見出し画像

寛容vs不寛容 ~「女性がたくさん入っている理事会は時間がかかる」~

以前、「寛容とは、不寛容な人にも寛容であることか」といううたのnoteがありました。しばらく経って、色々な知識を得て、経験をして、考えがちょっとまとまったのでnoteにしてみようと思います。

こんばんは、くつばこのりこです。「寛容になること」は、多様な社会を作るうえで大切だと言われます。みんなに同じを求めない、という点で、確かに大事な気がします。
じゃあ、「寛容な人は不寛容な人にも寛容であるべきか?」ということが言われます。むかしの私は「うーん、わかんないなぁ」だったんですが、自分の中で「これは寛容にならなくていい意見」だという線引きがあることに気が付いたので、書いてみようと思います。

☆客観的に「寛容にならなくていい」と思うこと

 「寛容」っていうのは、その人の意見を尊重する、ということだと思います。ネット上には様々な意見があふれているし、それはそれぞれの人の立派な意見であることは間違いないです。だからこそ、どんな意見も尊重すべきなのか、というと、そうではないと思います。
私にとっての判断基準は、「理不尽に他人の地位が下がっていないか」です。言い換えると、「根拠なく他人の人権を傷つけていないか」です。(人権って「傷つける」って言います…?)
 具体例を出すとすると、オリンピックの例の方の発言は、何の科学的根拠もない発言で、女性の団体参画の権利を否定していたわけで、意味が分からないんですよね。
 ただ、私が怒りを感じたかどうかというとそういうことはありません。なぜなら自分の今までの人生の中で、「女の方が話が長い」を感じたことがなくて、ピンとこなかったので、「ナンダその意見」っていう驚きの方が大きかったからです。人によるし、なんなら「話長い」の代表格の校長って、おじさんだったし。でも様々な場面で、「そういう意見は心の中で思っておくだけにすべき」みたいな意見をきいて、「女=話が長い」は割とよく言われるものなんだなと知りました。まあ私は話長いけど。
 これ以外にも、例えばLGBTQ+への差別発言とか、障害者への差別発言は、根拠なく、人格を否定するものだったら、寛容になる必要はないと思います。「LGBTは日本から出ていくべき」とか、「障害者は働かないで家にいるべき」とか。

☆主観的に「寛容にならなくていい」と思うこと

 例えば私がくつばこの代表としてなにか書くときは絶対にこの判断軸は使いませんが、たとえば自分の経験から、「無理だー」と思うことがあってもいいと思うんです。ただもちろんそれを発言するときは、「理不尽に他人の権利を侵害しないように」すべきだと思います。例えば私は過去の経験から、自殺に関するニュースがとても苦手なので、ネット記事にしても、テレビの報道にしても、自殺を取り扱うのは本当に止めてほしいです。これは「自殺を防止する啓発活動」に対しての不寛容です。

☆そもそも「寛容になろう」とするべきなのか?

 「寛容になりましょう」っていうけど、それって難しいですよね。「多様性を受け入れましょう」とか。少なくとも私はその議論に意味がないと思うし、今までもそういう意識で人と接したことはありません。「寛容になる」っていうのは結論の部分であって、目指すべきところじゃない。というか自分が寛容な人間なのかって言われるとそんな自信もないし。それよりも、自分と当たり前が違うことだったり、体験したことがない経験だったり、人間関係の中にある居心地の良さ、愛だったり、そういったことが「面白い」と思えるようにするべきじゃないかと思います。「良い雰囲気の学校にしましょう」って生徒に言ってもたいして響かないように、「寛容な社会になりましょう」っていったところで、それは「寛容な社会を目指そうって言っておけばいいだろう」程度な気がしてしまうんです。といいつつ、我々の団体名は「インクルーシブ社会の構築」なんですけどね。大変ふわっとしている。

「寛容な人は不寛容な人にも寛容であるべきか」この問題、とても面白くて、考えてみる価値とてもあると思います。他の意見も聞いてみたいです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?