須磨海岸の暗澹たるや、偏屈王はかく語りき
感覚としては「類として友を呼ぶ」といった具合だろうか。ちょっとだけ難しい言葉が嵌め込まれているこのタイトルを目にしてやってきたくれた方。つまるところの知的好奇心旺盛な読者の方が居てくだされば嬉しい限りです。
この下も読んでいってもらえると更に嬉しいです。
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祖父母の家で夜ご飯を食べてから、いつものように酒を買って自宅へと車を走らせる。
散歩しようかな…
柄にもなくそんな考えが浮かぶ。思えば最近は目的を持たずに時間を過ごすということをしていなかった。卒論、バイト、映画、読書、執筆…
あ、ネットサーフィン… 待て、そんな時間と気高き我が散歩を同じ序列にしてたまるか。必死に差異化を試みる。
私が求めるのはもっとこう、人間にとって根源的に自由な時間だ。目的意識からの解放だけでなく、なにかに集中することもない。布団にさえも囚われない。そう、紛れもない私の時間だ。無理やりだが個人的には満足。これで思う存分久しぶりの散歩を満喫するのだ。それにしても偏屈だな。
皆さんは偏屈王をご存知だろうか。この馬鹿らしくも聡明さを感じざるを得ない、それでも愚鈍さを一身に纏った、まさに滑稽としか言い表せないネーミングは今でも頭にこびり付いている。私が彼に出会ったのは高校三年生の秋。森見さんの作品に登場してきた。正確には人物ではないがそのネーミングに一目惚れをし、私にとって憧れの存在となった。
ふと考える。私はこの大学四年間で彼に近付くことができただろうか。学生生活を思いかえしてみると、曲がりなりにも偏屈さを貫くことは出来たと自負している。頑固で負けず嫌いな面を隠すことはしなかったし、少しでも違和感を感じたら言わなくていいことでもすぐに口に出した。我ながらよくやった。関わってきた周りの人間は、迷うことなく偏屈王の称号を私に差し出すだろう。
しかし。しかしだ。王ではないことは明らかだ。自分自身が一番よく理解している。私にかのパンツ番長や斎藤(『新釈 走れメロス 他四篇』「山月記」に登場)のような信念はあったのか。無論ない。持てるはずもない。悔しさは感じている。心の奥底からの悔しさだ。
今日をもってそんな私に、私から、偏屈将軍の位を授ける。勿論将軍としてふさわしい偏屈ぶりは発揮できていない。恐らく下級士官らはこのような陰口を叩くだろう。偏屈ぶりが足りない、と。
当たり前だ。自分が一番わかっている。その上で将軍という位を授けたのだ。私は四月から社会人である。毎日のように会社に勤めて、家に帰って寝て。そんな生活でいま以上に偏屈になることが出来ようか。いま、このときが、私の人生における偏屈の最高潮だ。森見先生は言う。
この一番清らかな、純粋な生の時期に、持てる限りの偏屈さを発揮できた私に心より敬意を払いたい。その上での将軍だ。王への憧れは死ぬまで持っていたい。それにしても頑張ったな、と。ここで私の”Road to 偏屈王”シリーズは一区切りがついた。この美しき物語の終わりに少し感動さえしている。
ごめんなさい、本題に戻ります。散歩の場所として思いつくのは、自宅があるマンションから線路を挟んですぐの場所。そう、須磨海岸だ。車から降りて、降り切った踏切を待つ。
一本、二本、三本と電車が通り過ぎる。長い、長すぎる。寒くなったら帰ろうかと考えていたが、もう寒い。四本目が通るのを待っているとき、もう帰ろうかとも思ったが、ここまでの時間を無駄にしたくはないと脳がゴネる。埋没費用、恐るべし。
大学一回の頃、経済学や経営学に興味を持っており、なんで文化学部なんて名前のよくわからない学部に入ってしまったんだと後悔していたのが懐かしい。今は胸を張ってこの学部を選んでよかったと言い切れる。
はい、戻ります。やっと上がった踏切を見上げて、小走りで海岸の遊歩道へ向かう。
海を感じたい。
詩人気取りでコンクリートでできた波止場の先端まで歩みを進め、空を見上げた。星空が浮かんでいるが、どこか霞んでいる。周りは闇に包まれているはずだが。恐らく大気が街の光を受けているのだろう。
形から入ろうとぼーっとしてみた。波の音、船を括り付けた縄がきしむ音、電車が走る音、遠くで聞こえる駅のアナウンス。不思議な空間だ。暗闇、さざ波の音などをはじめとする純粋な自然とともに、その自然を媒介したぼんやりとした文明の光を感じ、電車という文明の騒音を知覚できる。
この場所のアイデンティティは何なのか。文明から隔たれた地ながらも、自然に囲まれているとも言い難い。寒くなってきたので帰路につきつつ考える。遊歩道を横切るとき、ふと東に延びる道に目をやる。
この空虚感、物々しさすら感じる。狭間とは少し違う、街と自然の融解点における文明の飽和、浸食。無機質な空間。何もないという表現になるのだろうか。そんな虚ろな空気に、思考、意識が吸い寄せられるのを感じ、視線をそらしたのち、遊歩道を後にした。
またしても踏切に遮られ、電車の来る方向を眺める。線路と共に真っ直ぐに伸びた薄暗い道。こちらもまた薄気味悪い。まっすぐ伸びる夜道を見るとどこか不安を感じるのだ。
初めて夜の京都を一人で歩いたときも同じことを感じたな。あのどこまでも道路と街頭がまっすぐ伸びる通りのおどろおどろしさ。なんせ終わりが見えないのだから。消失点に向かって、視線が誘導されていくのも気味が悪い。
子供のころ、どういう風の吹き回しか輪廻転生を当然の真理と信じていたのを思い出す。生まれ変わりを続けつつ、永遠に命が続いていく。その終わりなき命運に凄まじい恐怖を感じ、眠れない夜を何度過ごしたことか。終わりが見えないことの恐怖。
私のこの憂いを見事に体現しているのが夏目漱石の『夢十夜』第七夜である。いくつか引用する。
この物語を読んだとき、「こんな夢絶対見たくない」、そんな感想が真っ先に出てきたのが懐かしい。子供の頃の私にとって、「終わりが見えない」というのは間違いなく恐怖の対象であった。
そんなことを考えていると、近づいてくる電車の轟音と、遮断機の警報音とが重なる。それはそれは喧しい。電車が通り過ぎ、警報音の鳴りやんだ後の静寂。帰れるんだ。
線路を挟んで海側は別の世界。そんなありがちな文句が頭に浮かんだ。日中は間違いなく魅力的な空間であり、ポジティブな意味で別世界といえる。それはあくまで表面的なもの。夜中のあちら側は真に向こう側といった感覚。
部屋に戻り、先ほど感じた得体の知れない恐怖をどう言い表そうものかと。自分では思い浮かばず、恐怖の表現について調べた。そのなかでしっくりきたものこそ「暗澹」である。結果的には散歩という名の言葉探しにはなったが、たまにはこんなこともいいなと感じた。
身体で言葉を探しに行く。
また気が向いたら探しに行こう。最後まで読んでいただきありがとうございました。
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