見出し画像

新月のページ(生命と悪について)  - 命の大切さ なぜ悪が

 この広い宇宙の一角で、地球は、まるで生命をはぐくむ意思があるかのように、まるで地球という星自身が生命であるかのように、何十億年もの時をかけて生命のための環境を整えてきてくれました。そもそもは種をき、光をそそぎ続けた太陽の仕事かもしれません。宇宙のもっと大きな意思なのかもしれません。あまりにも壮大な偶然かもしれません。
 私(月)が宇宙や地球の話をしてきた理由、それは、地球が少なくともこの近辺では例のない生命豊かな星であり、一つの命がそこに当前のようにあるためには、万倍の万倍の万倍、そのまた万倍の万倍の人智の届かない準備や序曲プロローグがあったことを伝えたかったのです。

 でもね、矛盾したことを言うようだけど、宇宙のことも地球のことも、知らなくたって死にはしません。私がしてきただらだら話も絶対的なものではありません。それは、かしこい人たちが観察や研究を積み重ねてきて、今の時点で確認できたことや、おそらくこうだろうという推測なのです。これからも次々と驚きの新事実が発見されていくことでしょう。今までの推測がどんでん返しになるような事実も発見されるかもしれません。
 そうです。星の名前も大気の成分も知っているからといって何か立派なわけではないのです。実際、世の中には、宇宙のことなどほとんど知らなくても、何も言われなくても、命を大切にする人がいます。その逆に、宇宙に限らず豊富な知識がありながら、生命を軽んじて冷淡にふるまえる人もいます。両者は何が違うのでしょう? 両者といってもその中間の人もたくさんいるし、誰もが両方の部分を持ち合わせているとも言えるでしょう。

 月から見上げる地球には、二人の「私」が映っています。
 命を大切にしようとする「私」と、命を軽んじる「私」です。
 命を大切にしようとする「私」にあるもの、それは命への畏敬いけいです。
 命への畏敬とは、命の不思議や美を感じ、命そのものをそっと尊敬できる心です。でも、
 命を軽んじる「私」は、そんなことばに反射的に反発を感じます。さらに、命に対する見限りがあります。それは、命なんてたいしたことないとか、つまらないと決めつけることです。

 命を軽んじる「私」の反発は、もっともな事とも言えるのです。なぜなら、
 命には不完全な一面があります。
 永遠の命というものはなく、どんな命にも終わりがあります。けがや病気は間近でいつでも待ち構えています。あっけなく死んでしまう「はかなさ」もあります。人は洞窟どうくつに住んでいた頃から野獣におびえ、敵に怯え、落雷に怯え、いろんなものに怯え、いつその命が終わるかしれない不安や緊張の中で生きてきました。命は誰にとっても昔も今も、行き先表示のない片道乗車券のようなものだったのです。
 しかも、人は空気や水だけでは生きていけません。他の生き物の命をいただいて、体じゅうの細胞が入れ替わり続けることで、何十年も、人によっては百年以上も、生きられるのです。人は生き物をおいしく感じながら食べて、栄養を得ます。食べられない状況が続けば自分が死ぬことになります。
 それに、人にとって害のある生き物もいます。人は我慢し続けるわけにはいかず、たたいたり、薬品をかけたりします。そして、命を殺すことに慣れっこになります。
 一方で、「命を大切にしよう」と校長先生はおっしゃいます。でも、そんな瞬間でさえ人は革靴かわぐつありを踏みつぶしているかもしれません。一つの命が生きていくことは、わざとでも、そうでなくても、他のたくさんの命を奪っていくことでもあるのです。

 命には不可解な(よくわからない)一面もあります。
 いったいなぜこの命があるのでしょうか? 人は何のために生きているのでしょうか?
 …お金を稼ぐため? 幸福になるため? 夢をかなえるため? 仕事して社会に貢献するため? 民族や国家の繁栄のため? 人類の繁栄のため? では人類以外の生き物の命は何のため? 嫌われ者のやゴキブリは?
 しっかりした人は、そんな疑問には深入りせず、自分や身近な人が少しでも幸福になるようにと願い行動します。幸福を求めて堅実に生きることは、何より確からしく思えるし、生活の安定や品行の良さにもつながる自然なことでしょう。
 しかし、この命が何なのか、突き詰めれば何のために生きるのか、人それぞれの解釈や信念はあっても、ににんがし(2×2 = 4)のような疑問の余地のない正解はどこにも見当たらないのです。私が無知なだけでしょうか。

 不完全で不可解な命…。人は大昔から、命の不安、命のはかなさ、命のなぞ、命のもどかしさなど、一言ひとことで言うなら「生の不安」とでも表現するしかない荷を背負い、もがいてきたのです。そこへさらに、命の残酷や不平等と思える現象を動物の世界に見て、自分たち人間の世界にも見ます。人間がときには意地悪に、ときには冷酷残忍になる姿を見聞きし、自分でも辛い目にあうし悔しい思いもします。他の人と比べては、自分の生い立ちや今の境遇や身体的なことを不幸に感じることもあります。
 だから、命への畏敬などと言われても、心のどこかで反発してしまうのです。反発しないまでも、ぴんと来ないか、何かひっかかるものがあるのです。

 人は、その「生の不安」を打ち消そうとせずにいられません。
 自然界の「力」あるものが生き残る図式は人にわかりやすく映ります。小さな魚を大きな魚が捕食し、その大きな魚をもっと大きな魚が捕食するのを知って、人は、これを「弱肉強食」とか「生存競争」と解釈します。
 人間社会での「力」は文字どおりの力より、財力(経済力)が最大の力で、それを産み支える力として、学歴、職業、地位、世渡りや口先のうまさ、見映みばえなどになります。
 国のレベルでは、これに国土や人口や軍事力も加わります。
 人は、「生の不安」を「力」で打ち消そうとします。そのとき、
「力」を強くしようとすればするほど、「力」を徹底しようとすればするほど、命の畏敬などとはいっていられません。むしろ邪魔になります。
「生命なんて放っておいても勝手にき出てくるもの、人間にしてもちょっとばかり複雑になっただけで元々ずるくて性悪しょうわるな動物」と割り切れば、人間の命だって魚の命と大差なく感じられます。貧富の差や戦争さえも、いくらか正当化された気分になります。

 ちょっとここで話がそれますが、人は花や野菜を「作る」と言います。同様に、人は子どもを「作る」と言います。でも、最初に種をき、水や肥料の与え方や育て方を知ってはいても、その生命力のみなもとを知っているわけではありません。
 植物なら、地に落ちた一粒の種がひとりでに芽を出し、茎が伸び葉が茂り、葉脈が複雑に広がり、つぼみができて花開くのはなぜでしょうか? ちょう蜜蜂みつばちに受粉させて次の種を抱え、その種を風に乗せたり動物に運ばせたりして、次の土壌どじょうに届けようとするアイデアや仕組みはどこから出てきたのでしょうか? DNAに刻まれた遺伝子情報がそうするのでしょうか? 誰が(何が)その情報を刻んでいるのでしょうか?

 人なら、0.1mmほどの受精卵から始まる命は、栄養や酸素をもらいながら、おかあさんのおなかの中を移動し成長するための場所に着床ちゃくしょうします。えらやしっぽもある稚魚のような姿を経て、身長1cmになる頃にはもう小さな内臓ができ始め、心臓も脈打ちます。頭と胴体は別れ、手や足、眼や鼻、耳や口などの元の形ができ、膵臓すいぞうはインシュリンを、腎臓じんぞうはおしっこを、肝臓かんぞう胆汁たんじゅうを作り始めます。小さな命は、羊水の海で少しずつ成長しながら人らしい姿になっていきます。手足を曲げては伸ばし、指しゃぶりやしゃっくりもします。へそで結ばれたおかあさんから栄養をもらい、おかあさんに老廃物を渡し、間もなく生まれ出ることになる世界の音に耳を澄ましています。
 おかあさんは、「さて、胎盤たいばんを用意しましょう。そろそろ、心臓をこの位置にこしらえましょう。では、指を5本に分けましょう」などとは思いません。おかあさんには、料理を作るときのようなレシピがあるわけでも、機械を組み立てるときのような設計図や手順書があるわけでもありません。おかあさんは、いろんなことに気を配りながらも、小さな命の成長そのものは生命の不思議な力にゆだねているのです。
 めだかのたまごより小さなたった1個の卵細胞が、それぞれの役割をになった何十兆個もの細胞になるまで細胞分裂を繰り返し、約10か月かけて人の体へと成長していく神秘で緻密ちみつな過程。光の届かない世界で、小さな命とおかあさんの体が、着床の前後から誕生の瞬間まで綿密に協力し合う姿。それらは人の手の及ばない生命自身の営みなのです。

 でも、人は子どもを「作る」と言います。人にとって役に立つ生き物なら「資源」と呼び、困ったら「処分」します。それは表現上のことで普段は何ともないでしょう。それでも、何気なく口にするそれらのことばで、人は知らぬ間に思い上がっていくことがないでしょうか?
 人間は地球上で一番かしこい生き物です。きっと太陽系でも一番でしょう。ひょっとしたら銀河系でも一番で二番はチンパンジーかもしれません。しかし、生命に対する謙虚さを見失ってしまったら、勉強ができる銀河の駄々っ子に過ぎません。動物実験をおもしろがる学力優秀な学生が子どもたちの先生や医者になることがあります。その優秀さゆえに特定の子どもを伸ばし特定の患者を救うこともあるでしょう。しかし、その特定の人たちを含む大勢の人に、少なからず負の連鎖を招いているのです。
 さて、私はまた、自分で言っておきながら混乱してきました。いったい、何を言おうとしていたのでしょう? ポチはまた、あきれているんだろうな。

 でもたぶん、こういうことかな…。
 月には悪はありません。戦争も貧困も飢餓もなければ、いじめや虐待や殺人もありません。たとえ地球上でも、石と石が裏切ったり殺し合ったりすることがないように、生命がないところには悪もないのです。生命があるところに、もっと絞り込めば、人間の生命があるところに、悪もあるのです。
 動物も生きるため、相手をあざむき生死をかけて戦いますが、人間は、ことばや道具を使い、意味を求め、損得のことが頭を離れず、複雑なことも大がかりなこともできるので、深い悲しみや苦しみや恨みに発展し、それが持続もするのです。
 そうです。悪は、まさに人間の生命のあるところにあるのです。

 しかし、生命そのものが悪ではないのです。
 悪は、生命に対して人間がどう思い、どうふるまうかで発生するものなのです。

 生命がどこから、何のために、やってきたのか?
 …私にはわかりません。
 生命が尊いものかどうか?
 …尊い、と私は感じずにいられませんが、正解を見たわけではありません。
 銀河の中の地球という星は、
 (1)幾多の生命の条件が、幾重にも偶然に複雑に積み重なった結晶なのか? それとも、
 (2)何か不可思議な意思によって入念に用意されたたまものなのか?
 …(1)なら、それはそれで奇跡の中の奇跡でしょう。人が宙に浮き神聖な像が血の涙を流すことを人は奇跡といいます。しかし、地球とその生命こそ何よりの奇跡なのです。
 私は(2)のような気もしてなりませんが、それもまた最高の奇跡でしょう。

 そうなのです。根源的なことは、ほとんどわかっていないのです。宇宙も地球も生命も人間にわかっているのは、ほんの少しのことだけなのです。だけど、わからないことは人間の責任でもないのです。星に手が届かなくても人間に責任はないように。
 人間に責任があるとしたら、一つひとつ授かった命を、どう受け止め、どう生きるか、誠に実に、そこにあるのではないでしょうか。

 命が尊いと思える人は幸いです。
 ですが、素直に命が尊いと思えない人もまた幸いです。なぜなら、そこには本当の姿ではない世界への「気づき」と「抗議」があるからです。
 だからといって、命を見限らないでほしいのです。
 命を見限ることは簡単です。でも、そこに悪は巣くうのです。
 命を見限らないでください。
「考えすぎね」と、人は言うかもしれません。
 そう、誰もわざわざ「命を見限ってやろう」とは思っていません。思ってないけど見限っているのです。まさにそれが困ったところなのです。
 命の見限り、その行きつく先が、武力での殺し合い、戦争なのです。

 半月のページ (戦争について)   につづく

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?