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カフカの第四の長編はほんとにあったのか?(ウサギノヴィッチ)

 どーも、こんばんは、ウサギノヴィッチ。
 今日は、「ドクターホフマンのサナトリウム ~カフカ第四の長編~」というお芝居を観てきたので、それについて語っていきたいとおもいます。
 
 まず、作・演出はケラリーノ・サンドロヴィッチです。主演は多部未華子と瀬戸康史。
 あらすじは、婚約者が戦死した知らせを受けて、それを確かめに行く女性の話と、カフカの未発表の長編が書かれたノートの出版についての騒動が描かれる現代の話がだいたい交互に展開されます。
 ここで言いたいのは、だいたい交互だということです。話の後半にいくと、それがメタ化していきます。婚約者の話は実は、カフカの未発表の小説なんですけど、その中に現代の登場人物が出てくるし、 物語の整合性が合わなくなってきます。
 ただ、それはそれでぼくは気になることではなかっです。少し放り投げられた部分もありますけど、これもこれで不条理なのかなと思いました。
 
 今回のお芝居は、とことんカフカ的だったなぁと思わされました。
 戦死した婚約者を探しに行くのに、街から出るのに、一波乱あって、街の外れの食堂で一波乱あって、と、挙げていけばキリがないほど、進みが多い。若干イライラした部分はありましたが、カフカって、こんな作品だよなぁと思いました。完コピとまでは行きませんでしたけど、パスティーシュはできているように感じられました。
 
 このお芝居を観て、自分の創作欲を駆り立てられましたね。ただ、一回見たきりじゃ、覚えなられないことだらけ、頭の中では色々考えながら観ましたけど、もう一回観たいと思ってしまいました。だけど、三時間半をもう一回観る体力はないし、財力もない。しかも、明日が東京の楽日だし。
 ぼくが書きたいと思ったのは、二つの場面を交互にいくよう小説が書きたいと思いました。そういえば、そんな小説は書いたことなかったんじゃないかな? って思いました。
あっ、あるわ。だけど、今回学んだ不条理を入れてみたいと思いました。
 あることをするため、一つことが障害になって進めないけど、遠回して進むと、また障害があってさらに遠回しする羽目になる。
 なにってんでしょうかね?
 一回自分なりに書いてみたんですけど、不条理じゃないって言われましたね。
 それが、『愚かな夢旅人』なんですけど。
 それは構造自体が違うのかもしれないです。
 目的があって、それからどんどんと自分から離れていくという構図であって、外的要因が邪魔しているのではなく、主人公の内的要因がそうさせているからなのかもしれないです。
 
 お芝居を見終わってなにがしたいか? って訊かれたら、今は、カフカの文体、物語に一刻も早く触れたいです。
 ものすごく気になります。
 そういういいものを観た気がします。

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