見出し画像

宝箱   1.北京ダック

5歳から7歳のとき、父の仕事の都合でタイのバンコクに住んでいた。タイは熱いし、住んでいたアパートの古いエアコンは戦車みたいな音を出すし、当時の私が憧れていたような金髪で青い目の人達が英語で話す国ではなかったけれど、父の駐在員という身分についてきた贅沢な暮らしぶりを、幼い私はかなり気に入ってしまった。

日本に帰ったら普通のサラリーマン家庭に戻るので、贅沢に慣れてしまわないようにと、父は質素なアパートを借りていた。それでも私たちが住んでいたアパートは外国人専用で、守衛もプールもついていて、家には専属のお手伝いさんにドライバーもいたので、私はすっかり裕福な家の娘の気分だった。

姉は当時小学生で、私はまだ幼稚園生で、午後が暇だった私は、母について駐在員の奥様方と一緒にタイ料理のビュッフェや、中華レストランに飲茶を食べに出かけたり、高層マンションのお宅にお呼ばれしたりして、お嬢様気分をさらに味わった。

画像4

※注:思い切りイメージ画像です

タイで両親はゴルフを始め、私達家族は在住日本人たちとホテルのレストランで食事をするようになり、時には家族四人だけで「赤門」や「ゴロー」という名の和食レストランに繰り出した。そういったお出かけをする時の服は、生地から選んだオーダーメイドのサマードレスだった。

日本人小学校に通い、水泳、ピアノに習字と、習い事でも忙しかった姉とは対照的に、アパートの隣接のインターナショナル幼稚園に午前中だけ通っていた私は、毎日暇だった。暇な私は、飽きもせずお姫様の絵を描いていた。

英語も話せないのにインターの幼稚園に通わさせれた私の交友関係は静かだったので、姉の日本人学校の同級生と一緒に遊ぶことが多かった。姉は、自宅で水道水が飲めず、ポラリスという飲用水が配達されてくる生活やタイの食事にはなじめず、小学1年生の途中での転校にもストレス抱えており、ぼうっと窓の外を眺めたり、本を読んだり、絵を描いているだけの暇そうな私に八つ当たりをすることが多かった。

画像4

お姫様の物語には意地悪な姉も登場するので、八つ当たりされればされるほど、私はシンデレラにも『リア王』のコーデリア姫にもなれた。肉厚で和風な顔立ちなのに、八頭身で立て巻きロールの髪の自分を妄想しては、現実逃避していた。が、辛い日が続くと、姉のことを憎らしい、いなくなればいい、と思ってしまったこともある。

そんなある日、思いがけず私の夢が叶えられてしまった。姉が友達の家にお泊りに行くことになったのである。母が私にいつになく明るい声で「何を食べに行く?」と聞いてきた。どうやら、私は父と母と3人だけでレストランに行くらしい。生まれて初めてのことだった。

次の瞬間に私の頭の中に浮かんだのは、少し前にホテルの中華レストランに家族四人で出かけた時に食べた北京ダック。ツヤツヤに光るアヒルの丸焼きがワゴンで運ばれてきて、シェフがテーブルのすぐ隣で、シュッシュッと音を立てて包丁でそいだ皮を、白髪ネギやキュウリの千切りと一緒に小麦粉の薄餅に巻き、甘い味噌につけて食べたら、もう止まらなかった。私はいくつもいくつもお代わりをした。

画像2

初めて食べた北京ダックに、私はもちろん、父も母も大いに盛り上がったのだが、鶏の皮が苦手な姉は、キュウリを味噌につけてポリポリ食べて渋い顔をしていた。当時の姉の食わず嫌いには母も手を焼いており、わりと何でも食べられる私は、ますます姉に嫌われていた。年齢が1歳半しか違わないのに、私の体格は、当時の姉の体重を上回り、身長もほぼ同じで、一緒に歩いていると、私が姉の姉だと思われてしまうことも、私が姉から疎まれる原因だった。

そんな姉がいない夜、私は念願の一人っ子になった。家族で外食するのに、姉が嫌いで私が大好きな北京ダックをリクエストした。ドレスは何を着て行ったか覚えていない。親子三人だけが座る円卓の隣に、あめ色に輝くアヒルの丸焼きが運ばれてきたあとのことはよく覚えていない。シュッシュッと軽快にシェフがアヒルの皮をさばき始めた時、私はクリスマスのごちそうを見るマッチ売りの少女のごとく祈った。灯火よ、どうか消えないで。

画像3

――あれから四十数年。美味しいものは今でも好きなまま、私も二人の子どもの母親をしている。息子たちは年が離れていて仲が良く、かつての私と姉が繰り広げた熾烈な攻防戦は無い。それでも思う。私にとっては、親としては、二人とも等しく変わらず愛しい我が子なのだけど、子ども達はきっと、親から「あなただけ、特別に」してもらった何かをとても大切にしているのではないかと。

私は離婚をしたので、子ども達に「両親と自分だけ」の特別な想い出はもう作ってあげられない。なので、二人の子どもが放課後バラバラに帰ってくると、それぞれ順次、時間をとって、それぞれの好みのおやつを選ばせて一緒に食べている(だから私は痩せない)。

息子たちのどちらかがいない時の親子二人だけの外食は、連れて行く方の子に好きな食べ物をリクエストしてもらうか、その子好みの味の店を厳選して提案する。限りなく「あなただけ、特別に」。そして出かけるときは、いつもあの、北京ダックを食べた日の夜を思い出すのだ。美味しかったねぇ。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?