8.龍伐湾の怪物(2/5)
2/5
* * *
週末の夜、漁業組合の施設で酒宴が行われた。
灰坊水産に屈さないという意思を統一し漁民の結束を高めるため組合長が開いたものだ。だが呑龍をどうするかという根本的な答えは出ないままで、どこか現実逃避じみた酒宴であった。
床に畳が敷き詰められ、テーブルに海の幸が山のように並べられている。用意された酒はどんどん干され、あっという間に足の踏み場もないほど空き瓶があたりに転がった。
「俺たちはァ! 灰坊水産なんぞには屈しねえぞォオ!」
「おおォ、そうだ! あんな連中の言う通りになってたまるけぇ!」
男たちが荒っぽい歓声を上げて一気に杯を開けると、すかさずまた酒が注がれる。
酒の飲めない昴は隅のほうの席で所在なげにしていた。隣には伊佐奈が着いている。
伊佐奈の息子は腹が一杯になると、向こうで集まって携帯ゲーム機で遊んでいる友達を指差した。その中には日与の姿もあり、一緒になってゲーム機で対戦している。
「お母さん、あっち行ってきていい?」
「うん。大人にお酒飲まされそうになったら断るのよ」
息子を見送ると、伊佐奈は昴に言った。
「新一くん(日与の偽名)とは姉弟《きょうだい》なんですって?」
「はい? あ、えっと……天外に住んでいたんですけど両親を亡くして」
昴はそういう設定だったことを思い出した。昴より一センチほど背が低いという理由で自分が弟役にされたことを日与は心底不満げにしていた。
昴は日与の方を見てうんざりした様子で言った。
「あのコ、自分勝手だし放っとくと何するかわかんないし、目が離せなくて。ホント、いつもハラハラさせられる」
「それで一緒に。仲がいいのね」
昴は眉根を寄せた。
「ええと、うん……どうだろ。伊佐奈さんはずっと牙貫に?」
「いいえ。私もあなたと一緒。少し前まで天外にいたの」
伊佐奈は眼を細めた。酒が回った様子で、やや饒舌になっている。
「夢を叶えたくて天外に出たの」
「夢って?」
「画家になりたかったの。でも向こうで子どもが出来て、生活が立ち行かなくなって」
説明は簡素だったが、伊佐奈の表情は大きな挫折にぶつかったことを物語っていた。
「こんな田舎に父親が誰かもわからない子を連れた女が出戻ったら、周りにどんな眼で見られるかわかるでしょう」
伊佐奈はタダ酒を飲みに来ている刀蔵に視線を向けた。誰とも会話せず、一人でふてくされたように酒を流し込んでいる。それを見る伊佐奈の目は呆れたようでもあり、悲しげでもあった。
「刀蔵さんは私んちの近所に住んでたお兄ちゃんでね。ヤンチャだったけど、小さな子には優しかった。私をイジメっ子から守ってくれたのも彼。出戻った私が働き口を見つけられたのも、あの人が工場長に頼んでくれたんですって」
「へえ……本当はいい人なんですね」
「ええ。そうよね。いい人なのよね、きっと……」
伊佐奈は碗の酒を飲み干し、曖昧に微笑んだ。
バシャアアアン!
そのとき、外で大きな飛沫が上がる音がした。
昴は汚染霧雨で翳る窓の外に眼を凝らした。夜の海は静かでほとんど波はない。
日与が隣にやってきた。
「聞こえたか」
「うん」
バシャアアアン!
もう一度水音がしたかと思うと、突然、船着場の海面から大きな黒いものが飛び出した。胴の直径が二メートルほどもある巨大な海蛇であった! 漁船に巻き付こうとしている!
日与は振り返って会場に声を張り上げた。
「おい、あんたら! あれ何だ!?」
浮かれて騒いでいた漁師たちがいっせいに振り返り、窓辺に張り付いた。
メキメキメキ……!
海蛇に巻きつかれた漁船は悲鳴のような音を立てて軋み、ばらばらになって海中へ引きずり込まれた。
漁師が悲鳴を上げた。
「呑龍だ!」
「まさか!? 何でこんな陸の近くに!」
次の船に呑龍が巻きついた。漁師たちがどうすることもできないまま見守る中、ひどく取り乱した伊佐奈が昴の肩を掴んだ。
「ねえ……うちの子がいない! 見なかった? 誰か! 多喜《たき》を見なかった?!」
「多喜なら外だよ」
子どもたちのグループの一人が手を挙げ、おずおずと言った。伊佐奈はその男の子に詰め寄った。
「どこへ!?」
「つまんないからって、船に乗りに行っちゃった。ミサキちゃんと一緒に……」
次の瞬間、誰かが講堂から飛び出した。その男に向かって漁師の一人があわてて叫ぶ。
「刀蔵! やめろ、死ぬぞ!」
刀蔵は聞く耳持たず、右足を引きずりながら船着き場へ一直線に向かっている。
すぐに日与と昴も飛び出した。
荒れ狂う呑龍が立てた波に煽られ、嵐のように上下する漁船の船べりに、小学生が二人しがみついている。水音に混じって叫び声が聞こえた。
日与は漁業組合の裏手から持ってきた物干し竿の先端を手刀で切断し、穂先を作った。短く走って勢いをつけ、それを投げ槍の要領で呑龍に放った!
「オラアア!」
ギィィン!!
呑龍の胴体に命中した投げ槍は甲高い音を立てて弾き返された。刺さらない!
刀蔵は馬鹿力を発揮して船の舫《もやい》綱に飛びつき、甲板に這い上がった。そこにいた子どもを二人とも担ぎ上げ、岸壁に投げ下ろす。
「受け取れ!」
「うわっ」
追いついた昴が慌てて二人の男の子を抱きとめた。
続いて刀蔵が船から飛び降りようとしたとき、大きな水柱を上げて呑龍が間近の海面から飛び出した。
街灯に照らされたその全身は屋根瓦のように大きな黒い鱗に覆われており、古い銛が何本も刺さっている。屏風絵の龍にも似た、恐ろしくも幻想的な姿であった。
呑龍は素早く船体に巻きつき、締め上げた!
バキバキバキ!
船体を潰し、刀蔵もろとも海中へと引きずり込む。
「お願い!」
昴は追いついた日与に子供たちを押し付け、海中へと身を投じた。同時に昴の右腕が背骨めいた骨のチェーンとなって伸び、日与の腕を掴む。
逆巻く真っ黒な海中であっても、昴は血族の超人的な感覚で刀蔵を見つけ出した。流れが刀蔵をこちらへ運んでくるのを見計らい、左腕で彼の足首を捕まえると、チェーンを巻き戻して海面へと上がった。
「ぷわっ」
日与の手を借り、昴は自分と刀蔵の体双方を引き上げた。
日与が呆れた様子で叫んだ。
「ムチャクチャするなよ!」
「うん、今のは自分でもムチャだったと思う」
ギシャアアアア!!
呑龍が咆哮を上げながら大きく身をよじり、尻尾で漁船を弾き飛ばした。
木の葉のように宙を舞った漁船は日与たちのすぐそばに落下し、破片を撒き散らしながら埠頭を転がった。
ガシャアア!
「うわっ!」
昴と日与は身を竦ませ、子どもと刀蔵を抱えて漁業組合の建物に駆け戻った。
伊佐奈ともう一人の母親が泣きながら我が子に飛びついた。伊佐奈は子どもを抱き上げると、ぐったりと床に横たわった刀蔵に駆け寄った。
「刀蔵さん!」
昴は微笑んだ。
「大丈夫。気絶してるだけ」
なおも荒れ狂う呑龍は更に船を沈め、やがて須走を上げて沖へと消え去った。
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