8.龍伐湾の怪物(1/5)
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「呑龍《どんりゅう》が出やがったぞ!」
日与は騒ぎがしたほうに振り返った。彼は昼食を買うため、弁当の移動販売車に並んでいたところだった。
日与は列を抜け、船着場へ小走りに向かった。
人の輪に割り込むと、たった今船着場に泊まった船から一人の老いた漁師が降ろされるところだった。老人は右腕を根元から食いちぎられていた。傷口に巻かれたタオルが真っ赤に染まっている。
人垣の中から痛ましげなため息が漏れた。
「ヒデエな……」
「ありゃ定吉のジイさんだ」
担架で運ばれる際、老人は泡を吹きながらうわ言を言った。
「良助んとこの船がやられちまった! 俺ァ海に落ちたアイツを助けようとしたんだがよう、呑龍に腕ごと持ってかれちまって……」
「おい、落ち着け! 喋るな、ジイさん」
老人を乗せた担架は大通りへ運ばれ、車に乗せられて病院に向かった。
それを見届けた漁師たちは囁き声を交わしながら各々の仕事に戻って行った。
「呑龍め。このままじゃ商売上がったりだぜ……」
* * *
龍伐《りゅうばつ》湾は天外から電車で二時間ほどの距離にある。
内陸側に円形にえぐれた小さな湾で、その一番奥まった場所にあるのが湾内唯一の漁港、牙貫《きばぬき》港だ。
そこに織部《おりべ》食品という食品会社の工場があり、煮魚の真空パックを作っている。
日与は加工場で他の作業員と並び、ゴムエプロンに長靴という姿で魚を捌いていた。包丁ではらわたを抜き、手際よく身を切り分けて行く。
一方、同じ作業台の向かいにいる昴はひどく苦戦していた。
「この……どうだ……今度こそ……」
昴は顔をまな板に近付け、解剖手術めいた手つきで慎重に魚に包丁を入れているが、捌いた切り身はどれもボロボロだ。
日与はそれを見て小さく笑ったあと、同じ作業台の工員たちに聞いた。
「さっき弁当買いに行ったとき聞いたんだけど、呑龍って何ですか?」
「ああ、定吉のジイさんがやられたらしいねえ」
隣の老女が言った。
「異態生物だよ。すごく大きいウミヘビみたいなやつでね、龍伐湾に何年かおきにやってきてね。いつもなら二、三日もすると湾の外に出てっちゃうんだけど、今回に限ってもう一ヶ月も居座ってるんだよ」
別の中年の女がため息混じりに言った。
「漁師たちはみんな困ってるよ。今が稼ぎ時なのに」
「この工場もそのうち人を減らすかも知れないね。仕事を失くさないか不安だよ」
そのとき、足を引きずるような独特の足音を立ててやってきた男が、じろりと昴の手元を見た。
四十過ぎのどんよりした目の男で、昼過ぎの今になって出勤してきたのだ。すでに大分飲んでいるらしく、酒臭い。男はぶっきらぼうに昴に言った。
「そんなんじゃ売り物にならねえよ」
「えぇ……すみません」
肩を落とす昴に、男は畳みかけるように怒鳴った。
「素人のガキがよう! 小遣い稼ぎでいい加減な仕事してっと食らわすぞ……」
「刀蔵《とうぞう》さん!」
作業台にいた三十過ぎの女が男を睨んだ。
「自分の仕事があるでしょう。人に構ってないでさっさとやって!」
刀蔵はそちらを睨んだものの、唾を吐いて煮込み場へ向かった。
女はそれを見てふんと鼻を鳴らしたあと、昴に謝った。
「ごめんなさい。びっくりしたでしょ。あれはああいう人なの」
「いえ……」
先ほどの老女が顔をしかめて言った。
「工場長の親戚だからね、お情けで雇われてるんだ。廃れ者よ」
女性は微笑み、昴の方に身を寄せた。
「凛風《りんぷう》(昴の偽名)ちゃん、捌き方をもう一度最初から教えてあげる。これじゃダメよ」
昴がどうにか売り物にはなる程度に捌けるようなったころ、業務終了のサイレンが鳴った。
刀蔵はその前にふけていた。どこかに酒を飲みに行ったのだろうと工員たちは呆れた顔で言っていた。
日与たちが作業場の掃除を始め、それが終わるころになると工場長がやってきた。
険しい顔をした工場長は、一同に声をかけた。
「みんな! 疲れてるところすまないが、六時から組合で会合があるから出て欲しい。例の水産会社が来るそうだ。パートもバイトも全員出てくれ。一人でも多いほうがいい」
* * *
日与と昴は工場を出ると、いったん牙貫駅前にあるアパートに戻った。
二人とも滞在中はここで別々に部屋を借りている。日与はシャワーを浴びてフード付きのツナギに着替え、防霧マスクを着けて部屋を出た。
牙貫の港町は河口付近に密集するように広がっている。アパートを出た日与と昴は川沿いに歩き始めた。その先にはどんよりと鉛色がかった青い海が見える。
「昔の海はもっと青かったって本当かな?」
日与の呟きに昴は眉根を寄せた。
「青空とか青い海なんか、ホンモノ見たことないもんね」
この地を訪れたとき、二人は少なからず感動したものだった。この海は天外港の廃油に覆われた真っ黒な海とはまるで違う。だが日与たちが牙貫を訪れたのは観光でも出稼ぎでもない。
ふと、昴が日与の肩を突付いた。酒屋の前で大きな男が仰向けに倒れている。刀蔵だ。
だらしなく酔い潰れた彼を女が立たせようとしている。昴に包丁の使い方を教えてくれた伊佐奈《いさな》という女だ。
伊佐奈がこちらに気付き、苦笑いをした。
「こんなとこで寝かせておいたら霧雨病になっちゃうと思って……もう! ちゃんと立ってよ!」
日与は「ほっとけよ」と言いたげだったが、昴は伊佐奈に手を貸した。
「手伝います」
「ありがとう。もう、みんなに迷惑ばっかりかける人なんだから」
仕方なく日与も刀蔵のもう片方の手を掴んだ。
刀蔵はむにゃむにゃと非難めいたことを言って手足をばたつかせた。
「俺ァよう、牙貫一の漁師だったんだぞォ……足をやっちまう前まではよう……」
「はいはい、そうね。その通りよ」
伊佐奈がなげやりな返事をし、三人は構わず彼を引きずって行った。
牙貫漁業組合本部の大講堂には、地元漁民が一堂に会していた。堂内の空気は怒気を孕んでおり、ひそひそと苛立たしげな囁きを交わしている。
連帯感を高めるためほとんどの漁民が呼ばれており、席が足りない者も多い。日与たちは刀蔵をそのあたりの壁にもたれかけさせると、後ろのほうで立ったまま参加した。
グレーのスーツを着た男が講堂に入ってきた。背広の男を二人連れている。男は慇懃無礼な感じで一同に頭を下げ、正面の席に着いた。
男はマイクに向かって言った。
「灰坊《はいぼう》水産株式会社取締役の山岡と言います。本日は改めて説明の席を設けていただいたことをまことに感謝します」
テンプレート通りの挨拶をしたあと、山岡は本題を切り出した。
「今回の異態生物の件で、被害に遭われた方々におきましては我々も痛ましく思っております。しかし壊れた船、遺族、ケガをした人……国は何もしてくれません。そこで、牙貫漁業組合が我が社の傘下に入っていただければ、被害に遭ったすべての方に補償を約束しましょう。あの怪物も、我が社の異態生物ハンターチームがただちに駆除いたします」
「俺たち全員にあんたとこの社員になれって言うのか」
怒りの篭もった漁師の声に臆した様子もなく、山岡は頷いた。
「そういうことです」
「知ってるんだぞ! お前らの会社が漁場を独占すれば、魚を取り尽くすように漁師に強要する。魚が獲れなくなったら次の漁場に移って同じことを繰り返す!」
「お前らは行く先々で漁場を食い荒らすイナゴだ!」
漁師たちは紛糾する。だが飛び交う怒号にも、山岡は顔に張り付けたビジネススマルをいっさい崩さない。
「それはネット上のいわれのない中傷です」
「だがお前らはツバサの子会社じゃないか! 産廃を漁場に不法投棄してるって噂もあるぞ!」
「我が社がツバサ重工の系列であることは確かですが、それは根拠のないデマです」
「ひと月前、呑龍が出始めたころにあいつらが来やがった。まるで見計らったようにな」
日与の隣で刀蔵が呟いた。いつの間にか目を覚ましており、灰坊水産の連中に苦々しげな目を向けている。
「噂じゃあ、あいつらのことを調べようとした雑誌の記者が消えちまったそうだ。あいつらの行く先々でそんなことが起こるって聞いた」
「滅却課の仕業だ」
日与の呟きを聞いた刀蔵はいぶかしんだ。
「何だって?」
「いや。何でもない」
日与と昴が牙貫へ赴いたのは、悪の血族組織たる血盟会の証拠隠滅係、滅却課の首根っこを捕まえるためだ。
灰坊水産は何かしらの理由で困窮した漁場に現れ、甘言を用いて乗っ取り、搾取の限りを尽くすということを各地で繰り返している。その実態を暴こうとしたジャーナリストや地元住民はある日突然、消息不明となる。
永久はこれまでに日与が血盟会メンバーから聞き出した情報や、相棒であり恋人でもあった花切の遺したメモを元に調査を続け、灰坊水産に滅却課が協力している事実にたどり着いたのだ。
会合は漁民たちの怒号飛び交う中で幕切れとなり、山岡は護衛の背広たちに守られて悠々と講堂を去った。
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