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『蝶で還る冬の空』

 本村もとむら志郎しろうは寒空の下にいた。
 上着も羽織らずに、部屋着のスウェットだけだ。
 2月の冷たい風が、肌に突き刺さる。
 朝の天気予報では気温がマイナスを表示していたことを志郎は思い出した。
 他よりすこしだけ標高の高い志郎の町は、空がいくら晴れていようと、風に乗って山からの雪が舞う。そんな田舎町だ。
 そもそも、志郎はこんな長く外にいるつもりではなかった。すぐに家に引っ込むつもりであった。
 しかし志郎は話を聞く。
 隣に腰掛ける老婦人に。
「──なぜ、旦那さんのお葬式に出ないんですか?」

♦︎

「佐藤家さんの爺さんが死んだ」
 志郎の父がそう言ったのは数日前のことだ。
 享年88歳であったと志郎はのちに知った。
 佐藤家は本村家のすぐ隣。近所付き合いがあった父や母とは違い、志郎は特に何も思わなかった。ただの隣人。外ですれ違ったときに軽く会釈をする程度の関係だ。
 時折、佐藤家の老夫婦が手を繋ぎながら散歩をしている姿を見かけることがあり、志郎にとって好印象ではあった。

 志郎の住む地域では、隣組と呼ばれる近所の各家から代表が出て、通夜、葬式、火葬まで手助けを行う。本村家では父がその役を担い、通夜に参加した。
 次の日の出棺の際は、隣組の住民全員が見送りを行わなければならない。そのため、志郎も外に出て見送りの輪の中に入る。見送りだけの参加者は礼服である必要はない。志郎は適当に地味な色のスウェットで外に出た。
 喪主を務める佐藤家の60代くらいの男性が挨拶をした。老夫妻の息子であることは志郎も知っていた。もちろん話したことなどなかった。
 喪主の挨拶が終わると、佐藤家は葬儀屋が用意したワゴン車に乗り込み、霊柩車の後に続いて葬式会場へと向かった。
 2台の車が見えなくなると、参列者は各々家に戻っていった。

 志郎も自宅に戻ろうとした。
 そのとき、佐藤家の庭の奥の方で人影が見えた気がした。
 玄関先からは見えにくい縁側だった。
 そこに腰掛けている何者かの姿が見える。
 志郎は泥棒かと身構えたが、腰掛けている人物は全く動かない。ただ静かに、そこに座っている。
 志郎は自宅の2階に駆け上がり、佐藤家の縁側を確認した。
 縁側に腰掛けていたのは高齢の婦人だ。
 今日葬式を上げる、故人の妻であった。

 志郎は驚いてすぐに外に出た。
 そして会場に向かおうとしている父を呼び止めた。
「親父、ちょっと待って」
「なんだ、忙しいのに」
「佐藤さんちの婆さんがまだ家にいる。連絡した方がいいんじゃないか?」
「……婆さん。ああ、いや、大丈夫なんだ」
「え、だって」
「喪主の浩一さんが、出席できないと言っていた。認知症だそうだ」
「認知症……? 葬式に参列できないくらいの?」
「ああ、そうらしい」
「自分の夫の葬式なのに?」
「ああ、とにかく父さんは行くからな」
 父は車に乗り込み会場へと向かっていった。志郎はしばらく呆然としていた。
 父が嘘をついているのか、知らないだけなのかは志郎には知る術がない。
 本当に認知症だったとして、その人間を一人きりで残してはいくことは少ないだろうと、志郎は思った。また、つい最近まで夫婦が手を繋いで散歩している姿を知っている。

 志郎は佐藤家の玄関先から奥の縁側を見た。
 婦人はまだそこに座ったままだ。
 この寒い空の下、夫の葬式に出ず縁側に腰掛ける婦人を志郎は見つめた。
 見つめているうちに、情が湧いたのか、単なる好奇心か、それとも別の感情か。
 志郎は婦人に話しかけていた。
「あの……」
「……あら」
 婦人はぼんやりとした瞳で志郎を見上げた。
「隣の本村さんところの志郎ちゃんね」
「はい」
 ほとんど話したことのない自分の名前を呼ぶのを聞いて、やはり認知症ではないと志郎は思った。
「何か用かしら」
「あの、お一人だったので……」
 志郎がそう言うと、婦人は何かを悟ったように微笑んだ。
「ここへどうぞ」
 婦人は隣に座るよう促した。

「奥さん」
「千代でいいわ。志郎ちゃん」
「千代さん。なぜ、旦那さんのお葬式に出ないんですか?」
「妻が旦那の葬式に出ないなんて、非常識よねぇ」
「いえ、その。何か理由があるんですか?」
「まあね」
「言いたくないことなら、いいんですけど……」
「そうね……」
「仲が良くて……羨ましかったので、その、何でかなって」
「……ふふ、志郎ちゃん。私達のことそんな風に見てくれていたの?」
 婦人は志郎の目を見つめながら、嬉しそうに笑った。
「……あれを見て」
 千代は後ろを向き、部屋の中を見ながら言った。目線の先にあるのは、壁にかかった真っ赤なワンピースだった。
「あれをね、着ようとしたの。お葬式で」
「えっ」
「そういう反応になるわよね」
 千代は微笑んだ。しかしどこか寂しさを含む笑みであった。
「お爺さんと出会ったときに着ていたワンピースなの。目立つ色って、ついつい目で追ってしまうでしょ。お爺さん、この真っ赤な色に目を奪われて、それから次に、それを着ていた私に目を奪われたんですって」
 千代は言ってから少しはにかんだ。
「だからこのワンピースは二人の思い出のワンピースなの。もうこんな歳なのに、未だに捨てられずに取ってあるの」
「そうなんですか」
「それでね、お爺さんが言っていたの。俺が死んだ時はあれを着て見送ってくれって」
 志郎は壁にかかったワンピースを再度見た。
 派手な赤い色だ。結婚式の会場でも目立つだろう。
「でも、それは……」
「分かってる。お爺さんだって本気で言ったわけじゃないって。ちょっとした冗談のつもりだって」
 千代はワンピースに背を向けて、俯いた。
「でも息子に、浩一に言ったら、俺が恥ずかしい思いをするからやめろって。そう言われたの」
 千代からは笑みが消えていた。志郎はただ黙って話を聞いていた。
「分かってる。分かってる……そりゃあ残されるのはあとの人たちだもの。馬鹿らしいことよ。でも何でかしら。何だか悔しくて。つい意固地になっちゃって。これを着ないと葬式には出ないと言ったの」
 志郎は何も答えなかった。
 正直なところ、大学生の志郎にはピンとこない。仮に母が、同じように申し出たとして、それを許可するだろうか。多様性だとか、現代の傾向だとか、そういったことではないような気がする。
 かける言葉が見つからず、志郎はただ黙っていた。
「こんなことで、お爺さんを見送れなかった。ほんと、何で、こんなことで。でも、でも……お爺さん……」
 千代が呟いた。それが引き金となったのか、千代の目から涙が溢れた。
「ごめんなさい……馬鹿ね、私……」
 千代はごめんなさいと何度も呟いた。
 志郎は黙ったまま千代の背中をさすった。
 千代の涙は止まらなかった。

 ひらり、と一頭の蝶が千代の肩にとまった。
 黒いアゲハチョウだった。
 こんな時期に蝶がいるのか。志郎は不思議に思った。千代もそうだったようで、泣きながら肩の蝶を見つめていた。
 しばらく眺めていても、蝶は千代の肩を離れなかった。
「…………お爺さん?」
 ポツリと千代が呟いた。
「お爺さん、ごめんなさい。私、私……」
 千代は蝶に手を伸ばした。
 すると蝶は千代の手の中にとまった。
「お爺さん、私を許してくれる?」
 蝶は手の中で羽をゆっくり動かしたあと、ふわりと飛び上がり目尻の涙を払い落とすように千代の頬に触れた。
 ぽとりと一粒の涙が落とされると、もう千代の目から涙は溢れなかった。
 千代の周りを蝶はしばらく旋回すると、やがて風と共に青空の中へと溶けていった。
「お爺さん、私を許してくれたのかしら」
 あの蝶が千代の旦那だったのか、志郎には分からない。
 しかし、そうだったら良いのにと願いを込めて、志郎は歪む視界の中で頷いた。

 千代は目を擦ってから言った。
「私が死んだ時はあのワンピースを着せて棺に入れて欲しい。そしたら向こうでお爺さんに見せられるし、それくらいなら息子も分かってくれるわよね」
 そう言って満面の笑みを見せた。
 志郎は頷いた。
 それから室内に入り、葬式が終わるまで、たわいもない話を交わした。

 一ヶ月後、夫の後を追うように、千代は亡き人となった。

 志郎は父と共に通夜に参列した。
「お前まで来なくても良かったんだぞ」と父は小声で言った。
「千代さんは知り合いだから……」
 父は少し驚いていたが、通夜の会場のためかそれ以上は聞いてこなかった。
 志郎達に順番が回り、父の後に続いて喪主の浩一に挨拶をした。
「この度はご愁傷様です」
「ありがとうございます。顔を見てやって下さい」
 志郎は布団に寝かされている千代を見た。首元をそっと見て、思わず「えっ」と声が出た。そして千代の被っている布団を少し捲った。
「どうかしましたか?」
「赤いワンピースは……」
 千代が来ていたのは白装束だった。
 浩一が驚いたように志郎に言った。
「知っているのかい?」
 父が困惑気味に「なんの話ですか?」と浩一に聞いていた。
「母は生前、死んだ時に気に入っていた赤い服を着せてくれと言っていまして……」
「これから着せ替えるんですよね?」
 志郎は期待を込めて聞いた。
「いえ……」
「今時は故人の好きな服を着せることもあります。白装束に拘らなくても」
「しかし、流石に赤は……」
「でも……」

 そのやりとりが聞こえていたのか、テーブル席から数名の声が上がった。
「確かに赤は葬式に着せる色ではねぇ?」
「そうだよなぁ、非常識だ」
「兄さんが死んだときにも赤い服を着たいとか言っとったそうじゃないか。へんな嫁だった」
「ちょっと仏さんの前で失礼よ」
「都会の連中は妙なことするから」
「罰当たりだ」
 口々に言う親戚や同席者に対して、浩一は「そうですよねぇ」と首を縦に振っていた。
「赤い服は着せられないので、葬式は出来るだけ立派なものにしてやろうと思っておりまして」
「それでいいだろう。千代さんも十分喜ぶだろうよ」
 親戚であろう一人が笑いながら言った。
 志郎が浩一に何か言いかけようとすると、父が肩を引き、首を横に振った。
 志郎は千代の顔を見て手を合わせた。もうその場には居られず、ひとり通夜会場を出た。
 通夜会場が遠くなると、叫びたい気持ちを抑えるように夜の道を駆け抜けた。

 家に着き、驚く母を無視して、ビールを持って2階に上がった。
 ベランダで夜空を見上げながら、ビールの缶を開けた。
 ぐっと一気に飲み干すが、得体の知れない感情をアルコールは消してはくれず、涙が頬を伝った。
 自分は何も出来なかった。どちらの願いも叶っていない。誰のための葬式だ。古い考えだ。何故笑えるんだ。腹が立つ。親父にも腹が立つ。しかし自分は無関係者だ。こんな自分にも腹が立つ。
 ぐるぐると思考が巡り、立ってなどいられず、その場に座り込んだ。
 すると一頭の蝶がひらりと近づいた。あのときと同じような黒いアゲハチョウだ。蝶は志郎の涙を拭うように頬に触れた。
 そうしていると、空からもう一頭の蝶がやってきて、二頭は揃って夜空に飛び立っていった。
 舞い上がっていく蝶を、志郎はただ見つめていた。暗い夜空にかき消されて、蝶はあっという間に見えなくなった。
 白い雪が志郎の鼻先に当たった。細かい雪が風に乗って飛んでいる。今夜も冷え込みそうだ。春先にはまだ遠い。
 志郎は立ち上がり、母へ報告するために、その足を踏み出した。

 了。

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