Pさんの目がテン! Vol.83 傘とワクチン ピエール・デュピュイ『ありえないことが現実になるとき』3(Pさん)

前記事

 ようやっと、この本を読み終えそうなところまできた。足掛け一年かかった。そんなに難儀するタイプの本でもない。いや、そうでもなかったかもしれない。とにかく、そこに何か踏みとどまらせる何ものかがあったようにも思わないのに、思いのほか時間がかかった。
 途中から、期待していたような、科学的厳密性から離れて、観念的な話に滑っていくように思える場所もあって、少し残念に思えたところもあったが、基本的には、頷ける話だった。

 まだ半分読めていない状態で、今日はちょっと遠出をしようと思って、傘を持って出掛けた。電車にしばらく揺られるので、その間にこの本を、読めるだけ読んでしまおうと思った。今日は台風が来るというけれども、昼の頃は、そんな気配もなかった。薄曇り、風が少し強く感じるだけで、この後嵐になるとは、到底思えなかった。第一、天気予報からして、それほど荒れるとはいっていないし、一時間おきの予報を見ると、晴れに向かうようだった。

 前回、技術が自律的に発展してしまうという所までは書いた気がする。今度は、また別の角度から、というか本題に近くなってくるけれども、「リスク」、「予防原則」なるものについての話になってくる。中核は、この「予防原則」という考え方について、何が正しくて何が正しくないのかということだ。
 破局、つまりもう逆戻りできないくらいに何か、というのは環境とか生命とか、そういう代替のきかないものが変化してしまう、という事態について、もっと小さい経済的な選択の場面における、「リスクとベネフィット」という、利益と損益に、それぞれの確率を掛け合わせて天秤にかけるといった、打算的な手法というか思考法は通用しない、と、大まかに言っている。
 その際、一方では確率論における根本の立場の取り方の歴史に触れ、この場合には「リスクのリスク」、つまり確率の確率、前提として不確定な要素を含んでいる場面での確率ということについての考察を進める。じっさい、例えば遺伝子操作技術がこの先生命にどれだけの被害を及ぼすのかということについては、その技術が開発中なのだから、当然、何がどうリスクになるのか、未確定な状態で予想しなければいけないということになる。

 二つの壷があるとしよう。壷Aには、黒い玉と白い玉がそれぞれ一〇個ずつ入っている。また壷Bには、白と黒の玉が合計二〇個入っているが、それぞれ何個入っているかはわからない。さて、これらの壷から玉を一つ取り出すのだが、プレイヤーは、二つのことをしなくてはならない。まず、どちらかの壷を選ぶこと、次いで、取り出される玉の色を当てることである。
(本書、145ページ)

 この問いは、このような純粋な作られ方をしているのなら、どちらの壷から何を引いても確率は変わらないはずである。しかし、人は、情報がより「内側に」(というのは僕がこの話をかみ砕いた解釈だが)確実に分かっている方を選ぶ、つまりこの場合には壷を選ぶ際にはAを選ぶ。
 壷Bの方は、いわば情報が隠された状態であることになる。これを現実の何かのリスクに当てはめた場合には、もしかしたら、時間が経過するとともに、実はBの壷の中身の内訳がわかる、という瞬間が訪れるかもしれない。その場合には、しばらく待ってから、有利であれば壷Bを選んだ方が良いということになる。

 ここまで読んで疲れたので一度本を鞄の上に置いた。念の為傘を持ってきたのだが、外は相変わらずどんよりと曇っているだけで、雨が降る気配がない。傘を持っていると、その傘を忘れる可能性もあるし、本を読んでいる時に邪魔になるし、できれば持ちたくはない。しかし、今日は、台風がこちらに、というのは太平洋から真っ直ぐ斜めに向かってくるという、人に言わせればかつてない到来の仕方で来るらしいので、もしかしたら天気の予測が外れるかもしれない。あと、台風が近くなると基本的に雨が降る可能性が高いという経験則もある。傘を持ってきたことが正しいのか、正しくないのか、その時には分からなかった。

 しばらくして、また『ありえないことが現実になるとき』を開いた。話はまた少し別の角度になっており、もし不測の事態が起こったときに、責任は、民事的な範囲であれば、どのように取らされるのかという話になる。結論から言えば、何かが起こったとして、その結果から、ある人が罰されるということはない。あくまで、その時起こりえたであろう事実の集合から、その人の責任というものは導き出されるのだ。
 飲酒運転について考える。飲酒運転をしてしまった男が、帰り道、子供を轢いてしまったとする。いや、このそれぞれの要素を、パターン別で考えてみる。飲酒運転をした上で子供を轢いてしまった。飲酒運転をしたが、子供は轢かなかった。また、飲酒運転をせずに、子供を轢いてしまった。また、飲酒運転をせずに、子供を轢いていない。
 こう並べると、その人が罰せられるのは、子供を轢いたかどうかではなく、飲酒運転をしたかどうかで裁かれる、少なくともべきだと思うのは自然なことだ。しかし、この辺りが、やはり「リスク」という問題の濁った部分ではあるが、この場合、飲酒運転をせずに、もし子供が轢かれた場合、子供を轢いたパターンと、子供を轢いていないパターン、見比べた時に男の行動が全く変わらなかったとする。それでも、子供が轢かれた場合には、男の行動のどこに原因があったのかと、詮索されるということも起きてしまう。
 ここで、机上で操作するように、男の行動を並列して眺めている視点に立っているわけだが、現実には、そんな視点は、民事の場合でもなく、さらには集団的な経済と技術の趨勢についてはさらにないと言える。

 どんどん話は込み入ってくる。「もし予防原則自体に予防原則を当てはめたとしたら、それを使用しないことになるだろう」……「リスクゼロを私達は目指すわけではない」この文脈で、唐突に、現代において注目せざる一節が出てくる。「たとえば、潜在的なリスクゆえに、数多くの命を救うことができたかもしれないワクチンの使用を、予防という名目で禁止することになる、など。(……)予防する際に予防原則を用いないという結論がおそらく引き出されよう。
(本書、176ページ)

 正直、ちょっとついていけなくなっている。

 有名な海浜に着いた。駅から、海の方角に真っ直ぐに、やや曲がってはいるが道が伸びていて、海浜をなぞるように大きい道路が走っているのを、小さいトンネルをくぐるようにして通り抜けたら唐突に海水浴場の光景だった。このご時世であるが、何人か海水浴の客がいた。しかしここで、急に雨が強まった。見通しが悪くなるというほどではない。沖のほうにクルーズ船のような影が見えた。傘を差しながら、周りを見てみた。もとより、海水浴に適した天気ではなかったはずで、濡れてもいいような恰好をしている人達は、雨が降ろうと降るまいとそれほど気にしている様子もなかった。

 帰りの電車でもう少し読み進めた。この辺りから、ちょっとついていけなくなった。今まで理屈で来たのに、急に道義的な色合いが出てくる。それは、ハンス・ヨナスという、この本を起草したおそらく種本のようなものからして、そうであると、予告はされていた。それでも、「人はこうすべきだ」だけが並んでいると、しかし現実にはどうすればいいの、という気分がどうしても沸き上がってくる。
 頷けないわけではない。破局的な状況というのは、もしそう予想ができても、人々はそれを信じることができない、という。

破局はわれわれの前にあることに確信を持っている、あるいはほぼ持っているということを認めておこう。問題は、われわれはそれを信じていないということなのだ。自らが知っていることを信じていないのである。倫理的思慮に対する試練とは、未来に書き込まれた破局の知識の欠如ではなく、この書き込み自体が信用できないということなのである。
(本書、179~180ページ、太字は傍点)

 また、実際に破局的な状況が起こったとして、人々は本当に驚くスピードで、それを忘れ去ってしまう。だから、9・11のテロが起こった一か月後に、為政者は、さまざまなメディアを駆使して、人々にそれを改めて思い起こすように力強く働きかけたのだ、と。

 既にない技術が発展した時のリスクについて、われわれは想像することが難しいし、数学的な予測となるともっと難しい。しかし、予想できることもあるにはある。しかし万が一それがあったとしても、人々はそれに有力性を持たせることができない。力強く、「今、技術の発展を止めるべきだ」と言うことはできない。気付くのは、そしてすべての計算が可能だと言えるのは、それが起こった後である……
 ここには絶望しかないように見える。そんな中で、私達は何をすればいいのか。本書のクライマックスをこれから読むところだ。
(追記……ほんとうに技術的、あるいは知らない分野での哲学的な話など、端折りながら紹介した。大枠はあっていると思うが、論の運びなど自信がない。この機微について、ぜひ本書を読んで体感してほしい。)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?