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プロじゃないダンス好きのただの社会人が気づいたらダンススタジオという「居場所」を作っていた話

初めまして。山瀬加奈です。これから、Iターンで移住した鹿児島で、大人が自分らしく楽しめるダンススタジオを作ります。それに至った背景や、立ち上げに至るまでの試行錯誤をまとめていこうと思います。最初のnoteになるここでは、自分のダンス「な」自己紹介をしてみようと思います。

まず、私は、面倒くさがり屋で、「頑張る」ことが苦手です。


逃げながらも続けた「ダンス」

よく風邪をひく体質だったことから、身体を強くするためにと3歳からバレエを習い始め、目立つことが好きだった自分は発表会に出ることだけがモチベーションになり、普段の基礎のレッスンは見てもわかるぐらいやる気のない子でした。小4で引っ越しましたが、そこでバレエは辞めました。

まあまあダンスは好きだったのでバトンクラブに入りました。でも、バトンを回すことはできるようになっても、投げてキャッチするのはうまくいかない。小6で振付を任されましたが、一度もバトンを投げない振付を作りました。もはや踊りメインでした。バトンはどこ行った。

中学はアメリカに行きました。最初はヒップホップのダンススクールに通いましたがすぐに辞めました。黒人のかっこいい先生が、筋トレをメインに教えてきたので、地獄にしか感じられませんでした。

当時はニコニコ動画に夢中になっていた時期でもあって、踊ってみたの動画を見て見様見真似に覚えていました。K-POPも少女時代が流行っていたころで、こちらも見様見真似に覚えていました。でも、動画で見抜けきれなかった動きや難しい動きは、どうにかして真似したり挑むことをせず、自分の中で簡易化アレンジしていました。

高校はダンス部に入りました。学校の行事や地元の行事の盛り上げ、大会での優勝など目的があるダンス部だったので、基礎練も筋トレも頑張れました。実際に地区大会・州大会で優勝したり、地元のテレビで放送されたりと、目に見えて成果が見えるので、モチベーションになっていました。

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大学はダンスサークルに入りました。でも、他にもやりたいことがあったので、ガチなダンスサークルではなく、楽しくゆるく踊るダンスサークルに入りました。大学ダンス連盟のイベントや学園祭や自主公演でのパフォーマンスなど”ゴール”があったので、仲間と一緒に無理のない範囲で練習できました。

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大学3年生になると今まで先輩たちが教えてくれていたのが就職活動でいなくなってしまったので、私たちが後輩にダンスを教えないといけなくなりました。急いでダンススクールに通い始めました。でも、やっぱり基礎練や筋トレが嫌だ。小4の時から変わらない。そこで出会った社会人が多めのダンススクールが、プロを目指したい人は先生から直接指導を受けてもらい、他の皆は無理せず楽しく踊る、発表会ではみんなで楽しく踊る姿そのものをそのまま見せる、居心地のちょうどよいスクールだったので、そこに入り浸るようになりました。

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私はバレエで悪化した外反母趾の関係でうまくバランスが取れません。高校のダンス部で足を負傷して180度開脚ができません。そして、この、怠惰な性格です。無理しない。楽したい。でも上手くなりたい。自分勝手です。


社会人2年目の時に、調子に乗ってディズニーダンサーオーディションに挑戦しました。周りが本気でプロを目指している人ばかりで、その空気がどうしてもしっくりこず、二次選考で落ちた旨を聞いてすぐ、よかったー!と、逃げるように会場を後にしました。同時に人生かけてプロになろうとしている人たちに失礼なことをしたと思いました。そして、限られた人しか選ばれない世界で、スポーツ業界のようにマジョリティよりも早く自分のキャリア構築をしなければならず、プロになったとしたらなったでセカンドキャリアなどを考えないといけないダンサー業界の難しさも感じ、私はそういう意味でも「ダンスで食っていけないわ」思いました。


I-LAB ダンススタジオという「居場所」作り

社会人になって、大学のダンスサークルの同期から、知人が経営している事務所のスタジオが、空き時間にダンス教室事業を始めたいと考えていて、先生として週1教えてみないか、とお声がけをいただきました。実験的にやってみたいというニュアンスだったので、趣味程度でやっている自分でもよければ、と参画してみることにしました。本業が教育業界にいたので、「わかりやすく教える」というところもまあまあできるほうだったようです。

事務所の名前に「I」が入っていたので、ダンススタジオの名前は「I-LAB DANCE STUDIO」。料金設定やレッスンに適した時間帯、近所に迷惑にならない音量、チラシやホームページでの紹介の仕方、先生の集め方や代講・休講のときの運営の仕方。現場にいる自分がメインになってしまい、何もかもが初めてのなか、手探りで色々と試してみました。

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同時に、自分はプロではないし、このスタジオは副業でやっていくし、といったところがあったので、お金はたくさんとらないことはもちろんのこと、「うまくなりたければ別のスタジオに行けばいい。楽しくなければダンスじゃないをモットーに楽しい時間を作っていこう」という考えで、自分が踊りたい踊り、生徒さんが踊りたい曲、流行りの曲や動き、とにかく「楽しい」を大切に毎週過ごしてみました。

プロではないからこそ、失礼のないように正しく教えられるように自己研鑽も頑張ろうと、怠惰な自分がダンス教室に真面目に通う時期もありました。本業の収入が減って、レッスン代高いわ~、やっぱり基礎練とか筋トレとかプロ目指してる人たちと一緒に踊ってると社会人の私きついわ~と、通わなくなったのですが。体の使い方で正しい知識をゆるーく学びつつ、自分も週1で体を動かすことができるモチベーションを感じよう、と途中から自分のためという考え方を持つようになりました。


そんな、ダンスが好きなただの社会人が、スタジオを運営して4年。

気づいたら、たくさんの生徒さんが集まり

気づいたら、その人たちが楽しく踊る場になり

気づいたら、いろんな人が集まる、居場所になっていました。

レッスン後にパーティーをしたり、みんなでディズニーランドに行ったり、生徒さんが出演する舞台を観に行ったり。スタジオ外・レッスン外でのつながりが増えてきました。生徒さん同士がごはんに行ったり、一緒にライブを観に行ったりもしているそうです。

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生徒さんが友達を連れてきてくれたり、親子で参加してくれたり、私が参加していた市民ミュージカルプログラムから仲間が遊びに来てくれたり、毎回いろんな人が出入りしている場所になっていました。

仲間の転職を応援したり、受験生さんの応援をしたり、親子で参加してくれた時に子どもにみんながやさしく接してくれたり、とにかく、温かい場所でした。

私が本業の仕事の都合で休まないといけなくなった時に代理で教えてくれた仲間たちもその居場所が好きになってくれました。

今までのスタジオの売り上げを全部使って、発表会を企画してみました。でも、発表会という、一方的なもの、参加者側が受動的になるものより、同じ場所で活動している事務所のアイドルの方たちと繋がったり、いろんな人と繋がったり、お互いを知り合う時間にして欲しいと思い、「I-Party」という名前にして、食事や飲み物も用意して、商品がもらえるくじ引きも用意して、観に来てくれた人も、踊る人も、パフォーマンスする人も、みんなが楽しめる場所、みんなが楽しめる時間を作りました。

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「居場所」の広がり

そこから派生するように、色々なこともするようになりました。
千駄ヶ谷にあるスタジオから、どんどん広がっていきました。

熊本・大分での震災が発生した時や、フランスでのノートルダム大聖堂の火事があった際には、自身で自由に決めた参加費の全金額をボランティア団体等に寄付する 「チャリティーダンスワークショップ」を実施しました。すっごい人が集まった上に、数万円の寄付が集まりました。

職場でストレッチクラブを作ることもありました。始業が10時だったので、朝活でみんなで朝にスタジオを借りて運動しました。職場の仲間とのコミュニケーションも増えるきっかけになって、とてもよかったなと思います。

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友人や知人の結婚式でのパフォーマンスの演出や、フラッシュモブの依頼も受けるようになりました。新郎新婦と沢山話し合って、会場の人も一緒に楽しんだり、踊ってもらえるような企画をしました。

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NPOの学校訪問事業に携わるようになりました。色々な職業、色々な年齢の大人がカラフルなTシャツを着て小学生に会いに行き、一緒に世界の色々な民族舞踊を踊ることで「正解の動きができているできていないではなく、楽しく踊って、世界の音楽を感じる」ことを伝えてきました。

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2020年5月の緊急事態宣言時には、生徒さんやダンス仲間を集めて、1つのダンス作品をオンラインで作りました。28人と1匹が参加してくれました。

さらには、本業の教育のお仕事が子どもと関わる仕事なのですが、ありがたいことに子どもたち向けのダンスナンバーの製作にも携わらせていただくことができました。2021年3月27,28日に中野ゼロ小ホールで開催されるイベントに、「鬼滅の刃」のオープニングの歌で踊ったダンス作品を中野に住む子どもたちが披露します。

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プロでもないのにこうした色々なことをやらせてもらえるようになって、本当にありがたいなあと思うと同時に、うまいとか下手とか、関係ないよなあ、楽しいことをすることに年齢制限はないんだよなあ、と改めて感じるようになりました。


プロでもない、実績もない、ただ、ダンスが好き。でも、頑張るのは嫌で、上手くはなりたいけどでもまずは楽しく踊りたい。そんな人でも、こんなにいろんなことをやらせてもらいました。





2019年12月、本業の海外へのキャリアへの挑戦のため、スタジオをクローズ。事務所の経営難によるスタジオレンタル代の「超」大幅値上げもクローズを決意する後押しになりました。

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2020年1~3月、挑戦の前にアイルランドに社会人留学、勉強しつつ、アイリッシュダンスを学びました。

2020年4月、渡米延期の連絡。

2020年7月、実質内定取り消しの連絡。

2020年10月、キャリアを見直し、鹿児島に移住しました。


やっぱり身体を動かしたい私は、ダンス教室を探し始めました。

でも、体験レッスンを受けていて、思いました。

自分が楽しめる教室を探して通うことも良いのだけど…


私が東京で作っていた「I-LAB」を、

鹿児島「で」作らなければいけない…!


長くなったので、次のnoteで、上記のように思った背景をまとめてみます。



(2/26追記 クラウドファンディングを始めました!)
なぜクラウドファンディングになったかの経緯は第三話にて…ぜひご支援・拡散よろしくお願いします!!

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