秋のシーニュ論
〈シルシ〉と聞くと、ドゥルーズのプルースト論が留保なく思い浮かぶ。そこでどんなことが語られていたかは詳しく覚えていないがそんなことどうでもよく、したがって私にとっては印であるよりも徴なのであり、その記憶の響きからさらに徴であるよりもシーニュであったりする。シルシの交換とその交遊。それから世界はどこへと向かっていく(いた)のか。あなたが私にくれたシルシとは?
例えば、空き地で子供が佇んでいる。それに雨も降っている。傘は差してない。そして微かに微笑んでもいる。
あなたはその光景、あるシルシとなる光景を見た。その時、どんな啓示を受け取るのだろう。啓示とは解釈の効果である。とはいえ解釈可能性というときこえはいいが、解釈可能性が解釈自体を妨げることはないのだろうか。シーニュとは曖昧であることのシーニュである。解釈の扉が閉じることはなくても、開きっぱなしであることにはとめどない。
まずは光を当てること、記憶をおおう暗闇のいち部分を照らしてみることが必要なのかもしれない。プルーストが『失われた時を求めて』でまさしく試みたのは、記憶のコラージュ映画である。シーニュを切り取り繋ぎ合わせたその全容から、私たちは重要な何かに気づくことがある。こんがらがったビデオテープをその手で巻き戻してみること、まずはそこから始めてみよう。
ところで最近、すっかり秋になったと感じる。日中は暑いが、夜は比較的涼しい。秋の夜長は冬の前触れ、物事の予兆前兆に人々が敏感になる季節だ。
秋の夜風が窓から吹き込んでくるなか、私は昨日MacBookにうっかりアイスコーヒーをこぼしてしまった。パチパチ、キーを打ちながらグラスを取ろうとした手に思いのほか勢いがあり、りんごが転がるようにごろっとグラスを倒してしまったのだ。
その時の不思議な感覚を思い出す。まず、頭の中に卵一個分くらいの空白が浮かんだ。同時に、時が〇.三秒ほど止まる。その一瞬だけ小さなうっかりを受け止めきれない私が存在する。でも次の瞬間にはグラスを急いで起こそうとする私がいる。そしてダッシュに近い早足でタオルを取りに行こうと私が行く。複数の私による演劇が始まる。私はMacBookを拭く。この間は意外と冷静だ。しかしすぐにMacBookの動作を心配し始める。とりあえず電源を切り、閉じる。データが全てなくなってしまったらどうしようとそわそわしながら、窓辺にある観葉植物に葉水をする。
昔フランス文学の修士生だった頃の先輩で、グリッサンを研究していた先輩が修論提出まであと一ヶ月を過ぎた時に、私と同じようにPCにコーヒーをこぼしてしまい(季節は冬だったのできっとホットなやつだ)、今まで書いていた修論のデータが消えてしまったことを思い出した。その先輩は本当に、ただ単純に、運がなかったのだと思う。それでも無事に卒業はしたので、事なきを得たようだった。
余談だけど、その先輩から一緒に花屋でバイトをしないかと誘われたことがあった。当時は断ったが、今思えばそこで働くのも悪くはなかったぁと述懐する。私には青山とか銀座とか東京の街角で、花粉くさい匂いに包まれながら、花を切り活け売る人生の可能性があった。胸が躍るくらい恐ろしい話だ。
結局、MacBookの中にあるデータは無事だった。ただキーが、特にスペースキーが心なしか重くなった気がする。その空白のスペースに、小さな鉛が埋め込まれたような感じがする。
シルシとは、小さな鉛のことである。楕円形の錠剤のような鉛だ。鉛はそれ本来の役割として、心の重心をほんの少し下げる。それからというものその丸っこいブツは、私の記憶と心の通り道でよこすべりをくり返し、ゆれてははしゃぎ、世界に対する感度を鈍らせることが大好きだ。はたまた唐突に動きをとめ、一時的に注意を逸らすことも得意とする。それは、その不穏な子供っぽい動きはなんともまあ時に私を不安にさせるのに、時には私の心の安定を図ってくれたりもする。だからもうやはり錠剤なのである。
さぁ、文体。文体とは、一本道のことである。それもなかなか一筋縄にはいかない一本道だ。他の小説にふれるたび(度?旅?)、自分の小説をつくるたび(旅だ)、蛇行し、徐行し、交差する道。途中近くの露店にホットドッグを買いに行ってしまったり、はたまたトレーニングジムに入店してしまったり、猫をなでたり(よくあることだ)猫をこねたり(良くないことだ)、いっそのこと猫になりきってしまったりするほど、その道は険しい。それでも曲がりくねった一本道であることに変わりはないと、信じる気持ちが文体を確立するうえでは重要になる。
文体、分体は、私が存在することの特殊なシルシでもある。オンガクはわたしのシルシでもあるブンタイのミミである。私のシルシとしての文体、としての分隊は、たしかに敷かれているその一本道をゆく。ちょっとそこまで、なんて言うことは難しい。できるだけ遠くへ行くことが使命だ。そんな使命、だれが私を指名したのだろうか。
私は今日も、今ではもう夢の残り香に成り果てた過去、その過去から処方された数々のシルシという錠剤を口に含みながら、少しずつ自分の道をつくっていく。秋は四季の中でも最上級に小粒なシーニュのひとつ。秋が来ても、私には飽きのこない秋がある。
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