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死とは何か? ≪目安時間5分≫

生きているものは必ず死ぬ

 当たり前のことですが、直視し難い問題です。そして、それはなぜでしょうか。

死とは一体何なのでしょうか?

死ぬことの意味

 そもそも地球上に「生と死」が生まれたことは、神の目的のためでもなければ、宇宙人の実験のためでもありません。それは自然の過程として必然的に生まれたものです。

 宇宙ができ、偶然に地球ができました。そして、偶然、自己複製をする遺伝子をもつ細胞が生まれました。しかしそれは環境の変化とともに、進化と消滅を繰り返さなければなりませんでした。これが自然淘汰により、さまざまな動物を生み出していったのですが、生物の本質は「自己複製」と「進化と消滅」にあります。そして、それに理由などありません。

 自然界においては、人間も全ての生命も何となく生まれて何となく死ぬものです。そこに意味を求めて理由を付けたり、運命を感じるのは人間だけです。

 すべての生と死の働きには自然の流れがあるだけで、そこには「生きる目的」も「人生の目的」も入りこむ余地がありません。人生は何か特別な意味を持っているわけではなく、全ての生物と同じように「何となく自然の流れに従って生きている」だけなのです。

 強いて目的があるとすれば、わたしたちは生きるために産まれて、遺伝子を残すために生きて、死なないために生きていると言えます。

死を怖がる人間

 魚は水の中を素早く泳げるようになり、鳥は空を飛ぶようになりました。動物たちが進化を遂げる中で、人間は脳を発達させて道具を使うようになり効率的に死を避けられるようになりました。進化とは死を怖がる本能による、死なないための工夫なのです。

 しかし人間はそれが原因で、他の動物より早く死を予測できるようになってしまいました。そして他の動物と比べて死を異常に怖がるようになりました。その恐怖を意識的に遠ざけるために、人間は「自分の生には目的がある」と言って、自分の生に目的を与えるようになりました。

 人間は何にでも目的を与えてしまう動物です。しかし実際、生の目的も、死の目的もありません。もし生に目的を与えるようならば、死を今まで以上に怖がるようになり、死に目的を与えるようならば自爆テロのような発想に至ってしまうかもしれません。生と死は自然の流れの中にただあるだけのものなので、それに目的を与えてはならないのです。

死の本質は気の分散

 中国古典の『荘子』は生と死の本質をこのように説いています。

人の生や、気の集まれるなり、集まれば即ち生と為り、散ずれば即ち死と為る

 生は気が集合することで、死は気が分散すること、ということですね。この気の集合と分散は、宇宙が始まったとき、つまりビッグバンが起きたときから始まった現象です。

 ビッグバン以来、宇宙空間では絶えず、気の集合と分散が繰り返し行われてきました。陽子やヘリウム原子核の正の電荷をもつ物質と負の電荷をもつ電子の集合、光子の衝突による原子核と電子の分散。分子が集まることを集合、分子が分かれることを分散。

 このときの集合を生、分散を死と呼ぶのだとすると、生と死は宇宙が始まったときから起こっているものだと考えることができます。

 万物は常に集合と分散(生と死)を繰り返しています。宇宙空間でさまざまな分子や原子が結合と分離を繰り返すように、地球上のすべてのエネルギー(運動エネルギー、熱エネルギー、生物を構成するエネルギーなど)も結合と分離を繰り返しています。細胞は生きていくために細胞膜にあるイオンチャンネルの開閉を行なってイオンの交換をしています。この場合、細胞にイオンを入れることを気の集合、細胞からイオンを出すことを気の分散ということができないでしょうか。

 もっと身近なことだと、生きるために必要な呼吸も、息を吸う(集合)と息を吐く(分散)の繰り返しです。生命活動は気の集合と分散によって成り立っていることがわかります。つまり宇宙を含めたすべての生死の本質は気の集合と分散なのです。生と死というのは、さまざまな「集合と分散」の現象を人間が勝手に「生と死」と名付けただけなのです。

死をどのように考えたらいいのか

「死はただの気の分散だ」と言っても、やはり生物の本質として死ぬことを考えると怖くなってしまうものです。では死についてどのように解釈すればよいのでしょうか。

 生と死は、朝と夜のようなものです。朝と夜は、いつからが朝でいつからが夜なのかわからないほど連続的な現象です。自然界においては、生と死も不明瞭に変化していくものなので、いつからが生でいつからが死なのかということも、わからないものなのです。

 生と死は一物の変化にすぎず、二つの対立する現象ではありません。生と死は対立するものではなく、もともと統合して一つのものなのです。

 個人から集団、そして地球、宇宙の視野で物事を考えると、死が孤独なものではないと気付きます。生も死も結合して一つであり、自己と自然も結合して一つ、地球と宇宙も結合して一つ、人間の体とは小宇宙なのです。

 仏教では、生まれたものは必ず死の苦しみがあるので「生は苦である」という教えがありますが、さらに続けて「生が苦なのは、生に執着するからだ。生に執着してはいけない」とあります。

 これは「生と死は表裏一体なのだから、生にばかり執着してはいけないよ」ということです。わたしたちにできることは寿命を迎えるまで生きることです。死ぬことは悪いことじゃないんだから、のんびり楽しんで生きていきましょう。


参考文献
老子 (ワイド版岩波文庫) 単行本(ソフトカバー) – 2012/4/18蜂屋 邦夫 (翻訳)
荘子 第1冊 内篇 (岩波文庫 青 206-1) 文庫 – 1971/10荘子 (著), 金谷 治 (翻訳)
荘子 第2冊 外篇 (岩波文庫 青 206-2) 文庫 – 1975/5/16荘子 (著), 金谷 治 (翻訳)
荘子 第3冊 外篇・雑篇 (岩波文庫 青 206-3)文庫 – 1982/11/16荘子 (著), 金谷 治 (翻訳)
荘子 第4冊 雑篇 (岩波文庫 青 206-4) 文庫 – 1983/2/16荘子 (著), 金谷 治 (翻訳)

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