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バンビ

※一部、グロテスクな描写があります。
 


 悟は、カフェテリアと中庭を隔てている「はめ殺し」の大きなガラス窓から外をぼんやり眺めていた。鳩だ。何羽いるのだろう。十羽目からは面倒になって数えるのをやめた。小豆のようなガムを7~8粒、まとめて口に放り込む。
 それにしても、こいつらは四六時中いったいなにを啄(つい)ばんでいるのだろう。毛虫? ポテトチップスの食べかす? 落ちているものはとりあえず手当たり次第につつく、きっとそういう習性なのだ。

「見せろよぉー。どっかにうpとかしなきゃ別に平気でしょ?」
カナの声だ。
「とりあえず、落ち着け」
そしてユウジ。ふたりは子犬がじゃれあうように近づいてくる。

 カナの携帯が、初夏の陽差しを受けて鋭く光る。携帯の背にはビーズであしらわれたバンビ。カナが一歩あるくたびに、ビーズのひとつひとつが陽光を反射し、天井に淡いピンクやブルーの輪を作る。一週間くらい前にカナはバンビは自分で原画を描き、ビーズを貼り付けたと自慢していた。しかし、悟は、TSUTAYAでまったく同じキットが売られているのを知っていたから、わざと冷淡に「へえ、すげえじゃん」と流した。
 カナは、自分の嘘がバレているとは気づいてはいないだろう。いや、もし気づいていたとしても、その嘘を呵責する感覚はとっくに麻痺している。ディズニー好きの女なんてそんなもんだ。
 ユウジはスニーカーで白いプラスチックの椅子を軽く蹴ると、そのままだるそうに体重を預けた。カナは携帯を畳み、真珠のような光沢のショルダーバッグに押し込むと「早く見して!」とユウジをせかす。「待て待て」 ユウジは、テーブルにスニーカーの踵を乗せる。短パンにTシャツ。授業やバイトのない日は、近所の駒沢公園で焼いているから、肌はもうすっかり小麦色だ。
「グロ耐性あるから平気だって」
「言っとくけど、そんなにグロくはない」
「超強烈なやつも見たよ。ヘリコプターの羽根で頭ずたずたー」
「まじか」
「あっ、ちょっと待ってて。シェイク買ってくる」
 カナが遠ざかり、声が届かなくなったのを見計らって、ユウジが会計士のような口調で言う。「あいつ、絶対わざとパンツ見せてるな」。ユウジの視線は、カナのローライズとTシャツの隙間に張りついたままで、同時に悟にもそうすることを促しているようだった。「だろ」。悟は、カナのバンビを思い出していたから、「見せパン」の話は唐突すぎて「だろ」と答えるのが精一杯だった。
 カフェオレのストローをくわえたままユウジがカナに尋ねた。
「見たってさ、それ海外のグロサイトとか?」
「そそ。ホントに見たらぎょえーでしょ? 生きていけないわ」
「こっちは別に脳みそとか写ってないし」
「だから、見してよ」
「そのだから、ってなんだよ?」
「リアリズムってやつ? 脳みそってさ、きれいな色してるんだよねえ。知ってた?」
「答えになってねえし」 
 半透明のストローの中で、象牙色をしたシェイクが心臓の弁膜のように上下している。ユウジは片方の尻を持ち上げるとポケットから携帯を取り出し、テーブルに置いた。
 悟はその時初めてテーブルの天板が汚れていることに気づいた。ケチャップ、蕎麦つゆ、消しゴムのかす。午後の授業開始を告げるチャイムに驚いて、鳩が一斉に飛び立つ。「悟も見る?」ユウジは携帯をつかむと角でテーブルをコツコツと叩き、動画の再生ボタンを押した。
 3.2インチの画面に最初に映し出されたのは、ビックカメラの看板だ。そして、数台の救急車とパトカー。人が群がっている。ガードレールは止まり木みたいだ。そのうちの何人かは、携帯やデジタルカメラで「現場」を撮影していた。野次馬の垣根から少し離れて、エメラルドグリーンのポロシャツにスコートをはいた若い女が、ティッシュを配っている。異変に気づいていないのだろう。その周囲だけが、ぽっかりと「日常」だった。
 悟は、ある違和感を感じていた。これほど大勢の人間が「そこ」にいるのに、スピーカーからは、なぜか人の声がしないのだ。ふと、ずいぶん前に観たナショナルジオグラフィックスのビデオを思い出した。ガゼルの大移動。嘶(いなな)きひとつ上げずに、サバンナを駆け抜けるガゼルの群れは、まるでそれ全体で一頭の巨大で憂うつな獣のようだった。
「アキバじゃん!!」カナの金髪が、悟の鼻先をかすめた。トリートメントと皮脂とタバコの混じり合った匂いが漂う。アキバという言葉に、隣のテーブルの学生が一斉に振り向いた。カナは知っていた。ここでアキバ、と声にしたら人はきっと反応する。その瞬間、自分は特別な存在になるのだ、と。
 映像が一瞬途切れた。次に映し出されたのは、4、5人の警察官の後ろ姿だ。「POLICE 万世橋」と描かれたベストを着た警察官は、くすんだ空色のビニールシートを両手で掲げている。カメラがシートとシートのすき間に潜り込む。ここで初めて人の声がした。「下がってくださーい」。声の主は、おそらく警察官だろう。
 痩せた中年の女性が、心臓マッサージをしている。女は傍らの青年になにか話しかけているが、上空を旋回するヘリコプターの音にかき消され、声はほとんど聞きとれない。代ゼミにでもいそうな青年は、バックパックを地面に置くと、女の子のサンダルを脱がし始めた。
 胸骨を押すたびに腕も微かに動く。それは中学の頃に理科の授業で習った振り子の共振運動のようだった。だとしたら、振り子はやがて減衰し停止する。
「この子、死んだんじゃん? 黒いの血だよね」
「たぶん」
 ユウジが面倒くさそうに答える。画面では「代ゼミ」が、司祭のような手つきでサンダルを揃えていた。「なんかさあー、ダメっぽくない?」 カナが眠たそうな声でつぶやく。ストローの端には、赤い口紅が油絵の具のようにこびりついていた。
 動画が再び切り替わった。外国人のグループが、公園でフリスビーを投げ合っている。「以上」。ユウジは停止ボタンを押した。「結局、何人死んだんだっけ?」。カナがユウジに視線を合わせずに訊いた。そして、バッグの中からゴルチエの財布を取り出すと、クレジットカードを一枚ずつ引き抜き、表と裏を交互に眺めはじめた。「7人とか?」。カナの視線は三枚目のカードに注がれたままだ。反応がない。彼女の中でアキバはとっくに終わっていた。
 悟が、指先で消しゴムかすを丸めながら、独り言のようにユウジに問う。
「それ撮ったのお前?」
「えっ、なんで?」
「アキバとか行くんだ」
「めったに行かねえよ。なんかキモイ」
「でも、それ、ユウジが撮ったんだろ?」
「パソコンが最近、重いんだよなあ。G4だからさ。たまたま」
「自慢?」
「ん?」
「得意になってんの?」
「得意ってなにがだよ? 新しいマック?」
「いや、動画だよ。こういう絵撮ったオレってすげえー、みたいな」
「はぁ?」
「だって、見せびらかしてるじゃん」
「別に見せびらかしてはいねえよな?」
「つかさあ、よく撮れるよな」
「撮ってたのオレだけじゃないって」
「いや、誰が撮ったとかじゃなくてさ」
「じゃあ、なんだよ」
「この女の子、お前の妹でも撮ってた?」
「はぁ? 逆に聞くけどさ、この子お前の妹なの?」
「なわけないじゃん」
「他人だろ?」
「そうだよ」
「なら、なんでお前がいちいち突っかかってくるわけ? 関係ねえのに」
「犯人さ、派遣切られて、んでむかついてやったんだろ?」
「しらねえよ」
「らしいよ。理由はそれだけじゃないと思うけどさ」
「んで?」
カナがバッグから、iPodのヘッドフォンを引っ張り出す。
「君たち、あたし帰るよ、いい? 犬に注射打ってもらうんだわ」
「おう、またなー」ユウジが掌をヒラヒラさせている。悟は、カナを一瞥しただけで、無言のまま両手を頭の後で組んだ。カナのシェイクが腕に触れた。小動物のように肘を引っ込める。悟は、二人に気づかれないよう小さく舌打ちをした。
「ユウジさ、こいつ、むったから刺したって知ってた? 突然刺されたほうは、たまったもんじゃねえよなあ」
「で?」
 ユウジはあきらかに不機嫌になっていた。悟は話を切り上げようかと一瞬迷う。ユウジにはさっぱりしたところがある。今なら「ごめん。言いすぎた」で済むかもしれない。けれども、悟は話を続けなければいけない「必然」を感じていた。これはユウジだけの問題ではない。ユウジもカナも、そして誰よりも自分自身が「救済の物語」を必要としていた。
「なな、むかついたから刺すってさ、自分のことしか考えてないよな。お前も似てない? 自分のことしか考えてねえから、これ撮れたんだろ? 刺された本人はもちろんだけどさ、家族とか、必死で心臓マッサージしている人の気持ちとか想像したことある? ようするにネタなんだろ? 学校に持ってったら、みんなに注目されてオイシイ、みたいな。お前、一緒じゃん、刺した奴と。相手のこととかぜんぜん考えてねえよな。すげーとか、やべーとか言われて得意になってるだけじゃん。目の前で人が死にかけてるのに、よく撮れるよなぁー。つか、捕まった奴は死刑じゃん。お前は死刑にはなんねえよ。死刑になんなくても自分は注目されるよな? 被害者をネタにするとかありえないわ。まじで、ない。そういうの世の中じゃクズって言うんじゃなゃないの?」
「クズ? 野次馬とかさ普通に指さしながら見てるだろ。撮影したからどうだって言うんだよ。その映像をニヤニヤしながら見てるお前も一緒だろ。まじでキモイわ。ガンミしておきながら、よくそんなこと言えるよな」
「撮影して人に見せびらかすのと、ただの野次馬はぜんぜん違うと思いますが。なに話すり替えてるんだよ」
「悟、なんでそんなに熱くなってるの? マジかよ。撮ったことが、そもそもそんな大問題か? 相手の気持ち考えろって、それ普通に気持ち悪いから。正義感っすか? 倫理観? お前はマザー・テレサかよ。つかさあ、オレと犯人を一緒にしてんじゃねえぞ!」
「一緒になんかしてねえよ。安全地帯にいるぶん、こいつよりずるいって言ってんだよ」
 ユウジはスニーカーの靴紐をいったんほどくと、もう一度きつく結び直した。指先が微かに震えている。
「悟さあ、お前、サークルの部室に『批評空間』とかわざと忘れていってない? あれわざとだよなー。それとかさ、一年の杉田とメール交換してるよな? んで、タルコフスキーとかトリアーとかの講釈垂れてるだろ? あと柄谷行人がどうたらとか。デリダとか。しかも全部コピペだし。んで本当に狙ってるのは、杉田の友だちの和久井なんだって? お前の書いたメール、晒されてるの知ってんの? メールまわされてんだぞ。一年とかみんなお前のこと激キモイってよ。小道具使って気惹こうとしてるのバレバレだし。当然だよなー。要はやりたいだけなんだろ? ダサ。それなのにインテリぶったり。ガンミしてたくせに突っかかってくるし。そういうの偽善者って言うんだよ。お前まじでカスな。やってること人間のカスだよ、それ」
 悟は、目の前のアイスカフェオレのカップを、手の甲で鋭く払った。カップは弧を描く暇もなくユウジの鎖骨に当り、白いTシャツに薄茶色のシミを作ると、乾いた音を立てて床に転がった。シミの外縁はゆっくりと、まるで野火のようにTシャツを侵食し、テーブルには散らばった小さな氷が音を立てずに回転している。悟は、無言のまま立ち上がるとバックパックを肩にかけ、カフェテリアの出口に向って歩き出した。
「生まれてこなきゃ良かったのにな」
 悟は、一瞬立ち止まりかけた。けれど、もしその言葉に反応したら、きっとなにもかもが瓦解するだろう。瓦解? いったいなにが? いったいなにが崩れ去り、あとには何が残るのか。
 悟は混乱していた。カフェテリアのドアを押す。その瞬間、生暖かく湿った空気に全身が包み込まれた。それはまるで羊水で満たされたプールの底に横たわっているようで、微かに安堵した。


 
 悟は、椅子に浅く腰掛けたままの姿勢で目を覚ました。昼なのか夜なのか、咄嗟にはわからなかった。腕時計をさがす。「20:22」 悟は、バックライトの曖昧な光ですら眩しく感じ目を細める。どのくらい眠っていたのだろう。思い出そうとしてみたが、ラードを充填されたかのように頭が重く、諦める。
 三日前に食べた押し寿司の残飯や、アサリの缶詰やウイスキーの匂いが混じり合い、部屋に沈殿していた。人間の腐乱死体は、魚が腐ったような匂いがするとなにかで読んだことがある。悟は一瞬、自分自身が腐臭を放っている気がして、肩のあたりに鼻を近づけた。
 意識が鮮明になるにつれて、悟は闇に怯えた。慌てて机の上をまさぐる。指先が、テレビのリモコンに触れた。電源をいれると液晶の光が靄(もや)のように部屋の四隅を淡く照らし出す。画面の中では、三人組の女性テクノ系アイドルが歌っていた。悟は、音声をミュートにすると、目が覚めた時と同じ姿勢のまま、しばらく画面を見つめていた。
 ふいに両腕が動き出す。アイドルの振り付けを真似ている。その仕草はまるで狂人のようだ。が、意識を別のなにかで満たしてさえいれば「彼」はやって来ない。悟は、そう信じていた。
 五日前に大学のカフェテリアでユウジと揉めて以来、常に誰かに監視されているような感覚に苛(さいな)まれていた。悟が、最初にその「声」を聞いたのは、初老の新聞勧誘員に応対した時のことだった。「声」は言った。

 インターフォンをいったん切って、玄関のドアをわざわざ開けたのは誠意ではない。誠実さを演じたいというエゴだよ。お前はこの男の訛りを、私と一緒に嘲笑していたじゃないか。そもそも最初から新聞など取るつもりはなかった。違うか?
 慇懃に応対したのは、敬意を装った欺瞞だ。お前は自分の寛容さを再確認して、悦楽に浸っていたかった。とことん卑しくそして薄汚い。

 悟は、新聞勧誘員が帰ったあとも、しばらく体の震えが止まらなかった。胃酸が逆流し、何度も何度も喉を焼いた。タオルケットを頭から被り、胎児のように四肢を折り曲げると、やっと震えが収まった。
 自意識を他者の目線で捉え直すことは、誰にでもある。しかし、その「声」が単なる自意識の反芻と決定的に違っていたのは、それが新しい自我を獲得しつつあることだった。その証拠に「声」は「ぼく」の意識の埒外からふいにやって来た。そしてエゴという贓物を摘出し、解剖台に並べ、ひとくさり分析しては、また何事もなかったように帰って行く。このまま「彼」を野放しにしていたら、やがてそいつは「ぼく」を粛清し、我が物顔で闊歩するに違いない。悟は、もうひとりの悟に怯えていた。
 寝ている間ににわか雨が降ったのだろう。ベランダのサッシを細く開けると、濡れたアスファルトの匂いと、錆臭さをはらんだ風がカーテンを揺らした。悟は、電話線をモジュールに差し込むと、コンクリートの壁に「ろう石」で走り書きされた電話番号のひとつにダイヤルした。「はい。石焼きビビンバとテールスープで。お願いします」
 突然、窓の外から読経が聞こえてきた。耳をそばだてる。遠くを走るバイクのエンジン音が読経の正体だった。「休学かなあ……」。悟は、キッチンの冷蔵庫を開けながら呟いた。ビールが切れていた。キャラメルをひとつ口に放り込み、玄関のドアを開けた。三日ぶりの外出だった。
 マンションを出て、一方通行の坂道を下ると小さな交差点に出る。接骨院の角を左に曲がり、100メートルほど歩くと酒屋だ。「むつみ商店街」とプレートの掲げられた鉄製のアーチをくぐる。しかし、商店街とは名ばかりで、家屋の半数以上は一般住宅だった。したがって、商店は拍子抜けするほどまばらだったし、なおかつ一様にみすぼらしかった。商店と民家以外は、空き店舗か空き地か正真正銘の廃屋だった。
 コインランドリーのベンチで、体操着姿の少年が、コミック雑誌を読んでいた。洗濯物が乾燥機のドラムを叩いている。そのリズムはこの町の心音を連想させ、共鳴することも消え入ることもなく、暗闇に薄く堆積していった。
 悟は、小さくなったキャラメルを飲み込むと、接骨院の角を左に曲がった。20メートルほど先に救急車が止まっている。10人くらいの野次馬が縁石の上に並んでいた。後からパトカーのサイレンが近づく。悟は、自販機の陰に身を寄せてパトカーをやり過ごす。パトカーはサイレンを消し、のろのろと動いて停車した。
 警察官が通行止めのパイロンを路上に置くと、野次馬の列が崩れ、歪な馬蹄形になり、その真ん中に空色のワンピースを着た四歳くらいの女の子が、倒れていた。小太りの救急隊員が心臓マッサージをしている。少女の鼻と耳から血が流れていた。長身で痩せぎすのサラリーマンが、スーツの内ポケットからハンカチ取り出すと、片膝をついて少女の横顔を拭う。傍らでAEDの準備していた救急隊員が、咄嗟に男を制止するような素振りをしたが、再び何事もなかったかのように作業に戻った。
 腰の曲がった老婆が「肘……」と呟き、泣き出した。少女の右肘は、不自然な角度で折れ曲がっている。老婆は杖代わりの買い物カートからポケットティッシュを取り出すと、また泣いた。
 少女はマネキンのようだった。血を拭き取られたことで、より一層少女の「日常」は希薄になっていった。いま、この少女に残されたったひとつの日常の痕跡、それが不自然に折れ曲がった右肘の非日常性だった。ほんの数分前まで少女は、たしかに、歌い、走り、笑うことができたのだ。
 悟はパンツのポケットから携帯を取り出すと、電源を入れ録画ボタンを押した。
「山瀬コーポ第二」 マンションのタイルに埋め込まれた表札を、最初に収めた。カメラをゆっくりパンさせる。救急車、そして車内電話をかけている救急隊員。カメラを少女にフィクスした。少女は小さな矩形で切り取られ、バイトに変換され、やがてコンテンツになるだろう。液晶の中の少女はずいぶん前からの顔見知りのようで、奇妙な感じがした。長身のサラリーマンが射るような視線で悟を見ていたが、そのまま撮影を続けた。がっしりとした体躯の若い警察官が、マンションの四階を指差しながら、生花店の店主から事情を訊いていた。
「うん。その左側の部屋」
「ご家族、ご存知ですか?」
「ああ、お母さんは、佐川さんで事務やってるって言ってたなあ。あと五年生のお兄ちゃんがいるねえ」
「佐川さんは……佐川急便ですか?」
「そそ。たぶん用賀の営業所じゃないかなあ」
 悟はカメラを再びマンションに向け、四階のベランダをズームした。最初は汚れか錆かと思ったが、それはアルミニウムの手すりに貼られたアニメのシールだった。部屋は蛍光灯がついているのに、中はやけに青く薄暗く感じた。そこで、悟は、撮影をやめた。
 背後から肩を軽く叩かれた。白髪交じりで短髪の警察官が、腰に手を当てていた。
「お宅は、なにか、関係者の方?」
「いえ……すいません」
 悟は小さく返事をすると、携帯を尻のポケットに滑り込ませた。もと来た道を引き返す。接骨院に差しかかった時、ふいに涙が溢れ出した。しゃくり上げそうになって、慌てて奥歯を食いしばる。
 コインランドリーの少年と目があった。少年は、無表情のまま、再びコミック雑誌に視線を落とす。街路樹の蝉が、思い出したように、小さくそして短く鳴いた。 

( 2008.12 記 Installation:LEE Kit )





かまーん!