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スピンオフ

音楽を聴きながら書いてないけど
雰囲気はこんな感じかな(笑)


なんか何日かぶりに開くと
noteってなんだっけ
俺誰だっけ感があって書き方を忘れた。

というよりは今、葬儀場にいて
おばあちゃんをお見送りするため
葬儀前日から泊まりに来ていて
普段PCなのにスマホで打ってるから余計に

おりしも新幹線の不具合で
来れない従兄弟たちも多い
逆に子をつれてきて18.19日の段取りだが
19日は葬儀にでれず
17日にとめてもらい18日昼に帰るという

東京観光便乗型もいた
17日はうちの実家に夕方きて
もてなしだけうけて香典もない
挙句の果てに新幹線が動かないから
18日もやはりとめてもらえないかと

喪主である母親のいない実家にきて
空気の読めない従兄弟を歓待できるほど
出来た妹たちじゃない

いわば自業自得というか一時が万事というか
新幹線を停めたのは日本のみなさん
すみません

うちのばあちゃんかもしれません

それほどきゃら家はだいだい日本を祟る
一族ではあります。んなわけないけど、、、

その従兄弟、お別れ会、告別式
ともにでれないから、おばあちゃんを
安置している場所まで朝早くに
連れて行ってあげたが

息子との東京見物の話で盛り上がっていた
運転している俺はいい皮のツラだな
ついたら1分もせず、もういいです。ってさ

頭にくるよりは笑ってしまった
正直だなと思う。それに時間でもない

実際ずっとそこにある死と対面してきた俺は
何故か涙がでてこない

時間が経つとわいてくるとか言われるが
そういうことではないんだ
なんか悲しくないというのが本音だ

だけど俺は子供の頃、人と離れるのが嫌で
当時は東京大阪の距離があった
俺とおばあちゃん

おばあちゃんが新幹線のホームまで
見送りにきてくれて列車がでるたびに
号泣していた

男は泣くな

そういわれても、例えどんなに痛くても
いっつーいっつーていい苦笑い
悔しいことがあっても歯を食いしばった

2度とあえないわけではないのに
だめだと思いながらも涙はとまらなかった

そんなおばあちゃんはもういない。

だが今は泣けない俺がいる
それだけじゃない
今、おばあちゃんの棺を葬儀場を前にして
悲しみがわいてこない

少し先に仮眠して
みんなが控え室で眠り始めた0時過ぎ
俺はひとり棺の前にいる

おばあちゃんの長女の長男として
役割は怠るつもりはない

人はいつか死ぬ
それは現実だ

単純に順番がある

子供の頃、人が死ぬ感覚を母親の弟
いわゆる大好きだったおじさんの死に触れ
神社にいけば願うことは決まっていた

誰かを神様が連れて行くなら
僕をつれていってください

優しさではない。
それは弱さだった。

自分が寂しい思いをしたくないだけ

綺麗なことはいくらでも書ける
だが、人はいつか死ぬ
ムーンショット計画がうまくいっても
今ではない、いつか俺はきちんと終わりたい

だが、だからこそ生きる意味がある

悲しみがないのは
素敵きなおばあちゃんとの
素敵でもないおばあちゃんとの
エピソードが常に心中にあり
今も生きているからだろう。

おばあちゃんは自分より先に
息子2人をなくしている
それもずっと若い頃に

その悲しみは計り知れない
だがずっと頑張って俺たちの前にいてくれた

母親の時計をみせてもらった
おばあちゃんが亡くなった日のだいたいの時間
夜中1時49分で本当に時計はとまっていた

そんな不思議はたびたびある

偶然なのかもしれない
だが、老々介護になりつつあった
本当に矢先の出来事だった

おばあちゃんは光の方に自ら進んだ

葬儀場、俺しか起きてない真夜中
タバコを吸いにいくとめちゃくちゃ怖い(笑)
だけど、おばあちゃんの棺の前にくると
なんだか守られている暖かい気分になる

生者はときに醜い感情をもっても
思いやりをもって
悲しみが深いことがあっても
立ち直り少しでも光のさす方へ
あるかないといけないな

なんだかそれが
もう一つ先の世界へのカギになる気がしている

そう言えば1人芝生に寝そべってみたら
なんか綺麗だったんだ

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