ろう。

最後にはなったが、先ほど触れた『町家オープンカレッジ』というイベントで、初めて「おにわさん」という方の存在を知った(おにわさんさんが正しいのか?)。個人で全国の庭園の情報を発信しておられる方なのだが、そのクオリティーとメンタリティに驚かされた。公式ホームページは勿論、noteやInstagramも更新されているので是非。憧れるなあ…

この方からは大きな刺激をもらうことができた。私も「好きこそ物の上手なれ」だけではないが、好きなことを形にしていければとは思いました。それでは。



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