見出し画像

韓流時代劇『武神』と『光る君へ』

テレビ埼玉で『武神』を観るひとときは幸せだ。現実のすべてを忘れてしまう。録画予約しているが、絶対にリアル放送時間帯で見たいので、スケジュールではその時間を最優先している。

日本の大河ドラマは今まで何を見ても途中で飽きてしまった。なぜだろうと考えた。
まずは俳優陣の演技。どの俳優も、その時代ふうの衣装を着た現代人に見えるのだ。表情の微妙さ、絶妙さ、悲壮感が薄いように思えてしまう。登場人物を演じている現代俳優に見えるのだ。

『光る君へ』は録画予約しているから、翌日一応見る。時々早送りしながら。だが、少女時代の紫式部は、平安時代の少女がランドセルを背負って出てきたような違和感があった。

藤原道兼が紫式部の母親を殺したという設定は現代漫画のようだった。漫画をほとんど知らない私がこういうのも申し訳ないことだが。
少年道長とのデートシーンは、こんなこと、ありか?と思った。

ドラマだから単純に楽しめばいいのだが、違和感ばかりが引っ掛かる。

反面、韓国時代劇は夢中で吸い込まれるのだ。何かの本で読んだが、高句麗から始まる朝鮮半島の王朝では「従軍記者・従軍画員」の役割を果たす官吏がいて、橋の建て替えから、モニュメントの建造まで事細かに記録が残っている。国王といえど、その記録を一字一句改ざんすることはできなかったという。

『イ・サン』では画員の書き残した「橋の改築」の画から、無実の罪を着せられた人が助かる場面があった。
『トンイ』も『チャングム」も残された膨大な記録の中から、そのように呼ばれた女性がいたことを突き止め、ドラマ化したという。
だから、時代考証ががっちりしていて、フィクションの部分でもフィクションと感じられない説得力があるのだ、と思う。

『光る君へ』も期待半分、不安半分で見始めたが、藤原兼家の妻の一人、『蜻蛉日記」作者である女性が登場したとき、私はがっかりした。

『蜻蛉日記』作者は当代随一の美人、歌の巧さも当代随一。『蜻蛉日記』は平安文学の一番星。
『蜻蛉日記』なくしては『源氏物語』も『枕草子』も生まれなかった。倭言葉による「書き言葉」のなかった時代の一番星なのだ。
平安文学は『蜻蛉日記』から始まった。これは学会の定説だ。

しかし、ドラマの『蜻蛉日記』作者は……。
ちらと登場しただけだが、それほど美しくも知的でもないただのおばさんに見えたのだ。(演じた俳優さんには、ほんとにほんとに、ごめんなさい)。
こういうとまるで麻生氏の最近の発言みたいで、私の感覚自身が昭和のおじさんになってしまうが……。


それに引き換え『武神』。
蒙古が世界征服を成し遂げたころの高麗の話とはいえ、あの臨場感、あの悲壮感は……すごい!
私の勝手な思い込みかもしれないが、めちゃくちゃ韓国ドラマの俳優の演技は巧い。理屈抜きに引き込む、凄まじさがある。

『武神』にも、歴史上はフィクションの部分がたくさんあるだろうが、脇役の一人に至るまで、目の表情、顔の動き、指の仕草まで、見ている人の心を虜にしてしまうのだ。
細かい所に不自然さがあったとしてもまったく気にならないほどに……。

ハマりきってしまった私、インターネットで『武神』について調べた。
主人公のキム・ジュンは実在の人物で奴婢(最下級の奴隷)から最高権力者になったという。

ああ、実話に基づいているのだ、とますます感動。明日が楽しみでならない。悲劇的結末であることも分かっているが、それを覚悟のうえで、ジュンの成功を祈ってしまうのだ。

でも、道長に関しては、なんかイメージと違い過ぎてのめりこめない。
でもこのドラマの前宣伝のお陰で源氏関係の本を6冊も買って経済に貢献したし、生徒を楽しませる雑学も増えた。

単純に「役に立った」と思えばいいのね~


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?