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なぜ人は朗読するのか


なぜ人は朗読をするのか。なぜいまの時代に朗読が必要なのか。そのことは、このクラスの連続の講座のなかで、酒井先生が語られていることであり、さらにみなさんもまたそれぞれそのことの意味について、私なんかよりも深く考えておられるはずですから、ここでは少し視点をかえて、物語をつくりだす作家の側から、なぜ朗読が必要なのかということを話して、そして少し大胆な提案をしてみたいと思います。いま作家とその作品の寿命はどんどん短くなって、どんな大作家も、どんなベストセラー作家も、その死亡記事がでると、ごみの埋め立ちに投げ込まれるように、その膨大な作品とともに投げ捨てられます。それは凄まじいばかりですね。その膨大な作品の大半が、垂れ流すように書き流した駄作の数々ですから、あっという間に埋め立て地に投げ捨てられても一向にかまわないのですが、しかし名作といわれるものまで捨てられていく。歴史のなかにしっかりと残されて、のちのちまで日本人に読まれていくべき作品までが捨てられてしまう。こういう現象をみるとき、そういう名作や、日本人の魂をつくっていくような作品を残す方法はないのかと思うのですね。
 

クラシック音楽は、私の生活に欠かせないもので、バッハやモーツアルトはもちろん、マーラーやブルックナーなども何百回となく聴いているのですが、いつも思うことがあるのです。バッハやモーツアルトは、二、三百年前に存在した過去の人々です。しかし彼らの残した作品は、まるでいま存在するかのように、私たちに迫ってきます。彼らが残した楽譜を、いまを生きるすぐれたピアニストやヴァイオリニストやオーケストラが、迫真の演奏していくからです。その作品に常に新しい生命が吹き込まれ、新しく創造されていくからなのです。私は文学というものも、そういうことができないものかということを、ずうっと考えてきたわけです。作家が原稿用紙に書く文章は、いまはたいていワープロですが、ワープロで打ち込む文字は、一種の楽譜にもなりえるわけです。この原稿という楽譜を、力をもった朗読家たちや語り手たちが、コンサート形式によって公演するという活動が、頻繁にこの社会で行われないのものだろうかと。もしそういう活動が日本の各地で、まるで音楽のコンサートのように頻繁に行われるようになったら、文学もまたいまを生きるすぐれた語り手や朗読家たちによって新しい生命を吹き込まれ、モーツアルトやバッハの音楽のように、永遠性を獲得するのではないのかと。
 

ところが、事態はそんな簡単ではないのですね。私も何人かプロの語り手たちと懇意にしていますが、彼らはプロですから、いつも三百人四百人収容のホールで公演活動します。彼らはアマチュアではなく、三千円とか五千円の入場料をとって公演するプロですから、観客にそれだけの価値のある感動を与えなければなりません。チケットを買ってもらい、わざわざ時間をさいてかけつけてくれたわけですから、完成度の高い舞台にしなければならない。感動をあたえる充実した舞台にするため、語り手たちは、もちろん語りの技術や演技に磨きをかけていきます。語りの合間に、音楽を効果的にいれる演出もします。しかし問題は、一番の問題は、なんといってもその舞台にのせる作品です。その公演はその舞台にどんな素材、つまりどんな物語を取り上げるかということによって決定するといっていいほどなのです。ところが彼らにいわせると、その肝心の素材、肝心のその作品がなかなか見当たらないというのです。
 

一つの公演は、だいたい一時間半ですね。その語りの合間に、フルートとかチェロの生演奏の間奏曲といったものをいれたりすると、朗読者が取り組む作品は、一時間前後の作品ということになります。朗読の速度が、だいたい原稿用紙一枚一分という目安ですから、一時間前後の作品というと六十枚程度の物語ということになります。ところがいくら探しても、これはと思う作品に出会えないというのです。それではそれ以下の枚数の作品でもと探してみるが、そこにもこれはと思った作品に出会えない。それではもっと長いもの、百枚前後の作品まで広げて探しても、なかなか出会えない。こんなに本が腐るばかりにあるのに、取り上げたいと思う作品になかなか出会えないというのです。朗読する本はいくらでもあります。どんな本でも朗読できます。しかしいま彼らは、三千円とか五千円の入場料をとって、舞台で語るのです。そのためにはまず観客を、その物語の渦のなかに巻き込んでいかなければならない。観客に感動をあたえるためには、まずそのステージにのせる作品が、それだけの力を持っていなければいけない。しかしそういう作品になかなか出会えないというのです。
 

なぜ出会えないのか。こんなに小説や物語があふれているというのに。どうして語り手たちは、それらの作品が気に入らないのだろうか。それにはいくつも理由があると思いますが、その理由の一つに踏み込むために、私が作家としてこの問題にどのように立ち向かっているかということを話してみたい思います。私もたびたび語り手たちから作品を依頼されたりするのですが、そのとき私がつねに一つの大きな指針にしているテキストがあるのです。それはクラシック音楽です。クラシック音楽の技法なのです。クラシック音楽が到達した技術であり、表現方法なのです。みなさんは、このことを不思議に思われるかもしれません。クラシックは音楽であり、言葉で組み立てる物語とは全然異質なものなのに、どうしてテキストになるのかと。しかしさきほどもふれましたが、語り手によって、物語がステージで語られるとき、その物語が語り手たちの楽譜になっているわけですね。
 

そうすると、語り手たちから依頼されたとき、作家はその作品を楽譜として書かねばならなくなります。作曲家たちは演奏家たちに弾いてもらうための楽譜を書きますね。作曲家たちは、コンサートホールで演奏されることを想定して曲を書いていきます。ですから、その曲の長さも、小曲から大曲までさまざまですが、しかし物語的構成をもった大曲は、たいてい三十分から一時間でその世界が完結するようになっています。作曲家たちは、その時間のなかで、彼らの世界を打ち立てるために苦闘するわけですね。コンサートホールにやってくる聴衆を引き込むために、さまざまな技法をその曲のなかに組み込で、その世界を創造しているのです。それと同じように、もし語り手たちから舞台にのせる物語を書いてくれといわれたら、もちろん作家には戯曲という形式がありますが、戯曲をかく技術を取り入れることも必要ですが、それ以上に私は、クラシック音楽の技法を取り入れなければならないと思っているのです。
 

私が最も大きな影響をうけたのはブラームスです。このブラームスの音楽に、大きな影響をうけているのですが、このブラームスの技術というものを、ちょっと言葉に変えていきますと、まず主題があらわれてきます。深い謎を秘めている主題です。弦楽器が、その重い主題を重層的に奏でていきます。すると木管楽器が、空に上昇するように明るい旋律を奏でていく。しかしそれも束の間、また重い主題が、魂の底にぐるぐると渦をまいておりていくような、重層的な旋律を奏でていきます。深い謎の中をさまようような重い旋律です。哲学的で、瞑想的で、全体が悲劇的で、憂愁な気分に沈みこんでいきます。しかしその合間に、まるで森のなかで吹き鳴らされる角笛のように、ホルンが牧歌的なのどかな旋律を朗々と鳴り響かせたり、ヴァィオリンやビオラがこよなく美しい旋律を奏でて観客を挑惚とさせます。そしてついに終楽章がやってきます。解放の音楽です。光の音楽です。いま苦悩を突き抜けて、光の世界の躍り出たことを全楽器が、怒涛のように歌い上げていきます。コンサートホールのなかで、四十分という時間のなかで、ブラームスは、いやブラームスに限らず、バッハも、モーツアルトも、べ一トウベンも、マーラーも、それぞれの技術を駆使して、聴衆の魂を深くえぐっていくような音楽のドラマを、あるいは思想のドラマを圧倒的な力で組み立てていくのです。聴衆は満たされます。高い入場料などなんとも思いません。
 

語り手たちが求めている作品とは、実はそういう作品なのです。しかしそういう作品に出会うのはまれです。どうしてかといいますと、日本の作家たちは、そういう作品をいままでだれ一人として書いてこなかったからです。日本の作家たちは、雑誌に掲載するための作品を書きます。あるいは単行本にするために書きます。しかし語り手たちによって、コンサートホールで、聴衆にむかって朗読される作品というものを、いままでだれ一人として書いてこなかったのです。ですから語り手たちが、図書館にでかけていって、ありとあらゆる本を読んでも出会えないのは当然なのです。これからも日本の作家たちは、語り手たちのために、作品を書くことはしないでしょう。たとえ書かれたとしても、なかなか語り手たちを満足させる作品は現れないと思います。ではどうすればいいのか。ここに今日のスピーチの一つの山があります。ここで私はみなさまに一つの大胆な提案をしたいと思っているからです。
 

みなさんは、本の深い読み手であり、たくさんの物語や小説を読んでおられる読書家でもありますから、いままでにいくつもの感動した作品に出会っているはずであり、そのなかには語り手として、観客の前で語ってみたいと思われる作品もまたいくつもあるはずです。しかしいざ、その作品を取り上げて、実際に取り組んでみると、その作品をステージにのせるには、その作品にいくつもの不満があるというか、難点とか傷があることに気づいていくはずです。長すぎるということもあるでしょう。とうてい四十分から一時間という制約のなかにおさめきれない。あるいはどうも冒頭の部分で、もたもたしている。余計なことをぐちゃぐちゃ書きすぎている。中間の部分に無駄な部分がたくさんあって、せっかく盛り上がっていくストーリーがここで沈没していく。最後の部分も不満で、どうもこの終り方は気に入らない。もっと最後はきりりとしめくくるべきだとか、まあ、いろいろと不満がでてくる。そしてやっぱり、この作品を取り上げて朗読しても、観客は満足しないだろう。高いチケット料をとって語っていく作品ではないと投げ捨ててしまうわけですね。私の提案はここからはじまるのですが、そのとき、語り手は、その作品を投げ捨てるのではなく、逆にもっとその作品になかに、深く踏み込むべきだと思うのです。
 
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踏み込むということはどういうことか。それはみなさんが、語り手として、その作品に手を入れるということです。みなさんが、ステージにのせるには傷がある、欠陥がある、不満であると感じた部分に、大胆に手を入れて書き替えるという作業です。これを別の表現にしますと、その素材をコンサート形式の作品にするために、新しい創造に立ち向かうべきだということです。その作品が長すぎるならが、大胆にぶった切るべきでしょう。最後の場面が不満なら、そこもまた大胆に書きかえる。最初の部分でもたもたしているなら、そこを大胆に刈り込でストーリーを引き締める。主人公をもっと浮き立たせるためには、さらに新しいドラマを作りだすことだってやってもいいでしょう。語り手は、コンサート形式として上演する以上、観客に深い感動をあたえるためには、その作品に大胆に手を入れるべきなのです。
 
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このことに当然、批判があるでしょう。この教室で酒井先生はどのように教授されているかしれませんが、大抵のこの種の教室では、原文重視主義のはずです。原文を一字たりとも変えて読んではならない、句読点の位置まで注意して正確に朗読せよと教える教室が大半だと思います。しかし例えばその作品が、映画化されるときどうなるか。映画作家たちは、その作品をもうかんぷなきまでにつくりかえます。ときにはほとんど原作の跡をとどめない作品になっていたりします。決して映画作家たちは、原作をなぞるようなストーリーにはしません。すぐれた映画作家であればあるほど、原作と離れて、まったくちがった世界をつくりあげていきます。それは当然のことです。映画と小説は別の表現形式ですから。
 
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実は、それはまた語り手にも通じることだと思います。コンサート形式の公演活動をおこなうとき、絶対的な制約があります。観客の前で語るということ。さらには時間という制約があるということ。その制約のなかで、観客を語りの世界に巻き込み、深い感動をあたえていくには、そのような語りのドラマに作りかえなければならないのです。原作をそのまま読んでみても、観客にとっては退屈なだけです。そんなものならば、わざわざホールなどくることはないと観客は思うはずです。家でその本を読めばこと足りるわけです。そのほうがむしろ深い読み方ができます。例えば森鴎外に「山椒大夫」という名作中の名作があります。六十枚ぐらいの作品ですから、コンサート形式の語りの舞台にのせるには格好な作品でしょう。しかしもし私が語り手であったら、その作品をけっしてそのまま語ることはしないでしょう。なにやら北朝鮮による拉致事件を思わせるようなこの感動的な物語を、あのプラームスの技法と旋律で歌い上げるでしょう。運命に翻弄された母と子が、何十年という月日をへて、ついに巡り逢い、ひしと抱き合うあのクライマックスにもっていくドラマをステージで語るには、新たに書き替える必要があるのです。
 
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この行為はけっして偽造とか捏造といったものではありません。クラシック音楽の世界ではよく行われていることで、例えば、ハイドンの主題による変奏曲とか、モーツアルトの魔笛による七つの変奏曲とか。作曲家たちはさかんに影響を受けた作曲家たちの作品をあらたに再創造しているのです。こうして古い作品に新しい生命が吹き込まれて、蘇っていきます。ですからその行為は、偽造とか捏造などということではなく、あるいは書き替えるなどいうことでもなく、その素材に取り組む語り手が、その作品を素材にして新しく創造したというべきなのです。日本の語り手たちがつくりだしてきた偉大な物語があります。日本の歴史を貫く民族の歌とでもいうべき「平家物語」です。あの作品は、もちろん深い教養をもった、歴史を鋭くみつめることができ、さらには物語というものによく知っている人間が、最初に書き下ろしたことは間違いありません。その原作が琵琶法師たちの手に渡ると、法師たちは辻々に立って、その作品を語っていきました。そのとき法師たちは、けっして原作通りには語らなかったでしょう。民衆に受入れてもらうために、聞く者に深い感動をもたらすために、次々にその物語をつくりかえっていったはずです。ですから「平家物語」とは、語り手たたちによって、ふんだんに再創造され磨き上げられてきた作品だといってもいいでしょう。
 
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このような大胆な提案をしている私ですが、実はそのことの実践を、すでに今日、みなさんの前で行っているのです。それがみなさんのお手元に渡っている、宮沢賢治の作品「生徒諸君に寄せる」という詩なのです。これは賢治の未完の詩でありまして、詩集などにのることはほとんどありません。もっとも賢治の作品というのは、いわばほとんど未完成であり、いわば永遠の未完成こそ真の創造だといった趣をもっているのですが、それらの作品のなかにあって、この作品はさらに未完成なのですが、いま私はこの詩を取りあげて、再創造してみました。舞台にのせるためにです。コンサート形式のステージで語り手に読まれるためにです。その作品を再創造するとき、深くその作品を読み込み、それがすぐれたものならば、その作品が語りかけている精神というものは、しっかりと刻みこまなければなりません。ですからこの短く刈り込まれた詩にも、宮沢賢治のエッセンスが、宮沢賢治の核心がふつふつとたぎっているはずです。
 
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さて、ここでみなさんに挑戦なのですが。これから、語り手として、朗読者として、言葉と物語の伝達者として、世に出ていくみなさんに、ぜひ再創造されたこの詩に生命の声を吹き込んでもらいたいと思うのですが、せっかくたくさんの方がおられますので、全員にこの朗読に参加してもらうために、このようにしたいと思うのです。まず三つのグループにわかれて、この詩に取り組んでもらいたいのです。そのときそれぞれのグループが、それぞれ語りの技術をつかって、独唱、二重奏、三重奏、そして合唱といった音楽の多様な形式を取り入れて朗読してもらいたいのです。たとえば、最初は独唱からはじまって、やがて輪読形式になり、最後は高らかに全員が合唱になるといった具合にです。
 
生徒諸君に寄せる
 
この四ヵ年
わたしはどんなに楽しかったか
わたしは毎日を
鳥のように教室でうたってくらした
誓って言うが
わたしはこの仕事で
疲れをおぼえたことはない
 
諸君よ、紺色の地平線が膨らみ高まるときに
諸君はその中に没することを欲するか
じつに諸君はその地平に於ける
あらゆる形の山岳でなければならぬ
 
諸君のこの颯爽たる
諸君の未来圏から吹いてくる
透明な清潔な風を感じないのか
それは一つの送られた光線であり
決せられた南の風である
 
諸君はこの時代に強いられ率いられて
奴隷のように忍従することを欲するか
むしろ諸君よ、更にあらたな正しい時代をつくれ
宙宇は絶えずわれらによって変化する
潮汐や風
あらゆる自然の力を用い尽くすことから一歩進んで
諸君は新たな自然を形成するのに努めねばならぬ
 
新しい時代のコペルニクスよ
余りに重苦しい重力の法則から
この銀河系統を解き放て
これらの盲目な衝動から動く世界を
素晴らしく美しい構成にかえよ
 
新しい時代のダーウィンよ
さらに東洋風静観のチャレンジャーに乗って
銀河系空間の外にも至って
更にも透明に深く正しい地史と
豊かな生物学をわれらに示せ


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