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面倒臭い人

音楽を聴きながら書いたので
流しながらお読み頂ければ幸いです。

昨日は記事を出さなかった
仕事が忙しかったわけじゃない
他に熱中することがあったから

ただ、それだけの事。

絵を描いていた
それが熱中したことではない。
ふと、Xでも絵をだしたときに

Design is more than design
と、書いてハッシュタグをつけて

ついでに上げたタイミングで
他の人たちのtweetを見る。
誰とはなく皆、素面か?と思う

それは俺にも言える事で

デザインはデザインを超える
英語で表記したんだ
日本人しか見ないアカウントでね。

どんだけ粋っているんだ
Xは絵を張り付けるだけのアカウントに
なり果てているのだけど

まぁ知らずに知らずに
熱中してしまうことはある。
そこに知って欲しいという
想いがあるならば

きっとそれは熱を帯びていく。

noteという媒体は特殊だと思う。
ミクシーとかフェイスブックの
付き合いの後継版のような

年代が経過したことで
SNSの距離感を模索し始めた今だろうか

ところで
スキが多いと嬉しいと思うけど
例えばあなたのスキが
俺からの1だけだろうと

あるいは記事に
毎回スキが100つく人だろうと
俺の記事にくれたスキの重さは同じで
読まれているとか読まれていないとか
人の事は気になることはない。

何故か?と思考を深堀すると

書くときに
暗示にかかっている人はいっぱいいて
読まれている人ほど思考がいいきりに
なっている傾向があるような気がするな

だから読まれているのかもしれないけど
刺激はさらなる刺激を求めるように
段々極端にはなりやすい

誰も恨まずに生きていこう!
何故人は戦争をやめないとか
私は嫌いな人をつくらないとか

書くことは奥底にある
決意表明になってしまうから

いざ、嫌いな奴がでてきたらどうする?
それに、人が戦争をなぜやめないか?
今日の食卓に並ぶ1品を惣菜にしてまで
書く必要のあるテーマかな?と思う

そうやって少しずつズレていく
そこに仲間意識ができると
どんどん自己の正義は正当化される
賛同しないものは敵になりかねない。

自分は酔っているな
その感覚をとても大切にしている。

その感覚がなくなるときは
危険信号のような気がして

デザインはデザインを超えるって何?
何で英語?と、自らにつっこむと
自らに赤面してしまってにんまりする。

noteが特殊だというのは
文章を書くことで
暗示にかかりやすいということだ。

誰かの文章のならば
そう思う、そう思わないを
選択できるけど
自分の文章では正義一択になる自己暗示

だからスキの数など
気にすることもないと思うんだよね。

良くも悪くも
自分が読んでいるのだから。
多くの人に読まれることが
正しさではない

何より、基本は
文章を書く時間があるなら

山に行けば酸素は美味しく
海に行けば自然の壮大さにやられる
壮大な景色をみれば神を感じる

そんな事の大切さを忘れかける

良いふうに暗示をかけることもできれば
その逆もまたある

どんなに嫌いな人でも
その人なりの正義は存在する
それが歪んでいるいないは
こちらの価値観でしかない

俺は自分の正しさを常に
疑って生きているんだ

人生ならば面倒くさい(笑)

しかしまぁ我思うゆえに
我があるのだろう(笑)

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