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異国に行って学ぶこと|灘山直人

灘山直人
経済学部准教授・国際ビジネス論

 異国に行くと何か新しい刺激を得られるような気がする。日常から離れた場所に身を置くことで、気分転換できるとともに、もしかしたら日本にはない刺激を得られるのではないかと心のどこかで期待する。それは出張中の会社員であっても、旅行中の家族であっても、留学中の学生であっても、定年退職後に海外移住した人であっても共通して抱くものではないだろうか。私もそんな異国での刺激を期待して30歳を過ぎてフィンランドで暮らし始めた。最初は何でも面白く映り、日本との違いを探せばいくらでもあった。気候、草花、空の色、携帯電話の着信音、建物のカタチ、休日の過ごし方、地下鉄に乗った時に座る場所、教育の仕方、有り合わせの材料でつくる料理、お菓子(サルミアッキなど)。どちらの国のやり方が良いというのではなく、ただ違うことが面白かった。もう少し言えば、日本では当然のこととして誰もが受け入れている、あるいは受け入れざるを得ないことでも、実は別のやり方があるのだなと実感した。

 そんなある日、私はフィンランド人研究者がマネジメントについて語るオープンセミナーに出席した。その人は説明のなかでフィンランドと日本を例に取り上げ、自身の研究テーマに即して両国を比較分析し、さらにその違いの根底にある両国民の価値観の違いなどについて補足説明を加えていた。例えば日本人はコミュニケーションの際に「行間を読む」ことが習慣づいている、という説明があり、その背景として言語の成り立ちが紹介されていた。一方でフィンランド人は思ったことをそのままストレートに伝える傾向があることが説明された。そして、日本人と話す際には、実際の言葉をそのまま受け取らずに、その背景にある意味を読み取りながらコミュニケーションしなければならない、というオチが付け加えられ、会場に笑いが起こった。私はこれらの説明を聞いた際に個人的に違和感を覚えた。確かに日本人のコミュニケーションスタイルとして本音と建て前の使い分けというのはよく紹介される文脈であろうし、私自身も感じるところであった。しかし、日本人が常に本音を隠しているかというとそうではないだろう。またフィンランド人が常に本音で会話しているかというと、おそらくそんなことはない。にも関わらず、この説明を受けた人が、「日本人はいつも本音を隠しているんだ」と意識するようになったとしたら、個人的に残念だと思った。面白さを出すためには、ある程度は誇張して話をしたい気持ちは分かる。一方で、それが誤解そしてステレオタイプ化した解釈を招くことがあるのだなと感じた。

 また別の日、今度はフィンランド人の友人から「日本人とフィンランド人には共通していることが多いね」と言われた。彼は日本に旅行した経験を踏まえて、どちらの国も木材を多用する文化があること、時間に正確であることなどをいくつか共通点として取り上げた。私ははっとした。異国に来て、日本との違いを探すことに夢中になっていたが、日本と類似した点があってもいい。私は少しうれしくなると同時によく分からなくなった。考えてみれば、こんなに様々な点で違いがある二つの国になぜ類似点が存在し得るのか。そもそも二つの社会が違うかどうか、何をもって決めることができるのか。もっと言えば、嗜好や価値観、行動パターンなどは、同じ社会に住んでいても個人によって異なるものであろう。それをあえて国というまとまりで傾向を捉えることは難しいのではないか。このようにして、私は日本にない刺激を求めて異国に行った結果、社会を比べることの難しさに初めて直面したのであった。

 やっかいなことには、このような社会比較を完全に避けていくことはできない。フィンランドにいれば日本のことを聞かれ、日本に帰ればフィンランドのことを聞かれる。誰しもが、この「にわかエキスパート」あるいは「急造された日本代表」にそれなりの答えを期待してくるものだ。ある時、私はフィンランド人から日本の教育制度について聞かれ、「よく分かりません」と答えてみたことがあったが、やや失礼な感じがした。また学問的に考えれば、それは比較する際に用いる指標やデータの取り方によっても異なるし、その前提となる科学哲学的な視点によっても異なるだろうが、それも日常会話のなかでの答えとしてはあまりに素っ気ないと思った。考えてみれば、ある社会の見え方というのは見る人によって変わってくる。つまり日本人の私にとっての日本とフィンランド人の講師や友人が見る日本では当然見え方が異なる。従って、各自が各自の視点で感じたことを話すのは別に悪いことではない。それなら、むしろ自信をもって自分の言葉で話せばいいと思うに至った。

 そこで重要になるのは、話す相手の興味や意図、それにバックグラウンドを理解したうえで、相手を傷つけたり相手に誤解を与えたりしないような配慮を施すことであろう。また、前提としてそれがいかに正解のないトピックであるかを伝えるべきであろう。私はそれ以来、異国や自国について話す機会があるたびに、このデリケートなアプローチを意識するようにしているが、今でも適した話し方ができている自信はなく、心のなかで反省してばかりである。それでも、ほんの少しずつパターンを理解し慣れてきたような気がする。そう、これは実践のなかで身に付けることができる能力なのであろう。異国に行く機会があれば、自分のなかで社会の違いを感じて新しい刺激を得ると同時に、「その社会の違いについて他者に伝える」というデリケートな能力を磨かれてはいかがであろうか?

灘山直人
経済学部准教授・国際ビジネス論

『学問への誘い』は神奈川大学に入学された新入生に向けて、大学と学問の魅力を伝えるために各学部の先生方に執筆して頂いています。

この文章は2020年度版『学問への誘い—大学で何を学ぶか―』の冊子にて掲載したものをNOTE版にて再掲載したものです。