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あの頃は「木登り」を恐れなかった

「木登り」と言う言葉をふと思い出して
とても懐かしい気持ちになった。

普段、社会人として生活している中で「木登り」と言う言葉を耳にする機会はほとんど無い。

学校の先生や小さなお子さんがいる家庭ならば、多少耳馴染みはあるかもしれないが、オフィス内の会話で登場することは皆無。

同僚が「昨日、木登りしたんだけど…」とでも言い出したら、瞬く間に職場中の注目を集めるだろう。

私服の大人がいそいそと木に登っている姿は滅多に見かけないし、見かけたとしても異様な光景だと受け止めるはずだ。「何らかの深い事情があるに違いない」と勝手に推測するかもしれない。

では、自らが「木登り」をする立場になるとどうだろう。

残念ながら、ここ最近「木登り」をした記憶は無い。この歳になって木を見て思うことと言えば、葉の色の移り変わりで「もうこんな季節になったのか」と流れゆく時の早さに驚くことだけだ。

この世には「時間の流れ」を感じさせるものが多すぎる。クリスマスがもうすぐ目の前まで迫っていて、すぐに年末だなんて。
つい最近、夏が始まったと思ったばかりなのに。

そんな風に、今は「木登り」とは縁遠い生活を送っているが、自分が子供の頃を思い出してみると「木登り」と言うのはとても身近にあった遊びだった。

特に小学生の頃なんかは、近くの公園で「木登り」をした記憶が溢れんほどある。

今思えば、なぜあんなにも細々とした枝の上に躊躇することなく足を掛け、そさくさとした身のこなしで、てっぺんの方まで登ることができたのだろうか。

あの頃は、結構な高さの木だったとしても、器用に幹や枝を伝うように上の方まで登っていた。

思うに、それは怖いもの知らずだったのもあるけど、単純に「高いところに登る」と言う行為が、子供にとっては好奇心が大きく振れる出来事だったからなんだろう。

今でこそボルダリングスポーツクライミングなど、高いところに登ることができる施設は数多く存在しているけども、自分が子供の頃はそんなものがあるなんて全くもって知る由もなかった。

そんな時に、近所の公園にいくらでも生えている自然界のボルダリング施設は、小さな子どもにとってチャレンジ精神と好奇心を満たせる数少ない場所だったのかもしれない。

実際、自分も漏れなく「木登り」が得意だった。

体を動かすのは好きだったし、草木の茂みや高いところも割と平気だったので、登れそうな手頃な木があればすぐに登った。

また、適度にチャレンジ精神をくすぐってくる所
「木登り」をしたくなる理由の一つ。

「木登り」は運動神経が良い人なら誰でもできそうに思えるが、割と頭も使わなければならない。

最終的な目標地点までどのような手順で、どう身体を動かして進めばいいのか。また、自分の体重を支えられる枝なのかどうかも、瞬時に見極める必要がある。

そうやって、色々策略を練りながら登っていくのが
「木登り」の醍醐味でもあり、面白い部分でもあった。

そして、何と言っても
木のてっぺんから見る景色が自分は好きだった。

生い茂った葉っぱの隙間から顔を出し、公園の敷地よりはるか遠くまで見渡せるその場所は、今思い返すと子どものころにしか味わえない光景を目の当たりにできる特等席だったのだ。

もちろん安全面や木々の保護面を考えると、きっと手放しでは賛同できない行為ではあるのだけれど、あの時見た景色は今でも鮮明に思い出すことができるほど心に刻まれている景色だ。

かと言って、今「木登り」をしようとは思わない。
そもそも登れる気がしない。

折れる。木の枝も、下手したら自分の骨も。

そんな訳で、残念ながら行動に移すことはできないのだけれど、「木登り」をしていたあの頃の「何事も恐れない」気持ちは今でも忘れないようにしたい。

大きな木を目の前にした時、その木の上に登って見る景色のために、自らの好奇心を満たすために、怖さを恐れずに立ち向かっていく。

その心は、きっと今だからこそ
必要な心持ちに違いないから。

この記事を書きながら
ふと、近くの木を見て登れそうか考える。

いや、厳しいな。
子どもって何でもできるんだな。すごいな。


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