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赤塚 知子「人生の宝探し」

1.絶対的なの祖母の教え

「ほら、こんな風に揺れてくるんです」

画面越しの女性がそう話すと、手に持った振り子がゆらゆらと揺れ始めた。

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これは人の潜在意識を探ることのできる技法で、「ダウジング」と呼ばれている。

振り子を操っていたのは、神奈川県川崎市在住の赤塚知子(あかつか・ともこ)さんだ。

「昨年末からいろいろな『声』が聴こえるようになり、スピリチュアル的な感覚が研ぎ澄まされてきたんです」と教えてくれた。

赤塚さんは、1970年に北海道深川市で2人姉弟の長女として生まれた。

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幼少期の頃は、父親が海上自衛隊に勤務していたため、家を不在にすることも多かったようだ。

1年から2年単位で、本州と道内の引っ越しを繰り返すなかで、小学校2年生からは神奈川県横須賀市の新居に家族で転居した。

「小さい頃は、しっかり挨拶ができたりしつけが行き届いたりした子と認識されていました。聞き分けが良い子で親に反抗することもありませんでした」

物心ついた頃には、母方の祖母が新興宗教の教祖のような存在であり、祖母の言葉は家族のなかでも絶対的存在で、親族も皆、それに巻き込まれていったようだ。

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「人と関わっていると『因縁』を受けるから、あまり関わるなと言われていました。神様の道から外れるので、楽しむことは悪だという教えだったので、常に我慢しなければなりませんでした」

親族や母親の友だちも含めて祖母の宗教に心酔していたため、赤塚さん自身も違和感を感じることはなかったようだ。

学校では言いつけやルール、約束はどんなことをしても守るため、先生たちからも優等生として褒められていた。

ところが、あまりにも正義感が強かったことが災いし、小学校2年生のときからは、イジメを受けるようになった。

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「良い子になればなるほどイジメられたりしたから、『なんでだろう』という思いがありました。食事が食べられなくなった私の異変に母は気づいてくれて、助けてくれました。でも、母はいじめられる方にも原因があると信じていました。だから私は神様の意向に合わせようと更に祖母の言葉を守るようになっていったのです」


2.公務員への道

中学校へ入ってもイジメは続いていたが、2年生の夏休みに父親から勉強を教わってからは成績が向上し、学校でも一目を置かれる存在となりイジメはピタリとなくなった。

高校は横須賀市内の県立高校へ進学した。

部活へ入ることもなく、友だちと遊び歩くわけでもなく、家庭でも聞き分けの良い生徒だった。

専業主婦だった赤塚さんの母親は、周りからの評判も良く人気者だった。

自分を表現することが苦手だった赤塚さんは、そうした母親の姿に憧れを抱き、「母のようにならなければ」という思いを強く抱くようになった。

ところが、神奈川県へ転居していても祖母との関わりは続いており、母親は祖母から電話があれば2時間ほど喋り続けていたという。

「振り返ってみると、母は祖母から心理的虐待を受けていて、社会生活の判断基準になるものを何も教えてもらってなかったため、ずっと心理的に不安だったんです。そのため、母は宗教に自分の拠りどころを見つけていたようです。祖母は母にとっては、まさに『毒親』で人の気持ちが全く分からない人でした。自分の気持ち次第で、発言がころころと変わり、それも全て神のお告げだと述べていたんです。祖母が亡くなっても、その教えは絶対的なものでした」

高校卒業前には、父親の不貞行為が発覚し、両親が離婚した。

母方についた赤塚さんは、「母に迷惑を掛ける訳にはいけないから」と大学進学を断念。

公務員になることを決意し、都内で地方公務員として寮生活をスタートさせた。

「何事にも全力で誠心誠意努めなければならない」という教えに従い、何に対しても一生懸命前向きに努力するように心がけて働いてきたが、いざ働き始めると納得できないことも多かったようだ。

「あるとき、役所の駐輪場に無断で自転車を停めている人がいて、規則通りにサドルを外して張り紙を貼っていたんです。後日、自転車の持ち主が現れて、『役所の対応に納得がいかない』と私の説明に対して苦情を訴えてきたんです。こちらは正しいことをしているのに、謝罪をしなければならないことに大きなショックを受けました」

その後は、福祉事務所で相談援助の仕事を担当するケースワーカーとして働いた。

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さまざまな境遇に置かれた人たちと対峙していくなかでも、ひとりひとりと親身になって接していった結果、食事を食べることができなくなり体重が10キロ近くも減少。

不眠となり、次第に仕事へ行くことが難しくなっていった。

通院の結果、「鬱」の診断が下り、30歳から2年間休職して静養を続けた。


3.癌の発覚

復職後は、後輩から憧れられるような先輩にならなければと、働きながらマナー教室やフラワーアレンジメント、料理教室など、たくさんの習い事に打ち込むようになった。

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「学生時代は部活に打ち込むこともなかったし、鬱になってから自我が芽生えてきたこともあって、素敵な青春を取り戻そうとしていました」と笑う。

また、「鬱の経験を活かして人の役に立ちたい」と40歳のときには心理カウンセラーの資格を取得。

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さらに、社内研修へも積極的に参加、秘書検定準1級を取得し、さらにパソコン教室に通ってビジネスコーチングを受講したりと仕事もできる人間になるため、休むことなく努力を続けていった。

47歳のとき、社内で昇任し、これから懸命に働いていくことを決めていたときに母親の末期癌が発覚。

痛みや苦しみも表に出さず訴えることなく我慢し続けていたため、癌の発見が遅れたようだ。

「病気になった母は気弱になって『手術のとき同行して欲しい』とお願いしてきたんです。先輩に休みたいと相談したところ、『仕事はどうするの』と怒られてしまったんです。いまでは考えられませんが、仕事を優先させる職場だったんです。そのことも含めて、母にきつく当たってしまいました。それはいまでも後悔しています」

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結果として、母親の病気よりも自分の仕事を優先してしまったようだ。

そして癌が判明してから4ヶ月後に母親は他界。

加えて、母親の死から1年が経ったとき、今度は赤塚さんにも癌が見つかってしまう。


4.人生の宝探し

幸い初期に発見することができたため、術後の経過も良好だったが、あるとき精神的な限界を迎えてしまった。

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「仕事を優先するスタイルを変えなかったので、とにかく我慢や自己犠牲を続けてきたんです。大変な仕事をひとりでやらなければならない場面も多く、どんなときも上司の考えに自分を合わせていました。そうした自己犠牲が癌になって発現したんだと思っています」

癌の治療中も休職を続けていたが、その後「適応障害」と診断され、続けて会社を休職することになった。

休職中はカウンセリングを受け、自己洞察を深めていくなかで、母親や祖母との関係を見つめ直していったようだ。

「母や祖母から教えられてきたことは、相手に合わせることが正解であるという自己犠牲を重視した人生だったと気づいたんです。私の人生のテーマは『自分を愛し、愛を知ること』なんだと思います。自分を愛せない人がいるとすれば、『それでも、あなたは愛される存在なんだよ』と伝えていくのが私の使命なんだと自覚するようになりました。母に対して懺悔の念はありますが、母の声が入ってきて振り子が教えてくれるので、いまは寂しくないんです」

今後は、心理学とダウジングなどを使って、多くの人に愛を伝えていくことを目指している。

「人の役に立ちたい」と目指した公務員の道だったが、紆余曲折を経て、赤塚さんはやっと自分の歩むべき道を見つけたようだ。

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ダウジングの発祥は数年前とも数千年前とも言われており、当初は地下の水脈や鉱脈を見つけるために利用されていたようだ。

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ゆらゆらと揺れ続ける振り子は、今度は赤塚さんにどんなメッセージを伝え、どこに導いてくれるのだろうか。

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振り子の針が止まる瞬間まで、赤塚さんの探求は続いていく。


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