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『秘密』

 これは、俺がまだ共学の高校の養護教諭をしていた頃の話だ。

 その日、俺はわざわざ手書きで『保健だより』を作成していた。ワープロで作ればいいのものを、PTAのたったの1名、本当にたったの一人だけが「手書きの方が温かさがあって良い」とくだらないクレームを入れたのだ。
 一人しか申し出ていないのだから、適当に流せば良いのものを、そのときの校長はへいこらと頭を下げて受け入れたのだ。
 ふざけた話だと抗議をしたが、俺の抵抗はむなしく却下された。仕方がなく指示に従い、納得いかないまま保健室の机に向かい作業を行っていた。

 外からは夕日が差し込み、部活動が終わった帰宅していく生徒の声が聞こえてきた。窓に目をやるとそれぞれ家路へ向かっていく姿が見える。
 残業だけは御免だと、自分も早く終わらせて帰るため机に向き直した。

 結果から話すと、その日は結局、俺は残業する羽目となる。

 作業をしていると、保健室のドアを叩く音が聞こえた。その音に俺は扉を開けた。そこには一人の男子生徒が立っていた。
「どうした、怪我でもしたのか」
「違います……」
 その男子生徒は蚊の鳴くような声で答えた。
 彼はひどく青ざめており、身体が小さく震えていたため、体調が優れないのではないかと考えた。
「具合が悪そうだな。ベッドで休んでもいいがもう帰宅できる時間だ。自力で帰れないようなら家の人を呼んだ方がいい。それとも担任に……」
 俺がとるべき行動は、彼の体調確認を行い、容態が悪化するようなら病院へ送迎、最悪の場合は救急要請も必要かと思考を巡らせていた。
 しかし男子生徒は保健室に一歩入ってから動かない。
 こちらから尋ねる前に、彼の方から口を開いた。
「先生、具合が悪いわけでは……いえ、悪いといえば悪いのですが、体調が良くないと言うわけではないのです。帰ろうと思えば帰れるのです……」
 俺は一瞬混乱したが、すぐに理解した。
 彼は何か“相談”があり、そのためにここへ来たのだ。

 保健室のドアを閉め、帰宅する生徒が見える窓のカーテンを閉めた。
 スクールカウンセラーなどいない学校のため、養護教諭が生徒のメンタルヘルスケアを行う必要がある。
 出入りする扉には『使用中』の札をかけて、他の者の出入りを一時的に禁止とする。
 この保健室は『カウンセリング室』となった。

 相談にきた生徒の名は高崎と言った。俺は高崎を自分の対面の椅子に座らせ話を聞く姿勢を取った。
 このようなとき重要なのは、相手から話すのを“待つ”ということだ。
 残業確定となったが、生徒と向き合う方が大切だ。時間は過ぎていくが、俺は高崎が話し始めるのを静かに待っていた。

「先生は、幽霊の存在を信じますか?」
 長い静寂のあと、高崎の開口一番にそう聞いてきた。
「……どうだろうな」
「その……自分は偶にですが、そういうものが見えるのです」
「幽霊を?」
「はい……信じてもらえないかもしれませんが」
 このような話題は呆れる相手もいるだろう。
 しかし否定の言葉は彼自身を否定し、不安を助長することに繋がる。
「……何か抱えているのなら、俺で良ければ話してみなさい」
 否定をせず、ただ自分はお前の話を聞く、という返答をするしかなかった。
 彼の友人達がどこかからこっそりとこの様子を見ていて、彼自身も俺をからかっているのだとしたら別だが、その時はその時である。まぁ、仮にそうだったらそれなりの制裁を加えるだけだが。
 しかしこの様子だとそれはなさそうだ。もし嘘ならかなりの演技力である。

「まだ誰にも言っていないことなのですが、このような“相談”というのは誰かに、担任に報告されたりするのでしょうか?」
「それは話の内容による。だが、もし他の誰かに話す必要があると判断した場合は、必ずお前に事前に相談する。それは約束する」
 心の相談などは、時には命に関わることがある。そのような時は俺一人では対応できない。しかし信用して打ち明けてくれたことを、本人の知らないところで勝手に扱いはしない。
 他所ではどうか知らないが、俺はこの仕事ではそのように心がけていた。
「先生……分かりました。でも信じてくれなくてもいいのです。そういう内容なのです。おそらく誰かに話す必要は出てこないでしょう。信じられないようなことなんですから。僕は誰かに言いたいだけなのです。誰かに言わないと気が変になりそうなのです」
 高崎はどうやら俺を信用に値する人物であると判断してくれたようであった。
 そして彼は話し始めた。

「山下さん、山下由美香さんのことなのですが……」
 山下由美香というのは現在行方不明で捜索中の女子生徒である。数週間前から行方がつかめずにいる。
「山下がどうかしたのか」
「……彼女、死んでいます」
 高崎は震える声で言った。
 何故そんなことが分かるのか、という質問は無粋である。
 彼は最初に「自分は霊が見える」と言ったのだから、おそらくそういうことなのだろう。
「先生、分かってくれますか?」
「そうか……」
 山下が死んでいると分かったが、誰にも言い出せずに気を病んでいたのかと俺は思った。
 しかし高崎の話は終わりではなかった。
「先生……本題はそのことではないのです」
「他に何か気にしていることがあるのか?」
「山下さんの出る場所です」
 “地縛霊”と呼ばれるものがある。もしかしたら、山下の霊が出る近くに遺体があるのかもしれない。
「山下はどこにいるんだ」
「先生は、僕の話を信じてくれるのですね……。そして先生は“地縛霊”かもしれないと思っているでしょうが、残念ながら違うのです。そうですね、霊の種類に名前がつくのなら、彼女は“背後霊”になっているんです」 
「……誰かの背後についているのか?」
「はい……」
 高崎は背中を丸めて俯き、頭を抱えた。

 その時にはもう気がついていたが、俺は自分を落ち着かせて高崎の話す内容を待った。
 高崎は話をしたがっているのだから、俺は聞くことにしたのだ。

「山下さんは……いつも僕の友人の、そして彼女の恋人の北村の背後にいるんです」
 高崎は顔を上げて決心したように上半身を上げ、話を再開した。
 俺は唖然としてそれを聞いていた。
「北村は僕と同じ部活で帰り道も同じなのでいつも一緒に帰ります。そしてある日気がつくと北村の背後に山下さんの霊がついていました。恋人に自分の居場所を訴えているのか、それとも見守っているのかと、そのように思っていました。僕は霊が見えても、霊と話すことは出来ないので、それが悔しくてたまりませんでした……」
 高崎は目尻に涙をためている。
「それは……辛かったな」
「……先生、まだ続きがあります」
「ああ……分かっている」
「ありがとうございます。話すのが下手で申し訳ありません。山下さんの霊ですが……山下さんの表情はそれまで全然見えなかったのです。北村を見守っていると思ったので怖いという感情はありませんでした」
 高崎は再び俯いて身体を震わせはじめた。
「……でも、こ、怖かったのです。昨日は……その……山下さんの表情が、はっきり見えたのです」
 
 俺はもう察しがついていたので、ただ高崎の話を黙って聞くことにしていた。
 高崎は冷や汗を尋常でない程にかいていたので、清潔なハンカチを渡すと、彼はそれで汗を拭いながら息を整えた。
「あれは……あれは恨んでいる表情でした! 人を心から憎んだらこのような表情になるのかといった具合の、とても……とても恐ろしい形相でした!」
 高崎は俺に詰め寄り、必死に訴えかけるような声になりながら言った。

 俺は落ち着きながら高崎に聞いた。
「どうして恨んでいるんだ、恋人の相手を」
「せ、先生ェ……聞くんですか? もう分かっているくせに……それを僕に言わせるんですか……?」
 高崎は口を震わせながら言った。
 そのあと叫んだ。
「北村が殺したからですよ!」
 
 高崎の訴えの声が反響し、その後保健室に、しばしの沈黙が流れた。
「なるほどなァ……それで彼女の霊を見るのも怖いし、殺人者かもしれない北村と一緒にいるのが恐ろしいということか……確かにそれは誰にも言えないし、俺も他の誰かに話せる内容じゃあないなァ……」
 先に沈黙を破ったのは俺だった。
「はい。でもそれだけじゃあないんです」
「はぁ、まだ続きがあるのか」
「ええ……実は、僕はもう言ったんです。勇気を出して」
「ほう、何を?」
「北村に、山下さんの霊のことを……。そして『お前が殺したんだろ』って」
「……そうしたら北村は何だって?」
 高崎は再度ハンカチで汗を拭った。
「僕が本当に恐ろしかったのは……山下さんの霊でもなく、北村が殺人者ということでもないのです」
「……」
「恐ろしいのは、北村がそれを告げても顔色を変えずに“ただ聞いていた”のです。霊が見えるなんていったら笑い飛ばすか、もしくは恋人なのだから不謹慎なことを言うなと怒るでしょう……でもあいつは何の表情も見せなかった」
「……」
「あいつは、恋人を、人を殺したということに、何も感じていないんです。それが……一番恐ろしかったのです」

 高崎は話しながら俯いていき、肩で大きく息をしていた。
「はぁ……はぁ……、先生、どうしたらいいですか?」
「……そうだな。お前はどうしたい?」
「僕、ですか? ……僕は北村には罪を自覚してほしい。できることなら自首をしてほしい」
「ふーん」
「……でもだめでしょうね。北村は何も感じていないんですから」
「そうだろうな」
「この自分だけの秘め事を、誰かに聞いて欲しかった。はぁ……先生、ありがとうございました……」
「そうか。それで話は終わりか?」
 
 高崎は顔を上げ、困惑している。
「先生、なぜ急に冷たいのですか?」
「……」
「どうして笑っているのですか?」
「ん? ははっ、笑っていたのか、俺……いや、演技が上手いなァと思ってな」
「……は?」
 高崎は俺の方を信じられないと言った形相で見つめてきた。
「演技? そ、そんな、先生なら聞いてくれると思ったのに! 先生は最初に僕の話をバカにせず聞いてくれたから話したのに! それなのに──」
 高崎は話の途中で気がついたのだろう。怒りのまま話していた言葉を中断した。

「先生……どこを見ているんですか?」
「……」
「どこを見ているんですか!」
「……そうだなァ、どこだと思う?」
 高崎はすでに、俺の目線の先が“自分の背後”であることに気がついている。

「なぁ……信じてくれるか高崎。先生の話を信じてくれるか?」
「……え?」
 高崎の声は震えていた。

「山下ならずっといたよ。お前の後ろにな。お前が頭を抱えた時に気がついた。俺は話も出来るから、途中会話していたのはお前とじゃあないぜ。それからは黙って聞くだけにしていたが、お前の演技力には感服したぞ」
「は……?」
「しかも北村のせいにするんだからなァ……山下はかなりお怒りだ。お前のいう『人を心から恨んだら』という顔だ」
「う、嘘だ……」
「そうだよなァ……お前も言っていた“信じてもらえないかもしれない”話だな」
 俺はこの時笑っていたかもしれない。

「“隣町の裏山”に埋まっているのか」
 俺が高崎の耳元でそう言ってやると、高崎の顔はこの世のものとは思えない表情へと変わっていった。

 ──この話はもう十数年前の話だ。
 俺は酒を飲みながら、友人に一部始終を話していた。
「それで、その後どうなったんだ」
 話を聞いていた友人が聞いた。
「山下の遺体は無事に見つかった」
「いや、それは良かったが……そうじゃなくて高崎という生徒だよ。そいつはどうなったんだ?」
「ああ……」
 高崎がどうなったのか……。

「……それは、秘密」

おしまい。

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