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福島大熊町の3.11語り部

 福島県の大熊未来塾の木村紀夫塾長は2011年3月11日に起こった東日本大震災後の津波によって3人の家族を失った。父親の王太朗さん(当時77歳)、妻の深雪さん(37歳)と次女の汐凪さん(7歳)だ。
 自宅は海岸沿いにあった。当日、紀夫さんは自宅から15分くらいのところで仕事をしていた。ラジオでは3メートルの津波が来るというので、自宅が海抜6メートルくらいだったので安心してしまったという。
 しかし、実際は10メートルを超える津波が襲った。
 夕方の5時頃、まだ明るかったが、紀夫さんは自宅に戻った。するともう何もなかった。津波で全て流されてしまっていた。
 しかし、家族が犠牲になっているとは思わなかった。高台があるので逃げられただろうと思い、むしろ津波ってすごいなと感動していた。

学校に残されたことで助かった長女
 長女は小学校にいたが、地震が一段落すると校庭に避難した。いつも王太朗さんが車で迎えに行っていたが、その日もそうだった。しかし、王太朗さんの妻つまり紀夫さんの母親が自宅にいるのでいったん戻って、長女を学校に残していった。結果的にそれで長女は助かった。
 次女は隣の学童保育の建物にいた。そこに駐車場があった。自宅に戻る王太郎さんは次女を車に乗せて帰宅した。そして犠牲になってしまう。
 「私の父は小学校から自宅へ通常のルートで帰った。おばあちゃんは高台で津波を見ていたのを近所の人と普段使わない高台のルートで避難した。そのためにおばあちゃんは助かったのです」と紀夫さんはいう。
 その日、まだみんなの安否が分からず、避難所を回ってみた。一回自宅があった場所に戻ったがもう暗かった。そこに犬がリードを引きずって裏山から駆け下りて来た。犬にリードをつけて家から連れ出せるのは妻だけ。
 「犬は砂だらけだった。津波に巻き込まれたのだろう。犬は助かったが、3人は犠牲になったと思わざるをえなかった」。

木村紀夫さん


 紀夫さんは2024年4月19日(金)、福島行動隊が衆議院第二議員会館第8会議室で開いた集会で「東日本大震災、大熊町から考える防災と社会課題」というタイトルで講演を行った。
 「「津波てんでんこ」という言葉があります。絶対に行っちゃいけない。それぞれで逃げなさいという意味です。行かなくてもいい状況を災害が起こる前に作っておくということだと思います。家族そして近所の人たちとどうやって逃げるかを共有しておくのです」。
 「遺族はみんな「あの時ああしておけばよかった」という話を持っています。それをたくさん聞くことが教訓になると思います」。
 福島県も歴史的に津波の経験があった。17世紀のことだ。1611年には相馬藩で700人が犠牲になったという。
 「みんな知らないだけ。これを家族で共有していたら、亡くならなくて済んだのではないかと思います。次女がこれを知っていたらじいちゃんに行っちゃだめだと言っていたと思います」。
 「皆さんが暮らしているエリアで過去にどのような災害があったか、何千年というスパンで知っておくことは大切です。今もしかしたら、そういう(ことをすべき)時期に来ているのではないかと思います」。
 そして自分で判断が出来るだけの知識を得ておく重要性を紀夫さんは説いた。「おばあちゃんは役場の職員から公民館に避難するよう言われましたが、ここの方が高いといって行かなかった。もし行ったら流されていた」。
 「私はいつも訊ねるんです。もし学校の先生にこうしなさいって言われたら嫌といえるかと。日本はタテ社会だけど、それで言うことを聞いていたら命取りになることもあります」。

自分で自分を守るという意識
 防潮堤って必要かと言われれば「要らないと思いますよ」。「防潮堤があるから安心してしまうより、自分を自分で守るという意識を高めることの方が大切です。実際、津波の到達まで50分あった。歩いてでも逃げる場所があったんです。防潮堤で安心してしまわなければ」。
 そして話は戻る。助かった長女を連れて妻の実家岡山に3月16日に行った。紀夫さんは18日に福島に戻った。チラシを作って情報を求めて200ヵ所以上回った。
 4月10日、妻の深雪さんが自宅前から40キロ南に流された海上で見つかった。4月29日には、自宅前の田んぼでうつぶせに倒れている父親の王太朗さんが見つかった。
 次女は見つからなかった。
 がれきの中から遺品が見つかるケースもある。自宅のがれきをフルイにかけて探した。気の遠くなるような作業。スキーウェアや入学式のブレザーなど家族の遺品が50点ほど見つかった。
 「大変な作業の中、癒しだったし笑みがこぼれたんです」。
 2016年9月、紀夫さんは環境省に捜索を依頼した。多い時は100人体制だった。「最初に見つかったのは(次女)汐凪のランドセルでした。12月9日にはミッキーのついたマフラーが見つかった。そこから首の骨も出て来た。そして彼女の身体の2割くらいは見つかりました。しかし、8割はまだ見つかっていません」。
 「あれって思ったことがありました。彼女は津波で亡くなったのか、ここに置き去りにされて亡くなったのかって。というのもパニック状態の中で地元の消防団がこのへんでかすかな声を聞いたというんです。しかし、置き去りにせざるをえなかった。原発事故のせいです。怒りが再燃しました」。
 「汐凪が亡くなった場所の近くに木があってミサゴという鳥が巣を作っていた。親子が普通に生きている。人は逃げてしまった。それでいいのか」。

誰も犠牲にしない防災・社会のため
 「原発を動かすのは生きてゆくためならば仕方がないと思うけど、「この商品があったら生活が楽になる」とか「稼げる」とか、そういうレベルで原発を動かすのだと思うんです。人に対して犠牲を強いています」。
 「その答えは今の社会の中では見つからない。今と反対の社会・世の中になっていたら答えは出るでしょう。で考えなくなってしまう。それじゃいけない。考えるのを止めないことです」。


 大熊未来塾の「フィールドは私の自宅の周り。いろいろな施設が残っている。学校は原子力災害の影響で、地震で散乱した子どもたちの私物が教室にそのまま残されています。津波で半壊した公民館など。原発を見学するよりこの小学校を見る方がよっぽど勉強になると見学した学生が言っていました。自分ごとになってゆくんです」。
 福島県の語り部育成ネットワークの目的は「風化防止」「魅力の発信」「風評払拭」だという。「それが語り部の目的になっちゃっていた。復興のために語り部を利用していこうということです」。
 紀夫さんは「誰も犠牲にしない防災のため、誰も犠牲にしない社会のため、伝承など活動をしているのです」と話した。
 助かったおばあちゃんはいわき市で復興住宅暮らし。長女はいわき市内のアパートで一人暮らしをしているという。

 

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