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盂蘭盆の夜の祭り

九十九段の長い石段を登ると目的の場所がある。
鬱蒼と茂る鎮守の森の中、ひっそりと忘れ去られたように立つ神社。そしてその裏手に苔に覆われつつある小さな石碑。
夏の暑さと熱気に包まれている世の中からまるで見捨てられたかのように在るそれらを、僕はどうしても忘れることが出来ない。ここには僕にとってのすべてがあった。森の中はとても静かで、ふっと眠ってしまいそうな、それでいてすべての感覚が開いているような、そんな空間。夕暮れの中で、赤い夕日が葉の間から漏れ、それ自体が薄い鏡のようにキラキラとすべてを映し出していた。

僕は石碑の前に立ち、黙祷をするように目を閉じた。それは約束であり、儀式であり、合図だった。静かな風の音の中に、わずかずつ、別の音が混じりだす。それは徐々に大きくなり、やがておおきな耳鳴りのように体中に響き渡る。人のざわめきや、笑い声、お囃子や屋台の呼び込みの音。
それは祭り。人と神がお互い知らず行き逢い、自然と人工物が器用にすれ違う、盂蘭盆の夜の祭り。

ゆっくりと目を開けると、そこにはいつものように、いつもの着物を着て、いつもの笑顔で僕を見上げてくれる少女がいた。
「久しぶり、お兄ちゃん。今年も来てくれたね」
微笑む彼女に、僕も微笑を返す。
「久しぶり、今年も君に会いに来たよ・・・」

ドン、ドン、ピーヒャララ・・・。
賑やかな祭りの音が聞こえてくる。あたりは薄暗く、霧が漂っていて朝とも夕暮れ時ともつかない様子だった。いや、「朝」でも「夕方」でもないのだろう。それは「境」。光と影、陰と陽、人と魔が同時に相手に出会う時。それは幽鬼たちの世界。
祭りには多くの人が来ていた。誰もが仮面をつけている。素顔のものは誰もいない。ひょっとこ、おかめ、狐、猫、夜叉、翁・・・さまざまな面がすべての顔を隠している。いや、人とは本来そういうものかもしれない。いつだって本心は分からないもの。それこそ仮面をつけているように。

「いつからかな、こうして会いに来るようになったのは」
祭りの中、僕は隣に座った少女に聞いた。
「ずっと昔から、だよ。お兄ちゃん」
おかしそうに笑いながら、少女が言葉を返す。
「・・・そうだよね、何を言っているんだろ、僕は」
そう、僕は知っている。彼女のことをずっと昔から。
ずっと昔から、彼女は祭りの中で僕の隣にいた。いつも傍にいた。

いつしか仮面の人々は列になり始め、誰からとも無く盆踊りを踊り始めた。
不思議なことにお囃子は止んでしまい、人々の踊る足音と衣擦れの音だけが響いていた。
それらも段々と遠ざかり、不気味なほどの静寂が辺りを包む。踊りに合わせて上下する白い仮面が暗い森を背にはっきりと見えた。

「あのね、お兄ちゃん」
暗い森の中、二人のいる場所だけが明るい。
踊り続ける人々は森の闇に紛れ、仮面だけが白く輝く。
「ごめんね」
仮面は踊りながら二人の周りを回り始める。
「どうして謝るの?」
仮面が語り始める。
「僕が望んだこと・・・満足しているよ」
ーはるかな過去から現在に至る鎖の中に
「本当に?」
ー無限の数の喜びと悲しみが
「もちろん」
ーここに在り続けている
「初めて会ったときのこと、覚えてる?」
ー喜んだ人はもうここにはいない
「うん。私は鳥居に腰掛けてた」
ー悲しんだ人は消えてしまった

「そうそう。せみの抜け殻を見せてくれたよね」
ーただ、喜びだけが悲しみだけが
「それから、お祭にも一緒に行ったよね」
ー森の木々の間で想いを継いでゆく
「はしゃぎ過ぎて、疲れて眠ってしまったよね」
ーめまぐるしく動き続ける時の流れの中
「あの時は苦労したよ。いきなり倒れちゃうんだから」
ー此処だけが何一つ変わることなく
「ふふ。ごめんね」
ーただ想いだけが増えてゆく
「お兄ちゃんの背中、とても大きくて寝やすかったよ」
ー年に一度、変わることなく繰り返される
「君の寝顔はとても可愛かった」
ー盂蘭盆の夜の祭り
「もう、はずかしい」
ーこれまでも、そしてこれからも

「ねえ、おにいちゃん」
ー若き生ける君よ
「何?
ーお前は知っている
「おにいちゃんなら」
ー解き放てるかも知れぬ
「なんだい?」
ー永遠の時の呪縛を
「出来るかもしれない」
ー凍りついた時間を
「私を」
ー我々を
「ここから連れ出せるかもしれない」
ー再び動かせるかも知れぬ
「君は、そうしたいの?」
ー我々に、想いに永遠は不要
「うん」
ー風に消えてこそ意味を為す
「君は僕の思いを」
ー彼女は我々そのもの
「叶えてくれた」
ー彼女の願いはわれらの願い
「だから僕は」
ーたとえ幻であったとしても
「君の願いを」
ーお前は今、此処に在る
「叶えたい」
ーそれは確かな真実
「ありがと」
ー行くがいい、若き者よ
「お兄ちゃん」
ーわれらが願い、聞き届けよ・・・

彼女の目からぽろぽろと涙が零れだした。
「どうしたの?」
隣で心配する僕に、彼女は抱きついた。
「やっと、やっと同じ時間に立てたの・・・」
そう言って僕の胸に顔を擦り付ける彼女を、僕はそっと抱きしめた。
ゆっくりとした夕暮れの時間が二人を包み込む。
「お兄ちゃんだけだったの」
彼女がつぶやく。
「お兄ちゃんだけが、私たちを見てくれた。恐れることなく、まっすぐな心で」
彼女の目が、僕の目を見つめる。
「どうしてなの?」怖くはなかったの?」
「それは・・・きっと。同じだったから」
「同じ・・・」
「僕も、彼らと同じだったから、だから」
彼女の目はしばらく不思議そうに僕を見つめていたが、やがてこぼれるような笑顔にかわった。
「そっか、そうだよね。同じだ。・・・ね、お兄ちゃん」
「何?」
「大好きだよ」
そう言って彼女はまた抱きついた。僕も彼女を強く抱きしめる。
夏の夕暮れの風を浴びながら、ふと彼女の髪の匂いで思い出す。
鳥居は、本当に天使の止まり木なんだな、と。

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