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目を覚ませと呼ぶ声が聞こえ 第二章


 
 
  第2章
          
 その朝、受話器を耳にあてていると、西令子がやってきて隣の机に尻をのせ電話が終わるのを待っていた。
「朝から麻雀の話なんて非能率的だと思わない」
「朝っぱらから小姑みたいなことを言うなよ」
「じゃあ、コーヒーブレイクっていうのはどうかしら」
「よし、きた」
 こういう話には即座に応じる。
「ちょっと待ってくれよ。あと一本電話を入れちまうよ」
 その電話を終えると、裏通りにある《バオバブ》という喫茶店に入った。ぼくはいつもカウンターに座る。美人ママがいるからだ。
「ぼくはコーヒー」
「私はアメリカン」
 そして令子は、ぼくの顔をのぞきこむようにして、
「葉狩史郎を紹介してくれないかしら」
「原稿をたのむわけか」
「そうなの」
「無駄だな。彼は書かないよ」
「そんな感じね。でも一度会ってみたいの。すごい魅力を感じるの」
「彼は言葉の革命家なんだ」
「詩人というよりも、ありとあらゆる可能性をはらんだ岩盤という感じじゃない」
「岩盤とは名言だな。そんな男だよ」
「あれだけの世界を言葉だけによってつくりだすエネルギーって大変なものだわ」
「だからあの男は危険なんだ。女に手をだすのも早いんだぜ」
「危険な男性って魅力的なのよ」
 彼女の目がきらきらとひかっている。真っ直ぐにものをみつめ、真っ直ぐに突き進んでいく目だった。
 葉狩史郎に会ったのはもう六年前になる。ぼくの提案した「若き予言者たち」という大時代的な企画が採用され、怪しげな人物を五人ほど逮んで紙面を飾ったことがある。星占いの女性を登場させ日本の運命といったものを語らせたり、前衛舞踏家に肉体と精神の融合と分離というわけのわからぬ話をさせたり、いまふり返ってみてもやっばりゲテものだったという思いがする。
 そのなかにたった一人だけ語る言葉にずしりと重い生命がかけられているような人物がいた。それが葉狩だったのだ。彼だけが怪しげな雰囲気をもたぬ本物だけが放つ光のようなものをもっていた。そのとき彼は三十を二つか三つでた年齢だったが、すでに十冊の詩集を世に送りだしていた。こう書くと名の売れた詩人を連想するが、その頃はまったくの無名で、その十冊の詩集というのはいわゆる自費出版というものだったのだ。金に不自由しない人間のやることだったらだれも驚きはしないが、葉狩の生活といったらそれこそ赤貧洗う如きで、そんな生活をしながら一円の金にもならぬものに、稼いできた金のほとんどを注ぎこんでいく生き方というのはやはり驚き以外のなにものでもなかった。
 彼は詩を書くことは勿論、それを印刷製本して出来上がったものを売りさばくという一連の過程すべてふくめることによって、創造活動は完結すると考えていた。一つの創造は一個の煉瓦のようなものであり、その煉瓦を積み上げれば言葉の砦になるというのだ。十冊の詩集がいったいどんな砦を築き上げたか、そのことが知りたくて彼の部屋を訪ねたことがある。阿佐谷のごちゃごちゃと家が立込んだ路地裏に建つ木造のアパートの一室に、彼のつくった『銀河舎』があった。
 四畳半ほどの暗い、足の踏み場もないほど種々雑多なものがころがっている汚い部屋で、ドアを開いた一瞬、ゴミ集積場かと思った。そこが葉狩のつくった言葉の砦といったものだった。彼は詩人と呼ばれることを嫌い、むしろ言葉の農夫とでも呼んでもらいたいということをしばしば口にしたり書いたりしている。実際、彼は詩人という肩書きではとらえることができなかった。履歴だけをみるならば地下水路をドプ鼠よろしく、あちこちをはいずり回っているようにみえるし、人によってはなにやら地獄の階段を上がったり下だったりしているようにもみえる。
 芸術家の修行時代は苦難に満ちたものであり、逆境こそ最大の試練とばかり四苦八苦しながら創造を続けるものだ。しかし彼のすさまじいばかりの転職、例えば板金工から風呂屋のボイラーマンになったり、トラックの運転手をしていたかと思うと、いつの間にかソープランドのマネージャ一になっていたりで、すさまじい限りなのだ。それは青白い文学青年たちが、活字のにおいのする職場だけを選んで歩く生き方と本質的に異なっている。葉狩は意識的にこの世の最下層、光のあたらない暗い世界を渡り歩こうとしているのだった。
 彼の長編詩のなかに「おれはスパイ」と題する一編がある。〈おれは人生のスパイ〉〈卑劣な意志に冷酷なおれの目に僧悪を抱く〉。しかしそこは戦場であるならば〈おれは敵を暴きださなければならない〉といった言薬が連なるのだが、彼はいつも戦いの場に身を置いていたのだ。彼はぼくによくこう語った。
「幸福だ、繁栄だと浮かれ騒いでいるが、おれは現代がどんなに深い悲劇を宿している時代かを暴いているんだよ。この現代という時代が、どんなに人間をゆがめてしまったかをね」
 いまでは葉狩の代表作にあげられる《雌犬たち》は、彼がソープランドのマネージャーをしていたとき書いたものだ。よくぞ猥褻文書で摘発されなかったものだと思うぐらい野卑な性的言語が乱発される一万行をこえる長大な詩だった。トラックに乗れば《長矩離走者》というこれまた一万行になんなんとする言葉を書き連ね、チリ紙交換屋をすれば《毎度おなじみのちり紙交換です。古新聞、古雑誌、ぼろきれなどございましたら高級化粧紙トイレットペーパーなどと交換します〉という長ったらしいタイトルをつけた詩集をだしている。この詩はタイトルからふざけ半分の内容が連想されるが、中身は深刻かつ深遠であって、ちり紙交換をしている語り部といった人物が、かつて革命をめざした学生運動の闘士だったのだからいかに深刻かが想像されるというものである。
 地下鉄工事の作業員になったとき《鉄のモグラ》という作品を書き上げた。これは地下数十メートルの地底をくりぬいて鉄とコンクリートでかためていく様子を描きながら、大都会の心臓をえぐろうとしたものだった。そういった現代の暗黒や腐敗の巣窟といったものを描いた後で、「あくまでも高く、あくまでも青く」という副題ついた《鳶たち》という健康な力強い作品を生みだした。これは鳶になったとき書いたものだが、ぼくが思うにはこの体験は彼に大きな転換を迫ったようにみえる。彼の詩はこの作品を契機にして大きく変貌しているからだ。
 家屋どころか、ビルさえも跡形なく打ち壊す鳶という激しい労樹がつとまるだけに、彼の肉体は頑強だった。がっしりしていて森のなかの樵といったイメージを喚起させるし、浅黒い肌は漁師を思わせるたくましさで、およそ詩人らしくない風貌なのだ。彼の詩もまたそうだった。
 詩というものは例えば射撃にたとえれば、一発一発慎重に引金を引くのだろうが、葉狩の詩はいたるところ盲減法に乱射する機関銃如きもの。形式や規律などおかまいなしで、ただもう言葉、言葉、言葉なのだ。だれしも彼の豊壊な言薬の洪水に舌を巻くにちがいない。蓄えている語彙は無尽蔵であり、詩を書くとは彼のなかにある言薬の弾薬庫に火を投げこむことではないかと思わせるほどだ。
 本にするだけの金をつくると、さっさと仕事を投げだして書きはじめるが、その間わずかニカ月か三カ月。仕事に就いていたときスケッチめいていたものができていたにせよ、わずか二、三カ月で一万行にも及ぶ長大な詩を一気呵成に書き上げてしまうのだ。このエネルギー、この生命力はいったいどこからくるのだろうか。ああでもないこうでもないと、書いては消し書いては消し、一年間にわずか数百行程度の作品しかできない世の多くの詩人を思うとき、葉狩という男は詩人という範疇ではとらえられない何か桁外れの人物にみえる。
 たしかに彼のなかでなにかが爆発するのであって、それはもう生の過剰、生の爆発としかいいようがなかった。爆発が完了し書き上げたものを町の印刷屋に投げこむと、次の標的めざして出撃していくのだった。
 彼は自らを言葉の農夫と名づけたが、農業にとって最も大事なのは土であり、肥沃な土地にするためにかつて農夫たちはさかんに落葉やら糞やら小便やらで醸成させた堆肥を撒き散らしたものである。それと同じように彼がこの世の底辺に、しかもなにか後ろ暗い仕事に就くのは、彼のなかの言葉の大地といったものを豊かにするためだったようだ。
 彼の蒔く種が腐ったもの汚れたもので成長していく。穂が色づき実りの秋がやってくるとさっさと刈り入れる。売れようが売れまいがそんなことはどうでもいいことだった。彼にとって必要なことは書くこと、そしてそれを世に送り出すことだった。一冊一冊の本が必ず言葉の砦をつくると信じていたその意志と確信、それは農夫のものだった。たとえ嵐や大洪水が聾いかかろうが、旱魃や冷害に苦しめられようが自らの土地にしがみついている農夫たち。彼はまことに言葉の農夫だった。
 彼の詩を読むたびにいったい彼の詩はどこからきたのだろうかと思うのだった。彼の詩は日本はおろか西欧の詩人たちの系譜にもない一種奇形児のような趣があり、現代詩の新しいタイプなのかと思ったりするのだが、ある現代詩人に言わせると、葉特の詩は古色蒼然としていて、現代語が大量に乱発されているわりには、中身はいたって単純だというのだ。
 なるほど何度読んでもさっぱりわからぬ世の多くの現代詩にくらべたら、葉狩の詩は単純だった。巨大な鉄の王国や成金帝国を描いたが、山や川や湖や海や、そこに生い茂げり、咲き乱れる、木立や草や花のにおいがした。大都会の巣窟や暗黒を描いたが土のにおいがした。彼のいくつかの長大な詩を読んでみると、たった一つのことを繰り返し繰り返し歌っているように思えるのだ。
 人間は土に帰らなければならない、もう一度自然に帰らなければならない、と。これは古い思想だった。人類が文明のなかに紛れこむとききまってあらわれる古典的な思想だった。もしこれが当たっているなら、彼の詩は古臭く単純だという非難もまた当たっているということになる。
 しかし彼が試み、彼がめざしているものは単純ではなかった。葉狩は現代という複雑な時代に紛れこんでしまった日本と日本人を、言葉の力によって自然に帰そうとしていたのだ。ぼくが思うには現代詩と彼の詩との決定的な乖離はここにあると思うのだ。葉狩の作品はどれをとっても一大交響曲一大叙事詩を思わせるが、それは言葉に対する絶対的な信仰と忠誠がなければならなかった。
 もはや叙事詩など遠の昔に放擲してしまって、いまや逆立ちしたって書けなくなった現代詩人たちは、葉狩の詩がもっている叙事詩や劇詩を思わせる物語性を単純であり古臭いと攻撃する。しかしその攻撃は実は彼らの哀退と彼らの言葉の衰弱を物語っているように思えるのだ。現代詩のあのただならぬ難解さ。なにか言葉というものを拒否しているような晦渋さ。それはただひたすら現実から逃げようとしているようにみえる。そしてそれはただひたすら言葉から逃げようとしていることではないのか。もしそうであるなら現代詩人たちから浴びせられる非難と攻撃は、葉狩にとってはまことに喜ぶべきことであったかもしれない。現代詩というものは彼に言わせると〈青自き炎、消えいく火〉だったからである。
 あるとき例の四畳半の〈銀河舎〉で彼の思考を根掘り葉掘りたずねていると、彼は薄っぺらなガリ版刑りの小冊子を取り出してきた。二十ぺ一ジにも満たぬその小冊子の表紙には《賢治とホイットマン》と書かれていたが、これが葉狩の出発点だったようだ。中学を出て実社会に入った葉狩は勉強がしたくてたまらなくなって夜間高校に通う。そこで村田良吉という若い英語教師に出会うのだが、自ら詩を書いていたその教師は葉狩にしきりに詩を書くことをすすめたらしい。
 そして彼が六年もかかって定時制高校を卒業する年に葉狩に宮沢賢治論を書かせ、自身はホイットマン論を書いて一冊の文集にした。それが《賢治とホイットマン》だったのだ。その小冊子を持ち帰り一読したが、その村田という教師が書いたホイットマンにいたく啓蒙され、ぼくもはじめてホイットマンのあの長大な詩「草の葉」をかいまみたのだった。「草の葉」をのぞいてみると、葉狩の詩がよくわかるようになった。彼はこう言ったことがある。
「日本にはぴこるのは常に亜流だよ。ポードレールの亜流、荒地の亜流だ。だったらどうしてホイットマンの亜流が生れなかったのだろうな。もしかしたらおれは六十年も前にすることをいましているのかもしれない」
 そしてまたこうも言った。
「賢治は詩人なんかじゃなかったんだ。彼は革命家だったんだよ。雨ニモ負ケズという詩がいまだに彼の全身を隠しているが、あの詩ほど彼を誤解させるものはない。彼は革命家であってね。言葉という鍬で人間と世界を変革しようとしたんだ」
 
 葉狩と出会ったころ、ぼくはしきりに短編小説といったものを書いていて、いつの日にかペンでこの世に立とうという野望に執着していた。だから彼に会うのはとても刺激的だった。とくに彼のグループが小さな喫茶店をかりきって行う朗読会には欠かさず出席したものだ。彼はもの静かな男だった。およそ人と争ったことなどないと思えるような温厚な人間だった。どんな激論になっても決して怒りにとらわれず、まわりで起ったことすべてつまらぬ小さなことだというふうに飲みこんでしまう大きな抱擁力をもっていた。
 彼にまつわる逸話というものは数かぎりなくあるが、そのなかの一つにあるときある安酒場でチンピラだか酔っぱらいだかにからまれて葉狩がなぐり倒されたことがあったらしい。地面にころがった彼は口から流した血をぬぐいながら立ち上がると、ちょっと笑ってもう一発なぐってくれとでも言うようにもう片方の頬をつきだしたらしい。するとその酔っぱらいだかチンピラだかはなにを思ったのか急にひざまづき、頭を地面にこすりつけてしきりにわびを入れたらしい。なにやら十八世紀の小説に登場してくる謎めいた人物になってくるが、それほど葉狩は争いから遠い人間だったのだ。
 ところが彼の詩となると一転して怒りの火で燃え立っている。深く激しいその火に焼き焦がされないために、詩を書いているようにも思えるのだった。そんな激しい怒りをもった男が実はもの静かな争いを好まぬ人間だったとしたら、いったいどこに彼の実像はあるのか。
 そういぶかるのはもっともだが、大きな人間はいつもとらえがたいものなのだ。彼は実に魅力的な人間だった。小さく打てば小さく響き、大きく打てば大きく響くたとえのごとく、彼に全身をかけてにじり寄っていくと、その底しれぬ大きさや深さにぐいぐいと引きずりこまれていくのだ。彼がまだ無名だった頃でさえも彼の発行する詩集は二、三百部はさばけたという。そのころから彼には沢山のファンがいたのだった。女性関係もまた華やかでいつもおれは四、五人の愛人がいると広言したほどだった。
 この魅力的な男からぼくが離れてしまったのはもう三、四年も前だったが、そのころからじわじわとマスコミにあらわれてきた。ようやくマスコミは彼の巨大な魂の一部を知ったということだった。いまでは葉狩史郎という名はマスコミの片隅に独特のひかりと響きをはなって存在していた。

 日曜日の夕方、渋谷のスナックバーで令子がくるのを待っていた。二階のテラスふうの窓から遊歩道を流れる人の波をながめながらビールを飲んだ。人の波をながめるのは楽しかった。男が通り、女が通る。失恋した女が通り、ふられた男も通る。人生に疲れた男も通るし、恋に浮かれている女も通る。さかりのついた雌馬といった女たちが通るし、飢えた男たちがぎらぎらした目をあたりに投げながら通っていく。
 令子はいつもはジーンズ姿でいまだ大学生といった雰囲気なのだが、この日はなにやらひどくめかしこんできた。紫のひらひらしたスカートがひどく色っぽかった。
「どうしたんだね。お見合いでもしてきたのかな」
「お見合いをしなければいけないのは実藤さんでしょう。はやく片付かなけれぱ売れ残っちゃうわよ」
「大丈夫だよ。この世には若い女はいっぱいいるし、令子だっているわけだし」
「なあにそれ。実藤さんって私に恋していたわけですか。それじゃちょっと考えなければいけないわ」
「どんなふうに考えるんだ」
「もちろんどんなふうにお断りするかですよ。相手を傷つけないように断るのって意外とむずかしいのよね、これが」
「なにを言いやがる。ぼくは絶対に令子なんかにプロポーズしないよ」
「そんなふうにはっきり言っちゃいけないと思うわ。この人はいつ私にアタックしてくるのかなという危険なスリルがなけれぱおもしろくないでしょう」
「まったくもっておめでたい話だな」
 サラダ屋で軽い食事をとって、葉狩の朗読会が行われる《十四世紀》という店にむかった。その店は太い柱をむきだしにした山小屋ふうの大きな居酒屋だった。いまはテープルがすべて取り払われていて、そっけない長椅子がずらりと並び、もはやすきまもないほどその長椅子は人で埋っていた。ぼくたちのあとからもどんどん人は入ってきて、立ち見の客でまわりの壁がみえなくなるばどだった。

 六年前はじめて葉狩の朗読をきいたときの腹立たしさがいまではなつかしく思い出される。詩というものは声にすることによって生命が吹きこまれると主張する彼は、新作を発表するときいつも朗読会をひらくのだった。あのころ彼らのグループは代官山にある喫茶店を借り切ってその朗読会や会合をひらいていた。十五六人も入ればもう座る椅子がないという小さな店で、そこで《長距離走者》という一万行にもおよぶ詩の朗読をきいたのだった。
 長距離便のトラックが東京を出発する冒頭を読みはじめたのが七時ころ、それから朗読は延々と続き、あまりにも長大なので途中あちこちはぶきながらも目的地の青森あたりにさしかかったときには、時計の針はもう十一時をまわっていた。その夜なんと四時間余にわたって一大絵巻をくりひろげたわけだが、ぼくはその間なんども席をけって飛びだそうかという怒りにとらわれた。どんな面白い話でも一時間ぺらぺらとやられてはうんざりするものだし、我慢強い人間でも二時間拝聴すればもういいという気になる。そのあたりが人間の限界というものであろうが、その限界を破ることさらに二時間余、まったくの気ちがい沙汰としか言いようがなかった。だれ一人として面白いといった表情できいている者はなかった。
 痛くなった尻をしきりに動かしたり、拷問の苦しみだと私語したり、どうでもいいと言わんばかりにいびきをたてて眠りだすのもいたり、ある男などは口をぽかんとあけてなにか信じられぬものが、いま目の前でくりひろげられているといったふうにながめていた。要するにだれもが早く終わってくれることを熱望していたのだが、そんな熟望などとんとおかまいなしの葉狩はたんたんと読みすすめていく。苛立ち腹立つぼくはなんという饒舌だ、これは言葉の垂れ流しであり、言葉の公害だと内心しきりに毒づいていたものだ。朗読が終わったとき、バラバラと気の抜けた拍手がおこったが、それは彼の朗読にたいするものではなく、遂に終わったことにたいする、そして耐えがたきことを耐えぬいた自分自身への拍手であった。
 しかしいまではこの詩がぼくの愛読書の一つになっているのだからおかしな話だった。ふと大切なものを思い出すようにこの詩をとりだすのだが、あのときわからなかった彼の壮大な試みがよくわかるのだ。一人の青年が十ニトンという巨大トラックを駆って青森にむかうのだが、そこは長矩離便トラックの目的地であって、青年自身はいったいどこにむかって走っているのかさっぱりわからないのだった。だれもが走っているから走っているのであって、立ち止まることはおそろしいことだった。青年はただ暗黒の真っただなかを突進していく以外にないのだ。そんな青年の意識の流れと地響きをけたてて幕進するトラックを、ちょうどパレツトにあらゆる絵の具をしぼりだしてかきまぜたような調子で描いている。それはもう言葉の激突、言葉の洪水、言葉の爆発だった。そういう混乱の渦を蔵しながら一万行はまるで大河のようにとうとうと流れていくのだ。ある評論家はこの長編詩を自馬ならぬ巨大トラックを駆る現代のドン・キホーテであり、壮大な現代の叙事詩であると絶賛した。

 場内が暗くなるといつの間にか舞台にはギターを手にした若者が座っていた。その男は巧みな語り口で客を笑わせながら甘い歌を廿い声で五六曲うたった。その男が消えると、突然舞台に上手のほうから全身黒づくめの男があらわれて大声で怒鳴りはじめた。みんながびっくりしてその男のほうをみると、今度は下手のほうで自装束の女が金切り声でわめきたてた。黒い男と白い女は思わせぷりな文学的哲学的駄酒落といった台詞をぷつけあったが、ぼくにはちんぷんかんぷんだった。
 ガリ版刷りのプログラムをみるといま売り出し中の女流詩人の手になる《黒と白の混成曲》とあった。なるほど千円の入場料をとってこれだけの人間を集める以上、ジュースや水割りを配り、歌でうっとりさせ、駄洒落を飛ばして笑わせるという演出も必要なわけだ。葉狩史郎はいまや新しい文学の旗手であり、彼がひきいる文芸運動は三百人ちかい聴衆を集めるほどに興隆したのだ。だからといってこれほどのサービスが必要なのだろうか。代官山の小さな喫茶店でほそぽそとひらかれていた朗読会がなつかしかった。
 しばしの休憩があって、葉狩が舞台にあがってきた。相変わらずどことなく薄よごれていて、ちょっとみるといままで道路を掘り返していたといった印象を与える。なりふりに一向に頓着しない男だった。いつもざっんばら髪に不精髭。おまけに着替えるのが面倒だといわんばかりの着たきり雀なのだ。
 今日は馬鹿に暑いじゃないかといってジャンバーを脱いでセーター姿になったが、ぼくは思わずにやりとしてしまった。そのセーターに見覚えがあったのだ。ということはあれかちずっとそのセーターを着つづけていたことになる。ジャンバーを椅子の背にかけて座ると、はにかむような笑顔をみせて場内を見渡した。そして静かにまるで二人で話すように切り出した。彼は雄弁家ではなかった。むしろ訥弁で、一つポシャリまた一つポシャリと石を池に投げこむように話すのだ。今夜発表するものは今後一年間に渡って書き続けるものの序論をなすものだと言ってこう続けた。

「革命という言葉はいまや死に瀕してしまったが、こいつをそんなふうにしてしまったのはさんざんいたぶったからでね。よってたかってそいつを空手形にしてしまったわけだ。しかしこいつを使わなければならないのは、言葉がそこまで迫いつめられているからで、それは人間がそこまで追いつめられているということになる。おれがまたこんなことを吹聴すると、また葉狩のおおぼらがはじまったと嘲笑されるけど。まあ、おれの言葉なんていうのは嘲笑される程度のものだけど、しかしやっぱり、言葉というものをこの地上に打ち立てるには、本物の鍬をこの地上に打ち下ろさなければならないと思うようになったんだ」
 
 彼の朗詩がはじまった。それはいままでぼくが聞いたり読んだりしたものとは全然異質のものだった。冒頭〈グーテンベルグは悪魔の子だった。胎児は左手に針をにぎって産道をでてきたのだ〉と言ってグーテンベルクその人の略歴といったものを語っていった。後に革命的発明とされる印刷術は実は葡萄絞り機に着想をえたという話や、その印刷術によって功成り遂げたとたんにフストという弟子に裏切られて、晩年は盲目となり浮浪者同然の身でこの世を去っていったというエピソードを比喩や警句をまじえて語っていった。後で気づくことなのだが、葉狩はこのグーテンベルグを〈言葉の腐敗のはじまり〉〈言葉の敗北の原点〉として象徴させているのだった。

 なんでもその当時は金になる印刷物といったら聖書を刷ることしかなく、グーテンベルグとその一派は〈大量に聖書を刷りあげて〉いく。彼はなぜ盲目になったのか。彼は〈みてならぬものをみてしまった〉からなのだ。〈神の言葉にぬるぬるとまぎれこみなだれこんでいく〈悪慶〉を。大量に印別された聖書のなかに〈悪慶は放たれた〉のだった。ぼくたちはこの謎の命題を追いかけて葉狩に目をこらさないわけにはいかなくなった。彼は見事にぼくらを罠におとしいれたのだ。なにやらスリラー小説を読むおもむきで、こうなると徹夜したって犯人をあばいてやろうという気になる。
 
 活版術の発明は人類にもう一つの暗黒大陸をあたえた。〈昼なお暗き森林〉〈海のような大河〉〈砂塵吹き荒れる死の砂漠〉。それは驚くべき言葉の大地だった。〈人間は広大無限のもう一つの新大陸を発見した〉のだった。この未開の荒野をめざして言葉の〈探検家や開拓者たち〉が躍りでていく。そしてそのあとに言葉の〈商人や農夫や大工たち〉が陸続と渡ってくる。その現象はヨーロッパ人たちがアメリカ大陸を発見したときの、あるいは石油というエネルギーが無数の工業や産業を産みだしていく興奮と情熟にそっくりなのだ。言葉は〈燃えるごとき興奮と情熱〉のなかで新しい世界を生みだしていく。〈疑いを知らない時代〉だった。たとえそこが〈不毛の荒野だろうとも必ず収獲の秋〉がやってきたのは、彼らが健康な農夫であったからだという。なぜ彼らは農夫のように健康でありえたのか。〈いったいこの健康な精神ばどこから〉きたのか。

 それは言薬というものがまだ〈人間の手のなかにしっかりと握られていた〉からなのだ。言葉はまだ人間の手から離れていなかった。〈だが、なんということだ〉。あのとき〈悪慶は聖書のなかにまぎれこんでいた〉のだった。彼らの手にする聖書のなかに舌なめづりをした悪魔が次第に〈むくむくとその野望の鎌首を〉もたげはじめていく。それは人間がいくつもの〈言薬の塔〉を築き上げていったそれと同じ速度で〈悪慶もまた巨大に〉なっていくのだった。

 この悪慶こそ今夜の主役だった。ひたひたと不気味な悪魔が打ち寄せてくる。いったいこの悪慶とはなんなのだろうか。この悪魔はいつ姿をみせるのだろうかとぼくらの思考を喚起するように仕組んである。ぐるぐると渦をまいて精神の深みにおりていくような知的戦慄というものさえ感じさせるのだった。印刷術の発達とともに次第に言葉は〈人間の手から離れて〉いく。人間の言葉であったものが次第に〈奇怪なもの〉に変化していく。言葉というものの〈意味や成分〉が変質していく。言葉が一人歩きはじめていく。〈言葉が言葉を発見〉し〈言葉が言葉をつくりだして〉いく。こうして次第に言葉は〈人間の手から離れていく〉のだった。それこそ悪魔の目的だった。遂に〈悪魔は巨大な意志〉をむきだしにした。

 悪慶の跳梁がはじまる。すさまじい速度で巨大になっていくのだが、その怒涛の進撃といったものを葉狩はグロテスクに描きだすのだった。悪慶を擬人化して〈おれは若い男が好きだ。おれはけつの穴からはいる〉とやったり〈若い女はやわらかい。女たちの子宮はおれの寝床〉とやったり〈おお、なんという香ばしい匂い。湯毛のたつ糞〉をぽいと口のなかにいれたりで汚いかぎり。こういう汚い描写が延々と続くので気の弱そうな女性など耳をふさいでいるほどだった。汚れたものグロテスクなものを描くときの彼の豊穣な語彙にはいつも舌を巻く思いだが、なにやらこのときばかりは悪趣味のように思えた。

 こうして〈人間を喰いちぎりながら〉巨大になっていく悪魔は〈二つの妖怪〉になっていく。これこそ〈全世界全宇宙を征服するための最強の弟子〉だった。この二つの妖怪が互いに競いあいながら巨大になっていく様子を、こんどはいかにもその舞台が現代であることを語るように、経済用語やら技術用語を乱発しながら描きだしていく。現代という時代はこの二つの妖怪に牛耳られた世界であって、人間はもう手も足もでないただの奴隷に成り下がってしまった。この〈二つの妖怪は敵なのか味方なのか〉と葉狩は静かに問いかけた。人間たちにふとこれら妖怪は〈文字通り化け物かもしれない〉という疑問がよぎることがある。しかし〈この世をきらきらと飾り〉たて〈生活をくさるばかり豊かに〉している妖怪たちが化け物であるはずはなく、これはどうみたって人間の味方なのだと思うのだった。人間の言葉が〈やつらの正体を暴きだすことができないほど〉やつらの餌食にされているからだった。

 言葉はいよいよ肥大化していく。とりわけ二十世紀にはいってから異常なばかりに肥大化していった。〈経済用語、銀行用語、コンピューター用語、通信用語、経営用語、統計用語、経理用語、産婦人科用語、電子工学用語、天文学用語、原子力用語、電波工学用語〉と葉狩はうんざりするほど何々用語をならべたてた。次から次へとく新しい言葉が生れ体系化されて〉一つの塔になっていく。一つの塔が肥大化してもはや支えきれなくなると、また新しい言語の体系がつくりだされていく。こうして陸族と新しい言語の塔が建設されていく。しかしそれは言葉が成熟したのでもなければ豊かになったのでもなく、異常なばかりに肥大化された言葉の〈動脈硬化と糖尿病の末期現象〉が刻一刻と近づいていることなのだ。その危機を覆いかくそうと新しい言葉は〈合理化され組織化され数字化〉されて〈大規模に再構成〉されていく。それは一見新しい思想と理論によって組み立てられた新しい言葉の塔のようにみえる。しかしそれこそ〈全世界を支配せんとする悪魔の思想〉だったのだ。あの〈グーテンベルグの聖書のなかにまぎれこんでいた悪魔〉は、現代という時代に〈はじめてその巨大な意志とその全貌を〉あらわしにした。〈巨大なおそるべき野望のたくらみをもった悪慶〉がいまありとあらゆるところでく攻華と進撃の猛威〉をふるっている。それなのに人間はこの妖怪の正体を暴きだす言葉さえないのだ。

 たんたんと朗読していく葉狩もこのあたりになると、やや早口になってなにかに迫い立てられるように語っていく。それがいかにも終楽章を思わせた。人間の言葉は力を失なってしまった。この悪魔の正体をあばくことさえできないのだ。もう手遅れかもしれない。もはやなにをしてもだめなのかもしれない。たった一つの石ころで巨人を倒した〈ダビデの力を借りてきたって〉だめなのかもしれない。だが〈おれたちの言葉である日本語には力がある〉。〈日本語はあらゆる表現が可能〉なのだ。葉狩は最後の言葉をかたずをのんで見守る満場のなかに放った。〈日本語は抵抗の言語に〉なりえるのだ。〈未来は切り開いていくひかりはない。しかしだからこそ言葉。言葉こそ世界のはじまり。言葉を奪い返さなければならない。人間は再び言葉をその手に握りしめなければならない〉。

 熱い拍手がいつまでも続いた。それはたしかに三百人ちかい聴衆の心を熱くした拍手だった。
 道玄坂のバー《セゴビア》で興奮さめやらぬ令子は、
「すごいアジテーターね」
「うん、あいつは人生のアジテーターだ」
「言葉を奪い返せって言ったけど、私たちって雑誌用語という種類の言語の生産音かもしれないわね。人間の言葉ではなく」
「ただ売るための用語か」
「ひたすら締め切りを埋める言葉の生産者ってところ」
「うまい。その通りだな」
 久しぶりに会う葉狩になにか罪の意誌を感じるのは、ぼくが自分の言葉を書くという行為から逃げ出したからかもしれなかった。雑誌の原稿を埋めることと短編小説を書くということは全然別の行為だった。短編小説はなにかひたすら自分をしぼりだしていかなければならないのだ。そのつらい行為をぼくは投げ出してしまったのだ。
「ねえ、実藤さん。二つの妖怪っていうのなんだかわかった?」
「あれは象徴なんだろう。二つでも三つでもよかったんだよ」
「あら、あれは二つですよ。二つでなければだめなのよ」
「どうしてなんだ?」
「二つでなければ論理として成り立たないでしょう。あれは機械と機構という妖怪なんですよ」
「そうかな」
「そうですよ。巨大な機械を動かすために機構を巨大にしなければならない。機構を巨大にするために機械を巨大にしなければならない。この二つの巨人の戦いといったものが加速度的に現代という時代を巨大にさせてきたということなんだと思うわ」
 なるほど葉狩は現代社会の幹であり鉄骨である機械と機構を打ち倒せと語ったわけか。するとこの世に宣戦布告したということになる。
「彼は一年かけて書き続けると言っていたね」
「言葉ではなく、本当の鍬を打ち下ろすためだとも言ったわ」
「すると一年後になにかがはじまるというわけだな」
「武器を取って立ち上がるということかしら」
「彼は右の頬を打たれたら、左の頬をという主義だよ」
「主義を変えなければならなくなることだってあるわ」
 いったいなにをはじめるというのだろうか。しかしぼくにはわかる。なにをはじめたってあえなく敗れていくだろう。現実は圧倒的なのだ。二つの妖怪とやらは巨大なのだ。もしそれが本気であればあるほど粉々に吹き飛んでいく。しかし彼はひたすら自分の道を歩いている。ただ自分の言葉を純化するためだけに歩いている。あの男はひょっとすると本物の予言者かもしれないとぼくは思った。


 
 


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