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小説『Night night』を知っているか

ジョン・H・ワトソン、アーサー・ヘイスティングス、アーチ・グッドウィン……探偵がいるから、助手も存在する。Not bad,Quite good(良いんじゃない?好きではないけど)

 ロンドンにも青空を願う人間はいる。そう、俺みたいな。
 こう年がら年中、霧煙る曇天に埋もれれば、無駄に沈みすぎる思考に辟易もする。『いい加減慣れたよ』なんて皮肉交じりに言うロンドナーなどクソ喰らえだ。どうして愛せると思う? アールグレイとビスケットじゃ、冷えきった身体は温まらない。ここはやっぱり、コークとピザでないと!

「紅茶を」
「どちらの?」

 朝から運が悪かった。勤め先の研究室から程近いカフェが休みだった。『Speedy』って言ったっけ、店名の割には注文した品が出てくるのは遅かったけれど。頬のこけた下流階級そのものな老婦人が、舌打ちしながらBBCのニュースに文句を言ってる。そんな低俗で安上がりな、独りに没頭しやすい店だった。
――だから本当は、今日も『speedy』に行きたかったのに。


「どれでもいい。どれも同じだろ」
「当店では、イングリッシュブレックファースト、オレンジペコー、ミント、フレーバーティ合わせて20種類を準備してございます」
「近くの店が休みだったんだ。ここには二度と来ない」
「それでも茶葉をお選び頂かないことには」
「適当にブレンドしてくれ」
「Life is a series of making choices(人生は選択の連続です)」
「出典はニーチェか?シェイクスピアか?」
「いえ、私が考えた名言ですが」
「エスプレッソひとつ!」

 たまたま選んだ店も、また最悪だった。
ノリの効いた白シャツにネイビーのスーツ、真っ黒なギャルソンエプロンが嫌味なほど似合う紳士が、丁寧な物腰に高圧的な態度で、注文を聞いてきた。察するに『speedy』の老婦人とは決して相容れない人種だろう。会話すら成立しないかも知れない。食えない、五月蠅い、いけ好かない。一番苦手な類いのイギリス人だ。

「それでは、特別なブレンドをご用意します」

 エスプレッソの注文など聞いていないフリで、その紳士は手元にティーと書きつける。そのままエプロンを翻し、カウンターの奥に消えていった。俺はと言えば、無駄な押し問答に思いの外体力を奪われていたようで。書類を出す気にもなれず、キッチンから溢れる豆スープの匂いをぼうっと追いかけていた。

「おまたせしました。こちらを」
「……これは」

 数分後、紳士によって運ばれてきたフレーバーティに、俺は膝を揺するのを止めた。マスカットに似た甘い匂いが、鼻孔を撫でる。一緒に出された大嫌いなビスケットも目に入らないくらい。この紅茶の名前を、俺は知っていた。むしろ、一時期は毎日嗅いでいたほど馴染み深い香りだった。この茶葉の元になった植物の名前は――

「Sambucusnigra(サンブクス・ニグラ)」
「学名ではそう呼ぶのですね。一般的にはエルダーフラワーと言います。ニワトコ科の一種で、古くは魔術の材料としても使われたのだとか。最近ではホグワーツでも珍重されているのだそうですよ」

黒フレームの眼鏡の陰で、その男は、軽く片目を瞑って見せる。その碧眼は、まるでこの街の青空のように澄んでいて。俺は湯気に包まれたまま、開いた口を閉じることが出来なかった。次に男が放った一言に、俺はさらに心の底から、この店に来たことを後悔した。

「ああ、植物の説明など無粋でしたね。
あなたならこの一杯の効能をお分かりでしょう?ねえ、『ドクター』」

☆☆

 吐き気のするような天気だ。
曇天から降り注ぐ冷たい水の粒は、サヴィルロウで誂えたスーツすら、汚れたスズメのように醜い色に染める。これで『傘を差さないのが紳士の嗜み』と言うのだから、やはりこの街には俺の理解できる者も、俺を理解できる者もない。

たまたま、その日は学会の帰りだった。
たまたま、あの店の前を通りがかり、たまたま、軒先で雨宿りをすることにした。傘を持っていなかったのは、たまたまじゃない。今朝のガーディアン紙じゃ夜まで曇りと言っていたのに。たまたま、と言うのは重なるもので。たまたま、あの店は閉店間近で、たまたま、あの男が俺に気付いた。

「おや、野鳥が迷い込んだか」

古びた赤い木製の扉が開くと、あの時と変わらぬ嫌味なスタイルで、あの男が顔を出す。何かを作っている最中だったのか、その身体からは香ばしい焼き菓子の匂いがした。

「雨は不慣れでしょう? 傘をどうぞ」

差し出されたのは、頭がすっぽりと隠れるような大振りのビニール傘。女王陛下も御愛用とか言う、バードゲージアンブレラ。つまり、鳥籠。どこまでも上品ぶって、高飛車で、斜に構えたその言葉使いと発音に、脳内で何度も地団太を踏む。

「皮肉が上手いな、さすがイギリス人」
「アメリカ人のフロンティアスピリッツには適いませんよ」
「こないだ、俺をドクターと呼んだな。……どうして俺が学者だとわかった?」

生憎、俺はイギリス人のように一々湾曲して伺うような作法は持ち合わせていない。アフタヌーンティだなんて、優雅にスコーンでも摘まみながら談笑する文化も知らない。ダイナーで食べる、油でギトギトのハンバーガー(ピクルス抜き)。この血肉はそんなもんで出来ている。こちらのマナーに沿うつもりは毛頭ない。

「お時間は?」
「ある。あんたにそれを聞きたくてわざわざ来たんだ」
「ぜひ店内へ、と言いたいところなのですが。あなたもお忙しいでしょう?
私も、明日の支度がある。……だから、一息にお伝えします」

そう言って、後ろ手に扉を閉める。
男が息を吸い込んだのと、俺が息を飲み込んだのは、ほぼ同時だった。

「あなたは、近くの店が休みだったとおっしゃった。あの日、この周辺で店を閉めていたのは、この2ブロック先の『speedy』一か所のみだ。『speedy』の近くはロンドンきってのオフィス街で、あなたのように汚れたパンツと毛玉だらけのセーターで勤められるような会社はない。あるとしたら『speedy』の真裏にある、スペンサー大学。あの学校は校舎が散らばっているから、あの場所にある理学部の関係者だろう。見たところ、30の声は聞いているはずだから、生徒ではない。復学した社会人と言う線もあり得るが、そんな学ぶ意欲に満ちた人間が、昼間からカフェで本も開かずに豆スープの匂いを嗅いでいるとも思えない。
……ああ、ちなみに」

舞台役者が台詞を切るように、男は右手の平で眼鏡を上げる。

「隠そうとしているようですが、Cの発音が間違っています。英国式にはもう少し濁らせる感じで、舌先でスィーと。それと、今語ったのは全て推測にすぎませんが、これは確実だと言えることもある。あの日、あなたが持っていた鞄から背表紙が見えていた。『医学薬草の研究』、香草、特にエルダーフラワーの研究で第一線の植物学者だったジャック・コリンズ博士の著作だ。論文の盗作疑惑で、アメリカの学会を追われたと聞いたが。まさか我が国にいらっしゃったとは光栄です、先生?」

それが握手の合図とはわかっていた。しかし……差し出された右手を、俺は黙ったまま見つめることしか出来ない。男は、苦笑うように肩をすくめた。

「学者とは生来、自分の研究以外には無頓着だ。随分と寝不足のようでいらしたので、催眠効果のあるエルダーフラワーのブレンドをお出しした次第です。あの夜は?」
「ベッドに入ってぐっすりだった」
「それは良かった。コリンズ博士、どこか訂正点は?」
「ひとつだけ。俺はまだ29歳だ」
「これは大変失礼しました。貫禄のある態度でいらしたので」

 今更、何が言える? この男は何もかも知っていた!俺の何もかもを読まれていた!かのアガサ女史ならこう表現しただろう。「灰色の脳細胞」ならぬ「蒼色の観察眼」。やっぱり俺は、この国が嫌いだ。こんな皮肉極まりない人種が住む街なんて……。

 雨風が、俺の髪を揺らす。ひどくカールした毛先が、言葉を紡げない唇を何度も叩く。「ああ、見事な金髪ですね」なんて言葉と共に、目の前で鳥籠が開かれた。大きくて広くて、思っていたより居心地が良さそうだ。この街の絡みつくような霧が、少しだけ晴れる気さえする。一介のカフェ店員である、その男に、俺は初めて右手を差し出した。

「やられた。あんた、住所はベイカー街じゃないのか?」
「憧れてはいますが、あの辺は家賃が高いので。ピカデリーサーカスのほうに」
「それではピカデリーのホームズ。あんたに頼みがある」
「茶葉の選定ですか?」
「ああ。明日の晩。俺の研究室に紅茶を届けてくれないか?」
「Yes, Your Majesty(ええ、陛下)。
うちの常連になって下されば、配達代は結構ですよ」

☆☆

注がれたミルクが波紋を描いて、俺のティーカップに満ちていく。あの男の指先でかき回されると、それは魔法のように香ばしさを増して。気付けば部屋中に熱い湯気が立ち込めていた。女王の名を関したクイーンアン。試験管と学術書に支配されたこの空間には、その味はあまりに優しすぎる。

「それで? 話の続きを」
「ああ、とりあえず掛けてくれ」
「ビスケットは?」
「………もらおう」

教授や生徒がいない時間で良かった。こんな夜半も近い漆黒の晩に、スーツを着込んだ紳士と二人きり、丁寧に淹れたミルクティを飲んでいるなんて。誰かが見たらどう思うだろう。少なくとも、ちょっとした怪事件の依頼をしているなんて風には、見えないはずだ。

「最初にコマドリの死骸が見つかったのは、先月の30日」
「火曜日だ。先生は何を?」
「この研究室で、朝まで生徒のレポートの採点をしてた」
「何かいつもと違ったことは?」
「やけに樹々が揺れているな、と思ったくらいか」
「死骸が発見されたのは何時頃です?」
「明け方、6時頃。俺が帰ろうとコートを羽織っていたら……」
「この窓の外で、1羽のコマドリが息絶えていた」
「ああ。それからほぼ毎週、犠牲者は増える一方だ」

独り身、着の身着のまま母国を飛び出した俺に、咄嗟に持ち出せた食器はそう多くなくて。ティーカップ代わりに渡したビーカーで紅茶をゆっくり啜りながら、その男は窓際とソファを行ったり来たりする。おもむろにテーブルに置いたビスケットを手に取ると、零れるようにふっと笑った。

「なんだよ」
「コックロビンのような話だな、と」
「誰だ、俳優か?」
「先生は、文学や戯曲には疎くていらっしゃるようだ」

このいけ好かない国には、『マザーグース』と言う童謡がある。多くはベッドサイドストーリーとして、子ども向けに作られたものなのだが。重苦しい歴史を積み重ねてきたお国柄もあり。その内容は、モノによりひどく残酷なんだとか。

「Whokilled Cock Robin?(コックロビンを殺したのはだあれ?)
これはまた、定番すぎてコナン・ドイルもあくびをしてしまいそうだ」

最後の一滴を飲み干すと、男はビーカーを窓枠において、ほうと一息つく。その瞳はまっすぐに、部屋のすぐ脇に立っている大ぶりのモミの木を見つめていた。デスクのライトが眩しすぎて良く見えなかったが。その横顔には、かすかに愉快が浮かんでいるように思えた。

「さて、次はスコッチを入れて飲みましょう。
女王陛下の祝福をいただきながら、次はあなたの研究の話題でも」
「まだ話は終わってないぞ」
「コックロビンも、最期には仲間たちに囲まれて天国へ昇りました。
ロンドンの冬の夜は長い。先生のように生き急ぐ人にも時間は平等に流れる」

小さな酒のボトル、赤いジャムの瓶、紙包みに入った薄切りのパン。持参した鞄から取り出したそれらを抱え、男は研究室の隅にあるキッチンに向かう。

「このブレックファーストを作る頃には、罪にも朝陽が差すでしょう。
In the meantime, Lets chill tonight(それまで、しばしの休息を)」

☆☆

振り返れば、こんなに喋ったのは久しぶりだった。覆い被さってくる暗い雲に紛れようと、包み隠していた懐かしい発音が溢れ出る。男は相も変わらず、めかし込んだ気障な英国訛りで返事をしてきたが。気にも掛からなくなっていたのは何故だろう。一滴だけ注がれた、異国の酒のせいだと思いたい。

「午前5時。いい頃合いだ」

暖炉の灯も消えかかった明け方。男は、ふいと窓の外を眺める。軽く焦げたトーストを銜えたまま、俺は顔をあげた。言葉を返そうと口を開くと、コケモモのジャムのべったり塗られた欠片がひとつ、汚れた床に転がり落ちる。

「スコットランドヤードに電話を入れるか」
「鳥殺しに警察の介入は無粋でしょう」
「俺たちだけで捕らえようって言うのか?」
「少々、骨が折れそうではありますが」

そう言ったきり、男は黙ってしまった。衣切れの朝のように、響くこのさえずりはコマドリではない。ヒバリの鳴き声だ。よく考えれば、この男に『依頼した』として、全てが解決する保証はない。ただひたすらに、これは大いなる賭けでしかなくて。今日はまたヒバリの弔いもする羽目になるのかと、俺は幾分憂鬱になった。それでも――今は、この『名探偵』を信じるほかない。

「コリンズ先生」
「来たのか。犯人か?」
「ええ、すぐそこにいますよ。
Our Moriarty is comming(私たちのモリアーティが)」

待て、と叫ぶ暇もなかった。男は、窓枠に手を置くと、助走をつけて、例のモミの木に飛び移った。そのまま、太い幹によじ登ると、目につく限り一番強そうな枝を激しく揺らす。一度、二度、三度。四度目で、堕落するように地面に舞い落ちてきたソレに、俺は危うく悲鳴をあげそうになった。

「カラス……?」
「いいえ、恐らく猛禽の類でしょう。それも野生ではなくペット用の」
「赤ん坊くらいの大きさはあるぞ」
「随分、甘やかされて育ったらしい。狩りの仕方も知らないで。こうして毎朝、
樹の上にあるコマドリの巣を狙って、ヒナを啄んでいたんでしょう。
……それにしても」

その動きは、纏ったスーツを一糸乱さぬ身軽さで。男は樹から飛び降りると、再び窓際から部屋の中へと入ってきた。脚を揃えて降り立った瞬間、踵を打つ高い音が鳴る。それは、遠い昔に見た戦争映画の兵隊の足音のようにも聞こえた。

「随分と身体がなまっていたようです。心はいつまでも若くいられるものだが。
いやはや、本当に骨が折れなくて良かった」
「俺も、あんたを聖バーソロミュー病院に運ぶ手間が省けたよ」
「おや、少しはこの街の言い回しにも慣れてきたようですね」

『真犯人』は、しばらくは茶色い土の上でひくひくと身体を震わしていたが。そのうち、男によって括られたクチバシの窮屈さに目を覚まし、覚束ない足取りとふらふらと立ち上がったところを、即座に『逮捕』された。

いくら問い質しても、男はその推理の一端も口にしなくて。着いて出た言葉が『Elementary, my dear colins(初歩的なことですよ、コリンズ博士)』だったので、俺はこの男こそ、警察に突き出すべき大悪党なのかもしれないと思った。男の言う通り、ロンドンの冬の夜は長かった。そして、それは決して退屈な時間ではなかった。

☆☆

「お越し下さって嬉しいわ。今日はゆっくりとお寛ぎになってね」

『頬のこけた、見るからに下流階級の出身と思しき老婦人』と思い込んでいた女性が、今日は華やかなドレスを身に着け、品の良い物腰で、俺と男に恭しく挨拶をする。

とある高級住宅地の一角。一際目立つ大きなお屋敷で、ガーデンパーティが開かれていた。招かれたのは、大勢の身内と、この屋敷の主人が『恩人』と呼ぶ俺たちだけ。

「言ったでしょう? あの猛禽はペット用だと」
「まさか、あの『speedy』の婦人が飼い主とは思わないだろ!?」
「この近所のゴシップには詳しいつもりでしたが、口惜しいことだ」
「しかも、こんなに豪邸の金持ちだったなんて……」
「人は見かけに寄らない。あなたならすでに学んでいたはずですが」

目元を細めて、悪戯に笑みを寄越す。その男に、俺は盛大に鼻を鳴らした。
そうだった。この男ほど、俺を欺いたイギリス人はいない。

「あんた、本当は007なんじゃないか?」
「映画の見すぎですよ。私はただの有能なカフェ店員です」

ついと優雅な動きで、男は俺に向かって右手を差し出す。最初に店の軒先で、握手を交わしたあの夜のように。気付けば、庭先の蓄音機からは、古びたワルツのリズムが響いていた。

「Fancy dance?(ダンスでもいかがです?)」

永遠に好ましく思うことはないだろう。曇天の続く空も、揚げた白身魚と芋の付け合わせも、嫌味で甘ったるい発音も。だけど、もしもこの街にまだ、心震わせる謎が溢れているのだとしたら。嫌いにはなれないかも知れない。あくまで、現段階では。まだ名前も知らない、その紳士の誘いを、俺は一礼して受け入れる。

「Not  bad(別にいいけど?)」

       
『Night night』 end


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