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「言い切らない文章」の魅力

内田樹『街場の成熟論』を読んでいます。


内田さんは太宰治の『如是我聞』の文章を引用したうえで、以下のように述べていました。

でも、この文章そのものが「心づくし」のみごとな実践例なのだと私は思う。それは言い切らないこと、決めつけないことである。 太宰は文学においては何かを言い切るということはしてはならないと考えていた。一応は言い切り、どこかで句点を打って文章を切らなければならないのだけれど、それでも「言い換え」や「言いよどみ」や「前言撤回」に開かれていなければならない。太宰はそう考えていた。

P.150~151


言い切らない、決めつけない文章は、はっきりと着地していないがゆえに、展開の余地が大きく残されてしまいます。

どれだけ書いても、書いている自分が「言い切る」ということをしなければ、文章は360度、全方向に開かれています。

展開も変更も撤回も、思いのままです。


逆に、「私はこう思う」「これが事実だ」とはっきりと言い切った文章は、強さという魅力と同時に、若干の硬直した雰囲気をまといます。

言い切らない文章と比較すると、そういった文章は扱いづらくて手も入れづらい、硬い文章になる場合があります。

一度言い切ってしまうと、言い切らない文章と比較して、展開の幅や余地が狭まり、話や思考を広げづらくなってしまう感じでしょうか。


決め切らず、スタンスも取らず、ああでもないこうでもないと考えながら書き連ねる文章は、はっきりとした内容ではないものの、地面を流れはじめた水のように、少しずつ広がっていきます。

そういった広がりのある文章は、書いている自分自身や文章を読んでいる人の呼び水になり、アイディアやさらなる文章を広げていく役割を果たします。


書いている自分も自信がないし、間違っているかもしれない。
けれど、それでも書かずにはいられない。
頭に浮かんだ言葉を文字として残したい。
それならばせめて誠実でありたいと、願いながら書く。

そうやって試行錯誤したり迷ったりしながらも心をつくして書いた文章は、きっと魅力的なのだと思います。

そういった「心をつくす」文章を書く姿勢を、忘れないようにしたいものです。


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