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完璧主義への処方箋(完璧主義≒コントロール主義)

「完璧主義」って言葉が悪いと思うんですよね。完璧主義の強いうつ病傾向の人って、あまりに極端だと、それを直さないとどうにもならない状況があって、でも「完璧」って言葉がどうしても語義上、正しいっていうニュアンスを含みますから、是正とか改善されにくい。
例を上げると、来週金曜までにこれを仕上げてくれって依頼があったとして、完璧主義の人ってメチャクチャ時間かけて完璧に仕上げようとする。メチャクチャ残業して金曜の午後に完璧に仕上げてくる。でもそれって、「その人が思う完璧」にすぎないんですよね。とくに新人とか若手だと、そもそもの方向性がちがう、なんて場合がよくある。もちろんそれ自体は悪いことではなくて、経験が浅ければそうなって当然なので、絶対、途中のどこかの段階で、方向性とか整理して、すり合わせをした方がいい。でも完璧主義の人って途中の段階で完成してないのを出すのをメチャクチャ嫌がる。そこまで言うならって、諦めて出てくるのを待っていたら、期限日に見当外れのものが出てくる。もちろん新人より上司の方が会社の方向性とかこれまでの経緯とか知ってますからね、そうなったら上司はやっぱり言わざるを得ないんですよ、これじゃダメだって。やり直しを指示して、期限には間に合わない、関係各位に謝罪することになる。
それで済めばいいんですけど、うつ病傾向の完璧主義の人って、心のキャパがゼロですから、逆上するんですよ。自分は期限までに完璧に仕上げたのに、ストップをかけた上司のせいで自分が悪いみたいになったと。逆ギレして失望してメンタル不調になって休職するとか、そのパターンが本当に多い。
なんでこうなるかなって考えたときに、こうなる前に上司が介入すべきなのはまあ当然なんですけど、その完璧主義の人って内向的で不器用なタイプが多い。要領よくできないというか、そもそも要領ってなんなのか分からない。陰キャ陽キャで分けるのは僕は嫌いなんですけど、あえて言うなら陰キャタイプ。どこぞの経営者が、自分で自分のことを「完璧主義」と言う人は仕事ができない、信用できないから絶対採用しない、みたいなことを言ってて、辛辣だな、身も蓋もないなって思ったんですけど、まあ気持ちは分かります。完璧主義の人にとって「完璧主義」は拠り所というか免罪符というか、最後の砦なんですよね。
どういうことか。ちょっと想像してみてください。10歳の子供が完璧主義を発揮して、一心不乱にがんばっていたら、その努力を褒めると思うんですよ。「がんばってるね」「一生懸命でえらいね」って。完璧主義って、ちゃんとしたいという心のあらわれですから、なかなか否定できない。少なくとも10歳の子供には。10歳の子供に「方向性まちがってるよね」とか「もっと効率的なやり方あるんじゃない?」とかなかなか言えないですよね。結局、要領の悪い不器用な人って、完璧主義によって子供時代は救われてきてるんです。そこだけが評価されるポイントなんですよ。それが社会に出て、初めて通用しない局面にぶちあたる。だからもうイチ上司ごときがどうこうできるレベルの話じゃない。
そして、そういう人がジル・チャンさんの本を読んだりするんですよ。内気な人ほど用意周到に準備するから最後に勝つみたいなね。ジル・チャンさんが言ってることは分かる。例えば30分の講演をまかされたとして、ある種の陽キャな人たちは、ほとんどアドリブでもそこそこおもしろい話ができてしまう。だから用意周到に準備するのがバカらしいというか、そんなことにかける時間があったらほかのことに時間を使った方が効率的だと考える。結果、そこそこの話を勢いでしゃべることになる。一方、内気なジル・チャン勢は人前で話すのが憂鬱でたまらないですから、用意周到に準備する。その結果、人々の心を打つスピーチができるのは用意周到な内気な人なんですよ。内気な人間が最後に勝つ。それはよく分かる。
ただ、注意しないといけないのは、ジル・チャンさんは圧倒的エリートで、自分軸で生きられる人なんですよ。野球のピッチャーが「第一球投げました亅って試合が始まりますよね。ピッチャーが投げないと試合は始まらない。そう、ボールを持っている人≒自分軸で生きられる人は、いくらでも時間をかけて策を練ることができるんです。だから厳しい言い方になるけど、あくまでもジル・チャン勢が勝つのであって、すべての内気な人が勝つのではない。そこら辺を理解しないで、内気な社会人1年目の人とかが、まちがってジル・チャンの本とかに影響を受けると、おかしな話になる。日本の若者は一定の期間はボールを持たせてもらえない、他人軸で生きざるをえないですから。なんかこの話をしだすと、日本にはエリートはいないとか、新卒一括採用が悪いとか、大きな話になってしまうんで、このへんでやめときますけど。
ともかく、完璧主義って、まわりも困るし、本人も苦しむ。是正されるのがまわりにも本人にもいいんだけど、「完璧」のワードに引っ張られてなかなか是正されにくい。注意する側もよかれと思って言ってるんですよね。20ページの大作を仕上げて、1ページからなんか方向性ちがうなってなったら、残りの19ページは徒労ですから。
でも完璧主義者は完璧なものを出したい。だから、「粗でいいから」とか「ざっくりでいいから」とか言われたらますますパニック、恐怖なんですよね。ざっくりって何なの、粗でいいってどういうことって。こっちは一生懸命やってるのに、なんなのあの上司って。言う側はむしろ優しさで言ってるんですけどね、噛み合わない。
だから「完璧主義」はもう「コントロール主義」と言い換えたらどうかと。もちろん同義じゃないですけど、結局、完璧主義ってすべてをコントロールしたい欲望なんですよね。その「完璧」は「私が思う完璧」にすぎないのであって、「私が思う完璧」が他人にとっての完璧とは限らない。そのくらいの客観性を持ってないと苦しい。
その辺、「コントロール主義」と言い換えるとその功罪が見えてくると思うんです。コントロールって言うと2つに分かれるわけですね、自分を律する、自分にベクトルが向かえばまあ悪くない。けども他人をコントロールしたいという欲望は、よくない感情ですよね。完璧主義は結局、他人をコントロールしない限り成立しないことになってしまう。どうやったってそこに行き着くんです。そのことを子どものうちによく教えないといけない。そう思います。大人になって気づいたら、もう引きこもるしかないですから。



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