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赤熊 晋一「世界で学んだ視点」

1.再開発が進む街

江戸時代には宿場町として栄え、明治時代には工業地帯でもあった東京都荒川区南千住。

下町としての特色を強く残しながら、近年では再開発により、高層マンションやショッピングモールが建設され、利便性が随分と向上した印象だ。

この街にある「川の手不動産」で、今年7月から2代目社長を務めているのが、赤熊晋一(あかぐま・しんいち)さんだ。

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赤熊さんは、1982年に3人姉弟の長男として生まれた。

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2.大好きだった野球

小さい頃から野球をやっていた赤熊さんは、中学卒業後に運動部が盛んな東京都立城東高等学校へ進学した。

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「中学のときはレギュラーをやっていて、高校でもそれなりにやりたいなと思って入学したんですけど、野球部は部員が100人くらいいて、余りにレベルが高くて挫折しました。高校2年生のときに、3年の先輩たちが初めて甲子園に出場して、アルプススタンドで応援した思い出があります。初戦で敗退しちゃいましたけど、そこから私の高校が一気に注目されるようになりました」

高校卒業後は、叔父と叔母の母校でもある東京経済大学へ進学した。

周囲から「大学でも野球を続けたほうが良い」と勧められ、大学のサークルで野球を始めてみたが、1ヶ月ほどで辞めてしまった。

甲子園に出場し突然「名門校」になった高校の出身ということで周囲からの期待は大きかったようだが、甲子園以上の目標を見つけることができず、以前のように純粋に野球を楽しむこともできなくなっていたようだ。

大学生活も特にやりたいことが見つからないまま、ただ時が過ぎていった。


3.海外留学へ

転機が訪れたのは、大学2年生のときに、初めて海外旅行に出かけたこと。

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姉と一緒にドイツで暮らす従兄弟に会いに行った赤熊さんは、帰国後すぐに休学届を提出し、半年間アルバイトでお金をためてから翌年9月よりオーストラリアのシドニーに半年間の語学留学へと出発した。

「シドニーは凄く良かったです。日本での生活を忘れて楽しむことができました。最初はホームスティ、その後はシェアハウスで暮らしながら語学学校に通いましたね」

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だんだん英語が喋れるようになった頃、帰国の時期は訪れた。

3月末に帰国し、大学へ復学。

大学4年生が始まる前から就職活動をしていたが、赤熊さんにはどうしてもすぐに就職するという気持ちが持てないでいた。

「当時は商社や教育関係の企業など30社くらい受験して、内定を貰ったところもありました。ただ、英語が喋れるようになってきたところで帰国したという感覚があって、面接などを受けていくうちに、就職への意識がどんどん遠のいていきました」

4年次の6月まで就職活動を続けていたが、その後は再びアルバイトに専念し、大学卒業後は就職ではなく、再び留学に出発した。

今度の行き先は、ニュージーランド最大の都市であるオークランドだ。

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現地でもアルバイトなどをしながら1年間語学学校へ通い、英語を習得した。


4.不動産業への道

3月末に帰国し、翌年7月から就職活動を再開し、中古車などを輸出する商社に採用された。

海外代理店と国内メーカーの仲介業者として、英語を活かした仕事に携わった。

「ある程度は喋れたんですが、私の英語力では、ビジネスとしてはまだまだ通用しないんだということを痛感しましたね。入社して3年目にリーマン・ショックの影響を受けて、会社の経営が一気に傾いたんです。30人ほどいた社員もリストラで半分ほどになりました。私はそのまま会社に残り、結局7年勤務しました」

会社の将来性を悲観した赤熊さんは、両親の影響で不動産業に興味を抱き始めたこともあり、31歳で退職。

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失業手当を利用して公共職業訓練を受講し、宅地建物取引士の資格を取得した。

そして心機一転、大手不動産会社で新築マンションの販売を行う営業を始めた。

「縦社会で上司からの要求が厳しかったり誹謗中傷を受けたりして人間関係が上手くいかずに、3ヶ月で退職してしまったんです」と唇を噛みしめる。

すぐに別の不動産会社へ就職し、不動産投資事業や賃貸管理などの業務に携わった。

「最初の半年くらいは女性が多い職場で、ここでも人間関係で苦労しました。部署異動になってからは、楽しく働くことができたんですけどね」

不動産会社で働いていた赤熊さんのもとに、あるとき、実家を手伝っていた次女から「家族で九州へ引っ越すことになったから、代わりに家業を手伝ってほしい」という相談を受けた。

サラリーマンを続けるのではなく、いつかは自分で商売をしてみたいと思っていた赤熊さんは、2年ほど働いた不動産会社を退職し、34歳から現在の「川の手不動産」で働き始めたというわけだ。

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「もともと両親は、祖父の代から続く『千代田商会』というスリッパ卸の会社を経営していたんです。時代の流れとともに収益を上げることが難しくなってから、両親は赤帽運送でも働くようになりました。母はペーパードライバーで、カーナビもない時代に配達業務をこなしていました。経済的にも体力的にも大変だったようです。両親は勤めに出たこともないし、部屋を借りたこともない未経験者同士だったんですが、不動産屋に転身した知人を見て、父は50歳から宅建の勉強を始め、2003年に58歳で開業したのがこの店舗なんです。だから両親のことは本当に尊敬していますよ」

開業当初は、インターネット黎明期だったため、ホームページを使って不動産を紹介している店は地域には皆無だった。

そこですぐにホームページを開設し集客に役立てていくなど、ひたすら利用者に寄り添い、地域に密着した経営を続けてきた。


5.人生に与えた影響

「私たちは街の不動産屋だから、この店を選んでくれたお客様との縁を大切にしたいです。ほとんどのお客様が南千住に住んでいるので、いつかは南千住にバーを併設したゲストハウスを開設して、利用者同士の交流などもできたら良いですね」

社会人になってからも何度か海外旅行へ出かけている赤熊さんだが、やはり大学のときに留学したオーストラリアのシドニーでの経験が、その後の人生にも大きな影響を与えているようだ。

牧歌的な環境のなか、現地の人とよく将来の夢などを語り合う機会があり、精神面でも成長を遂げることができたという。

「留学を通じて、ほんとうに人生観が変わりました。日本のことも、もっと好きになりましたね。異なる環境で人と対話をした経験が、人生に影響を与えることもあるんですね。私も誰かに影響を与えることのできる人間になりたいと思います」

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そう語る赤熊さんは、野球に対しても、ずっと大きなトラウマを抱えていた。

それが払拭されたのは、2014年夏のことだ。

当時、鹿児島から東京までのローカル線の旅の途中で関西に立ち寄った赤熊さんは、急に思い立ち、夏の甲子園大会の開会式を見るために、高校生以来、15年ぶりに甲子園球場を訪れた。

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そのとき、必死でプレーする球児たちの姿に感動し、当時は甲子園でプレーすることこそできなかったが、かつて自分が3年間休まずに本気で野球と向き合ったことを誇りに思うようになったという。

その後、後輩が母校の監督をするようになり、声を掛けられ足を運んだところ、そこでもあの頃の自分と同じように補欠にも関わらず、楽しそうに白球を追いかける高校生たちの姿を目にした。

それまではレギュラーになれなかったことを悔やんでいたが、日々練習を頑張っていたこと自体が、自分にとっての財産になっていたことに気づいた。

甲子園を目指して頑張ったあのときの経験が、赤熊さんのなかで、ようやく良い思い出になった瞬間だった。


6.身につけた決断力

振り返ってみれば、留学する前の赤熊さんは、大学入学や大学での野球経験など、いつも誰かの助言に従うことが多かったようだ。

しかし、留学先の生活では、自分のことは自分で決める必要があった。

万が一、失敗したときには、誰かに責任転嫁することもできない。

日本では安定してその場に留まること、言い方を変えれば何でも我慢して続けることこそが美徳とされている傾向がある。

しかし、例えば人間関係でトラブルのあった不動産会社にあのまま勤め続けていたら、精神的に病んでしまった可能性だってあるだろう。

海外留学を通じて、決断力を身につけた赤熊さんは、両親の会社を受け継ぎ、いま不動産会社の経営を始めた。

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まさに時代は、新型コロナウイルスにより未曾有の危機を迎えている。

この局面を、果たして赤熊さんは、どう乗り越えてくれるのだろうか。

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今度は、僕らが観客席から声援を送る番だ。



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