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岡本 崇克「あいだを繋ぐ人」

1.薬剤師と個人事業主

島根県西部と広島県との県境に位置する金城町(かなぎちょう)

人口5,000人ほどの小さな町だったが、2005年の市町村合併により浜田市へ吸収され、島根県浜田市金城町になった。

この街で、薬剤師として働きながら「おかもと商事」の屋号を掲げ、個人事業主として動き出しているのが、岡本崇克(おかもと・しゅうき)さんだ。

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2.激しい運動ができない

岡本さんは、1980年に3人きょうだいの末っ子として、この街で生まれた。

「小さい頃は、生まれつき心臓が悪くて、活発な子どもという感じではなかったんですよね」

生後すぐに、大動脈と肺動脈の大血管に加えて、心房と心室の位置も逆になった稀な先天性の心臓病である「修正大血管転位症」が判明。

その影響で、長距離マラソンや水泳など激しい運動を制限しなければいけないことも多かったようだ。

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小学校入学前には、心臓の手術を受け、以前より運動ができるようになった。

小学生の頃は、昼休みにサッカーをしたり家でゲームをしたりと、友だちと遊ぶことに熱中した。

中学へあがるとバスケット部へ入部。

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顧問の先生が岡本さんの心臓のことを配慮してくれていたため、可能な範囲で参加することができたようだ。

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地域にひとつだけの中学校だったため、顔見知りの友だちばかりで、特に部活の友だちとは一緒に泊まりにでかけるなど同じ時間を過ごすことも多かったようだ。

高校に入っても部活でバスケットを続けたが、激しい動きについていくことができなくなり、退部。

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「特にやることもなかったから」と家の近くのスキー場で、友だちとスノーボードの練習を始めた。

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3.父親からの助言

そんな岡本さんにとって転機となったのは高校2年生のときのこと。

「将来の夢はなかったんですけど、父と進路の話をしているときに『医者になること』を勧められたんです。当時の僕は潔癖症で、人の身体に触れることすら嫌だったので断ったら、『歯科医』『獣医』など他の医療系の職種をどんどん告げられたんです。どれも拒絶した末に、『薬剤師』だったら良いかなと思ったんです」

その言葉通り、高校卒業後は、埼玉県坂戸市にある城西大学薬学部へ進学した。

田舎から上京したこともあり、入学当時は頻繁に東京へ遊びに行っていたようだが、次第に実験などで大学の拘束時間が長くなってきたため、学内で知り合った友だちとサークルをつくって楽しむようになった。

大学4年の秋からは、大学に在籍しながら薬剤師国家試験対策の予備校へ通い始めた。

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2月には大学の卒業試験に合格し、翌月には薬剤師国家試験にも合格することができた。

通っていた予備校から声を掛けられ、父親に相談したところ、「人に何かを教えることは誰もができることではないから、やってみるのも良いんじゃないか」と快諾。

大学卒業後から同予備校で働き始めたというわけだ。


4.次なる場所へ

「結局4年ほど働いたんですけど、1年目のときに、『自分はこの仕事に向いてないな』と気づいたんです。経験としては良かったんですが、もともと人前で喋ることが好きではなかったから、次第に苦痛に感じるようになったんです。退職して薬局で働こうと思っていたんですが、ちょうど会社が『薬剤師教育の実践の場として薬局をつくるからやってみないか』と誘っていただけたので、転籍することにしたんです」

上司と2人で、埼玉や東京などの店舗の立ち上げに携わり、経営が落ち着くまでは岡本さんが実際に店に立ち、薬剤師の仕事を担当した。

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当然、店舗立ち上げの経験などなかったが、いろいろな人の助言を頼りに、6つの店舗をつくっていった。

33歳のときには、知見を広げるために、いちど退職し、別の会社で2年間薬局の立ち上げに関わった。

その後は、予備校時代に懇意にしてくれていた人の誘いで、35歳から障害のある人たちが働くレストランの開業に携わることになった。

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「レストラン経営はプロの人に任せて、僕はそこで働く障害のある人たちを集めることに尽力しました。僕の地元の金城町で同様の事業を展開している福祉施設があって、小学校の先輩がそこで働いていたので、色々教えてもらいに行きました」

障害のある人の仕事とレストラン事業との掛け合わせに可能性を感じた岡本さんは、事業のヒントを得るために、南青山にある事業構想大学院大学へ通学。

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すぐに数字としての大きな結果を出すことは難しかったが、高校生たちと新商品の開発に取り組むなど、話題性を得ることはできたようだ。


5.地元で暮らすということ

レストラン事業の仕事を2年ほど続けているうちに、組織の方針転換により、薬局への異動を告げられた。

「調剤薬局部門へ戻されたときに、父の体調が悪くなったこともあって、地元へ戻ることを決意したんです。地元には薬剤師が足りないことは分かっていたんですけど、ただ帰って薬剤師として働くのも嫌だなと思っていたんです。だからといって、自分で薬局を開業したいわけでもない。そう考えると、できることって少ないなと思ったんです」

38歳のとき、そうした不安を抱えながらも帰郷し、薬局で働いた。

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父の体調のこともあり、「週3日で働き、あと2日は自営業をしたい」と勤務先に報告。

個人事業主の仕事が軌道に乗ってくれば、今後は薬剤師としての仕事も減らしていきたいという。

「レストラン業務も薬剤師もどちらもサービス業だと思いますが、レストランの仕事はお酒を飲んで楽しい話ができる仕事です。でも、薬剤師って、深刻な話もあるので笑顔を見せるのが難しいことも多い仕事なんです。薬剤師の仕事は必要だとは思いますが、優秀な方が他にもたくさんいらっしゃるので、正直この分野だけだと太刀打ちできないと思っていますし、なにより楽しく仕事がしたいんです」

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現在は、地元の調剤薬局で働きながら、地元の企業と商品をつくったりWebサイトの制作ができる人を紹介したりと、いろいろな人の手伝いをして自分がやりたいことを模索している段階のようだ。

「浜田市に吸収合併されて『金城町』自体は無くなってしまったんですが、僕は生まれ育った土地が好きなので、いつかは地元に貢献できるような仕事をしたいです」

そう語る岡本さんを支えているのは、大学院でゼロからイチを生み出す創造性を身に着けたという自信に他ならない。

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でも振り返ってみると、岡本さんはこれまで予後校の講師や薬局の立ち上げ、障害のある人たちのレストラン事業に薬剤師と、多くの仕事に従事してきた。

それは患者と医療従事者をつなぐ薬剤師だったり障害のある人と社会をつなぐ仕事だったりと、いつも何かと何かの「あいだ」に関わってきた。

多様な業種を経験したことが、きっと血や肉となり、これからの岡本さんを支えていくことだろう。

仕事の転機のたびに相談してきた父親は、昨年11月に逝去した。

目指す方向は決まっている。

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さまざまな人たちの「あいだ」を繋いでいく岡本さんの手腕に僕は注目していきたい。


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