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上沢 央「自分だけの表現」

1.夢中になって読んでいた

「まだかな、まだかな~、学研のおばちゃんまだかな~」

この懐かしいCMの歌詞を覚えている人も多いだろう。

「学研のおばちゃん」と呼ばれる訪問販売員が、小学生向け学習雑誌「学習」「科学」を売り歩いていた時代、多くの子どもがまさに歌詞通りに、「まだかな、まだかな~」とこの雑誌の到着を心待ちにしていた。

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この「学習」と「科学」は、最盛期の1979年には月の販売部数が670万部を記録し、小学生の3人に2人が購読していたが、「科学」にはピンホールカメラや顕微鏡など本格的な教材付録がついていたことも人気の理由だったようだ。

同様に、小学生のとき、この雑誌を毎月楽しみにしていた人がいる。

「この『学習』と『科学』って、理科的なものと物語的なものという2つの要素を同時に楽しむことができたんです。小学校高学年くらいになると、学校の図書室でジュブナイル小説を夢中になって読んで、小説家になることを夢見ていました」

そう語るのは、東京で暮らす上沢央(うえさわ・おう)さんだ。

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「この名前は奥さんの旧姓と本名と組み合わせたものなんです」と、銀行員として働く傍らで、数年前から、このペンネームを使って小説を書き続けている。

上沢さんのいう「ジュブナイル小説」とは、大人向けのSF作家たちが、子ども向けに書いていたSF小説で、ライトノベルの原点と言われている。


2.こういう小説を書いてみたい

上沢さんは、1987年に神奈川県横浜市でひとりっ子として生まれた。

中学・高校は、神奈川県鎌倉市にある中高一貫教育の進学校へ進んだ。

バトミントン部に入部し、6年間汗を流したが、強豪校ではなかったため、いつも予選で敗れていたようだ。

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「運動神経が良い方ではなかったので、自分でやったりはしないんですが、K1やPRIDEなどの総合格闘技が好きでよく観ていました。特にプロレスは、リングの上で展開されるドラマが面白かったですね。物語性のあるものが好きなんです

中学に入ってからも色々な本を読んでいたという上沢さんに転機が訪れたのは、中学3年生のとき。

長瀬智也さん主演のテレビドラマ『ビッグマネー!〜浮世の沙汰は株しだい〜』を観て、金融業界へ憧れを抱くようになった。

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原作小説『波のうえの魔術師』を読んだところ、著者である石田衣良さんが描く世界に魅了され、「こういう小説を書いてみたい」という思いを持った。

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小学生のときから自分でも小説を書いてみたものの、最後まで書き終えることができないことも多かったようだ。

「周りはみんな勉強ができたんで、僕は落ちこぼれの方でした」と謙遜するが、高校卒業後は早稲田大学理工学部物理学科へ現役で合格。

大学時代は大好きなライムスター宇多丸さんが司会を務めるラジオ番組を聴くようになり、そこで紹介される映画などを観るようになった。

「1年で100本くらい映画を観ていました」と当時を振り返る。


3.初めての挫折

上沢さんが卒業する年になると、世界的金融危機リーマンショックなどの影響により景気は後退し、就職状況は一転。

雇用環境が悪化し、世の中に新卒未就職者が溢れたが、上沢さんも就職難の波に飲み込まれ、どの企業からも採択を頂くことができなかったようだ。

これまでの人生で初めてとでも言うべき挫折に、憂鬱な気分になり、三日三晩動けなくなるほど落ち込んだ。

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「トイレや入浴以外全てベッドの上にいました。ずっと天井を眺めて過ごして、自分に『社会不適合者』というレッテルを貼っていたんです」と語る。

その後は、大学からの推薦で大学院である早稲田大学理工学術院へと進んだ。

2年間修業し、再び就職活動に挑戦。

晴れて、大手銀行へ就職することができた。

2012年の入社後は、名古屋の店舗に配属となり、個人や中小企業などの顧客を対象とした窓口業務に従事した。

2年ほど勤めたのち、今度は東京本社へ異動となり、財務関係の仕事に就いたようだ。

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そして念願叶って、同社の中で投資を扱う部署へ配属となり、現在に至るというわけだ。


4.秘密の執筆

働き始めて、もうすぐ9年目になるという上沢さんは、仕事に慣れて余裕の出てきた28歳ごろから、仕事終わりや休日に小説の執筆を始めた。

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「仕事終わりに喫茶店とかファミレスで書いてるんですよね。本当に自分でも変わってるって思うんですけど、小説を書いていることを誰にも言わなかったし、どこにも公開しなかったんです

2016年に2歳上の女性と結婚した上沢さんだが、小説を書いていることを妻に打ち明けたのも昨年の話というから驚きだ。

「会社帰りに喫茶店などで小説を書いているときも、妻には、『仕事が長引いて遅くなった』と言ってましたから」と笑う。

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昨年になってようやく、20本ほど書いていた短編小説のうち、2本を自身のnoteで公開し始めた。

「去年4月に初めて長編小説を書き上げることができた。麻雀が好きで、『麻雀放浪記』のような小説なんですが、文字数にして16万文字です。僕はいつも手書きなので、わざわざパソコンで打ち直したんですよ。仕事の合間を見て5年ほどかけて書き上げたので、どこかに発表したいなとは思っているんです。将来は、小説家で売れたいとは思っているんですが、銀行員の仕事も続けたいですしね」

上沢さんが綴る小説には、自身の実体験が反映されることもある。

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インターネット上で公開している小説『夢幻鉄道 雨の日』は就職活動に失敗して挫折し、当時付き合っていた彼女とも別れ、「社会に必要とされていないのでは」と感じた、あのときの絶望感が表現されている。

こうした経験を自身の小説に吐き出すことで、少しは気分が浄化されるのだそうだ。

「銀行員になりたいという思いはずっとあったんですが、この仕事って、大企業の中での歯車のひとつなんです。減点主義の組織なので、言われたことを卒なくこなしていくことが良いとされています。一方で、小説はゼロからつくっていく作業なので、自分の中ではちょうどバランスが取れているんですよ。銀行員で生計を立てているからこそ小説も書けるわけですから」


5.表現の力

上沢さんの話を伺っていると、僕らにとって表現することがどれだけ大切なものなのかが良く分かる。

長い人生の中で、人は誰しも大きな壁にぶち当たることがある。

それは上沢さんのような挫折だったり、震災に遭遇したり身近な人の死に直面することだってあるかも知れない。

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そうしたときにこそ、表現はその力を発揮する。

人は表現し続けることで、逆境から立ち上がることができる。

言い換えれば、生きるためにつくっていると言っても良いかも知れない。

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そうした意味でも、上沢さんが誰にも見せずに小説を書き続けていたというのは、とても興味深い。

表現とは、ほんらい自分のためにつくるものであり、まさに上沢さんの小説は、その本質をついているのではないだろうか。

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よく知られているように、『変身』を執筆した偉大なる小説家、フランツ・カフカ(1883-1924)は、生前『変身』など数冊の短編集しか出版しなかった。

死後、自分の作品を焼き捨てるよう遺言に残していたが、友人マックス・ブロート(1884-1968)は自らの信念のもとにそれらを公開。

そのことでカフカは20世紀文学を代表する作家となったのだ。

知る人ぞ知る存在だったカフカのように、世の中には未だ誰にも知られることのない素晴らしい表現者が大勢いる。

自分のためだけに綴られた、まさに自分だけの「小説」が、陽の目を見るとき、そこにはどんな光が降り注ぐのだろうか。


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