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新宿の飲み屋でフィルムカメラと野性爆弾のくっきー!(ウサギノヴィッチ)

 この前の日曜日、二月十七日にPさんとあんなさんと新宿で飲んだ。
 楽しかった。
 実はその前に、ぼくは十年以上付き合いのあるコンビニでアルバイトをしていたときの先輩と会っていたし、Pさんは元同人活動をしていた、ぼくも知り合いの人と会っていた。
 だから、Pさんとあんなさんに会うのはぼくにとっては二軒目ぐらいのつもりでいた。
 なので、前のテンションを保ったまま二人に会っていて、しかも、そこにお酒がプラスされていい感じに酔っ払ってしまった。
 あんなさんは、台湾に留学をしていて、デザインとかそういう勉強している。その中でも、写真に興味を持っていて、フィルムのカメラでお店の中や料理などを色々とっていた。
 ぼくは、大学生の時くらいに周りでデジタルカメラを持つことが流行って、それに乗っかり買いはしたものの、なにをとったらいいのかわからないで結局宝の持ち腐れになってしまったことが、一度きりではなく二三回あった。
 そもそも、写真というものがあまり好きではない。
 空間というものの一瞬を切り抜くということ、それがぼくの性に合わないでいる。
 あと、ぼくの見てくれをその一瞬で半永久的に残るのが嫌なのがある。
 そして、Pさんは、会う前に会っていた人と、野性爆弾のくっきーがやばいっていう話をしたと言っていた。
 ぼくは、くっきーの笑いがいまいちわからない。同じ系列と言って良いのかわからないが、ネプチューンのホリケンがぼくは想起される。今ままであった流れがぶち壊れる、流れなんて関係ない、独自の世界観。

 結局、なにが言いたいのかというと、ぼくはストーリーがあるものが好きで、写真より動画の方が好きだし、お笑いもしっかりかっちりしたものが好きだということだ。
 その中で、流れが分断されることが起きることは、逆にそれはアドリブや予定調和だったりする部分でもあるわけだし、ライブでも見えない中でも、みんなで徐々に積み上げていく過程が好きなわけだ。
 上二つを、完全に否定するようになってしまって申し訳ないが技術があるのならば、ぼくはそれが欲しい、つまり、嫉妬もあるわけで、でも、デタラメや不条理やナンセンスが好きなぼくは、それでもそれはどこかにルールが決まっていて、そのルールを見せないように努力しているように感じさせているように思う。
 でも、この考えはぼくのオリジナルで、ぼくが理路整然と解釈しようと努めているだけで、作っている本人はフィーリングで作っているのだろう。
 実際、ぼくも小説を書くときは、6:4で感覚で書いている部分がある。もしかしたら、それ以上かも。だから、誤字脱字が多いのかもしれないし、無駄が多いのかもしれない。
 だからと言って、変えようとは少しだけ思うけど、思う程度だ。

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