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ショッピングモール (12)

葡萄

夫には何も相談しなかった。相談すると迷路に迷い込む。話の収集がつかなくなる。香子は思い切ってあのころの級長澤田に電話した。大学教授になった彼は今でも何かあると、みんなに頼られている。

「分かった。そのホテルを捜してみる」「あまりいろいろな人に言わないで」「分かってる」

家にいても不安が募るだけだ。香子はマンションのすぐ近くのショッピングモールに出かけた。絶え間なく人が行き来する中にいると気が紛れる。

香子の脳裏を遠い日の様々な場面が浮かんでは消えた。

いつのクラス会だったか。隆とこんなやり取りをした。お互い少し酔っていた。「夫はいないも同然の人。会話なんてないんだから」「なんでそんな結婚した」「ただの成り行き。あなただって夫婦仲冷えてるんでしょう。なんでそんな結婚したの」「ただの成り行き。人生は偶然と成り行きの結果でしかない」「なんか寂しい」「君も俺も結婚に関しては運がなかった。お互い、なんか寂しい人生だね。離婚して一緒にならないか」「それが出来るといいけど」「人生、一度きりだ」「そうね、やってみる?」「やってみよう」

半分冗談、半分本気でそんな会話を交わした。ただの成り行きで……。

その後、一度だけ二人きりで会った。どんな口実で彼が自分を誘ったか覚えていない。彼の車で都内を走り、帝国ホテルのレストランで食事した。レストランの支配人がわざわざあいさつに顔を出した。「東野さま、いつもお世話になります」「おお。どう?最近」「おかげさまで」支配人は深々と頭を下げる。隆はここにも顔が効くんだ。出世したんだ、としみじみ思った。感心した。豪華な食事だったあの夜。

帰り際、「俺、金の使い道ないから、俺の勝手で買う。遠慮するな」とホテル内の宝飾店で紫水晶のブローチを買ってくれた。「葡萄みたい」「お前、田舎者のままなんだな」隆は笑った。

車の中でどちらからともなくハグして別れた。それだけだった。隆は野性的な魅力と豪快さとユーモアにあふれていた。夫とはまるで違った。話して楽しい人。なのに、どこか暗い影がある……。

レストコーナーの椅子に腰を下ろして、香子は思い出に浸っていた。

隆は死んだのだろうか。妻や娘さんと連絡はついたのだろうか。それを考えると怖かった。

偶然と成り行きが違っていたら、自分たちは結婚したかも知れない……。香子は思った。誰が悪いのでもない。自分で選んだ道だった。いや、選んだように思えるけれど、単なる偶然の積み重ねの結果なのだ。それが人生なんだ。香子は立ち上がる。泣いてはいけない。自分を責めてはいけない。すべて成り行きだったのだ……。

家に帰ると玄関に宅急便の箱が置いてあった。差出人は東野隆。胸が苦しきなった。開けると、立派な木箱に入った立派な葡萄がひと房。

彼は本当に山梨に行ったんだ。葡萄を送ってくれたんだ。そのときまでは惚けてはいなかったんだ……。そんなに急に認知症を発症することがあるのだろうか。

それから一週間後、澤田から電話があった。

「伝手を辿っていったら、彼は高田馬場のシティホテルに滞在していた。そこで具合が悪くなったらしい。ホテル側は彼が上客でお金もたっぷり前払いしていたから病院に運んでくれていた」

それから長い沈黙が流れた。

「結局、助からなかった」「で……」「家族とも連絡がつかなかったから、俺が身元引受人になって、集まれる仲間で火葬してあげた」

澤田は医学部の教授で医師だったから、そういう方面の手続きには顔も効いただろうし、詳しかったのだろう。

香子は震えていた。「ごめん……何も手伝えなくて」「いや、君が連絡してくれたから、彼、無縁仏にならずに済んだ。昨日、奥さんとやっと連絡がついてね」

また長い沈黙。

「そのうち、偲ぶ会か何かやろうと思う。クラス仲間は大分あの世に行ったけどね。集まれる人だけ集まって」「ずいぶん長い歳月がたったから……」「俺はあいつを……尊敬してた……」「私も……」「あちこち連絡しようとして思った。俺、長生きしたなあ。もう死んだやつが沢山いたんだ、って気付いて」「ほんとうに……」「生きてるうちに一度帰っておいで。隆も待ってるよ、きっと」

静かな秋の夜だった。香子は受話器を置いた。明日、あの海辺の町に帰ろう。彼の足跡をたどろう……。

                              終わり







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