Pさんの目がテン! Vol.74 他人の「目がテン!」を読む 横尾忠則『言葉を離れる』1(Pさん)

 横尾忠則の、最近出たエッセイ集、『言葉を離れる』を読んでいる。

 直前の記事で書いた。横尾忠則は、もう高齢になっている画家である。僕が印象に残っている彼の作品は、Y字路を描いた、確か「Y字路」と、『美藝公』という筒井康隆の小説と大々的にコラボレーションして、挿絵という以上にグラフィックデザインを前面に凝らした絵を本に描いていた事。世の中的には、もっといろいろあるのかもしれない。また、その記憶があって、古本市に行った時に彼の、写真のコラージュを集めた画集を買った事もあった。
 それを見て、自分でもコラージュくらいなら作れると思い、デジカメとコンビニのプリンターを使って、切り貼りをしてコラージュ写真を作ったこともあった。数枚作って断念した。
 これも、パソコンで合成すれば、わけもなく何百枚も作れるんだろうけれども、僕はまず大前提として、手先や腕を使う作業を欲している。パソコンで何か作るのも、もちろん手先と腕を使った作業なのかもしれないが、たとえばよく出来たペンで何かを書くとか、料理で何かを切るとか、粘土で何かこねるとか、そういった、具体物、マテリアルを感じられる物を扱うということに、特別な、効用というと少し小さいけれども他にはない感覚を感じさせてくれるという期待がある。
 しかし、そういうものは継続しなければ余り意味がない。続かなかったということで、コラージュ写真は失敗だった。今、続けているのは、手書きで原稿を書くことくらいだ。
 話がそれたけれども、あながちそれてもいなくて、横尾忠則が、幼少の頃からやってきた、絵を描くということも、見た物をそのまま写す、ひたすら写すという模写を原点としていること、また、この本は本来読書を大きなテーマとしたエッセイの連載をまとめたものなのだが、前半、最初の三編くらいは、その読書という行為を自分は長いこと、具体的に四十五歳になるまでと書いているのだが、その間ずっと、興味がなく、読書によって得られる知識は、どこかに赴くとか、何かを肉体的に体験するというのをサボった、頭だけの知識であり、自分はそういうのと関係ない知識を集めているのだ、という態度が前面に出ている。
 これは、日々読書を日課にしている、自分としては、何か反対の意図が仮にあるんだとしても、正直読みづらく、しかもそんな意図はなさそうで、真っ直ぐに今言ったような主張をくり返す。
 横尾忠則は、確かに感覚が独特だ。今言った要素に加えて、端々に染み出てくるのは、オカルト的な想像力で、たとえば「これも運命だなと思いあきらめ」、「そういう星を抱いて生まれたのだなと」といったフレーズや、「アカシックレコード」が読めるようになる、「自己を超えて宇宙的な知識を得る」といったようなことも言う。
 これは、近代的な人間には共有しづらい感覚なのかもしれないけれども、考えてみれば、絵を描くのに、何ら実証的な思考は要らないというのは道理だし、その代わりに、科学的確からしさとは別の、それを捨て去ってなお強度を保ちうる別の思考が常々必要な人だと思ってみれば、それは驚くことでもないのかもしれない。
 誰かが言っていたけれども、言説や思考が世界と一致するわけもなく、それが一致すると思うのは幻想である、ということもあるし。
(続く)〔次の記事で、このオカルト的な「運命」というフレーズの意味の、一般的な意味との乖離の解説を行う。〕

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