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ぼくが編集長ですか、ぼくにそんな力があるんでしょうか

 都会生活九月号を校了にした次の日に、ぼくは一人新宿の高層ビルのなかに居を構えている古田事務所をたずねた。三十階にあるその部屋は、オフイスというよりもモデルハウスの居間のようなレイアウトをもった部屋だった。なるほど事務机が並んでいたが、それよりもソファーや椅子がとりかこむ空間が部屋の半分以上をしめていた。そこでいかにも雑誌づくりに群がる人間をにおわせる風貌をした五、六人の男や女たちが陽気に話しこんでいた。
 ぼくの名を告げて古田をたずねると、気持ちのよい笑顔をたたえたすらりとした女がやってきて、
「いま古田は韓国にいっているんですよ」
「いつもどってくるのですか」
「五日後の予定なんです。でもあなたのことはうかがっていますよ」
 彼女はぼくを奥のほうに連れこんで椅子をすすめると、
「まずこれを読んでいただけますか」
 と言って一通の封書を手渡した。それは古田がぼくにあてた手紙だった。太い文字の万年筆で書かれたのびのびとした字がおどっていた。
《君が作りたいと思う雑誌の企画プランを書き上げること。できるかぎり雄大な規模が望ましい。その企画を着手するための予算等数字の裏打ちがあればなおベター。期間は二週間。その間、出社する必要なし。どこで執筆しようと自由。それに要する取材費や旅費等は請求すること》
 これはいったいどういうことなのだろうと何度も読み返していると、すらりとした女性がコーヒーをいれてもどってきたので、ぼくはその手紙のことをたずねてみた。
「ここに出社する必要なしと書かれてあるけど、どういうことなんでしょうね」
「それはそのレポートをどこで書いてもいいということですよ」
「どこでもいいって、ハワイでも、さらに遠くアメリカにいってもいいってことですか」
 と冗談で言ったのだ。すると、
「ええ、かまいませんよ。パリでもニューョークでも」
「それに要する費用は請求することって書いてあるけど」
 それもまた冗談で言ったのだ。まさかパリやニューヨークに渡る費用が出るわけがないのだ。そう思ったのだ。するとまた、
「ざっとした見積りを書いていただければ、お金はすぐに出ますよ」
 とまるで下田か熱海までの旅費を支払うような軽い調子で言ったのだ。
 この唐突にして、桁のはずれた話に、しばし呆然となりながら、これはひょっとしたらなにか罠といったものではないかと思った。ぼくを抹殺するための、邪魔者を巧妙に消すための罠に。迷いこんだ霧のなかから抜け出そうとその魅力的な女性と小一時間ほど話しこんでも、狐につままれたような気分から抜け出せなかった。
 結局、たっぷりとした旅費を受け取り、上野駅から特急に乗ったのは三日後だった。予定を一切たてずに気ままに、名もない町や村や温泉をのんびりと訪ねながら、そのレポートを書きついでいこうと思ったのだ。北へ北へとむかう旅。青森を渡って北海道にでる。さらにその地を北へ北へとめざして宗谷岬に立つ。一度そんな旅がしてみたいと憧れていたのだ。レポートを書き上げるという仕事があったが、二週間もそんな気ままな旅行ができるなんて、なんだか天が与えてくれた祝祭日のような気がした。
 小岩井農場を最初の宿にすると、遠野に出て、ぐるりと海岸をまわり久慈の旅館に泊まった。それから青森に出た。そこから連絡船に乗って、北海道に渡り、かねてから一度訪ねたいと思っていた積丹半島で一泊した。そこまでですでに六日もかかっている。毎晩その地の地酒と土地の料理をついばみながらの旅だった。しかし肝腎のレポートのほうはまるではかどらない。書く意欲がわいてこないのだった。旅をしながらそれと無縁のレポートを書き上げる芸当などぼくにはできないことだった。
 やはりものを書くには、一か所に立ち止まって言葉を掘り起こしていかなければならないのだ。そう悟ると最後の目的地である稚内まで飛行機で飛び、青いオホーツクの海をみおろす小さな旅館に逗留した。ところがそこでも書けないのだ。イメージがすぐに底をついてしまう。美しい自然、海の幸、山の幸が並ぶ料理、それにうまい酒と心地よい温泉。それらはイメージを奪いとっていくものだった。人を創造へとかきたてるどころか、むしろそれを削いでいくのだった。
 ぼくはやっと気づいたのだ。東京だった。ぼくのあの安アパートだった。そこでしか書けないのだ。そう悟った次の日に、飛行機を乗り継いで、東京に戻ってきた。あと三日を残すばかりとなっていた。もともと追いこまれなければ書けないタイプの人間だったが、しかし東京では水をえた魚のように生き生きとイメージがわきたってきて、さらさらとペンは走った。うんざりするばかりに散らかった狭いわがアパートで、自由ケ丘や渋谷の喫茶店で、どんどんペンは走り枚数がふえていく。「新雑誌創刊の一試論」と題した三十枚ほどのレポートを熱病にかかったような興奮のなかで一気に書き上げてしまった。
 古田と会ったはその日の夜だった。吉田はぼくをそのビルの最上階にあるレストランに連れていった。
 窓際の席に着くと、たずさえてきたぼくのレポートをテーブルの上にのせてぱらぱらとめくっていたが、
「こいつはあとで目を通しておくよ」
 と言ってかたわらにおしやった。なんだかそれはどうでもいいと言わんばかりだった。その席から光が無数にまたたく東京の夜景が見下ろせた。眼下に広がるその光景に目をやりながら吉田が歌うように言った。
「ここにはありとあらゆるものがある。悪徳があり、野望があり、犯罪があり、成功があり、暴力があり、倒産がある。ありとあらゆる職業があり、そこにくらいついている蟻の大軍が右往左往している。恋愛があり、情事があり、離婚があり、殺人だってある。こぎれいなマンションのかたわらにおそろしく汚れた木造のアパートが立ち、きんきらきんの高層ホテルの下にあやしげなピンクのラブホテルが立っている。安酒場があるかと思うと王宮のようなクラブがある。この都会の麻薬を一度味わうとなかなかそこから抜けだすことができないものだ」
「そうですね」
 とぼくはおだやかな気持ちで相槌を打った。この男に抱いていた敵意はもうすっかり消えていた。この前はぎらぎらと野望にひかっていたような古田の視線も、この夜は別の印象を受ける。
「明日、これからわれわれの拠点となる所に案内しよう。芝浦の岸壁に立っている倉庫なんだよ。ちょっとした体育館のようにだだ広い建物でね。そこをしばらく借り切ることになっている」
「そこが編集部になるのですか」
「そう。編集部だけでなく製作の機能を全部いれてしまう。スタジオなんかもね。それに公開編集会議とか、トークショウとか、ちょっとしたコンサートもできるような空間もつくる。そこにグッズショップとか喫茶店とかカレーハウスといったものも入れてしまうんだ。その殺風景な倉庫街から、新しい流行の波をひきおこす実験をやってみたいと思っているんだ」
「それは面白いですね」
「君は明日から人間狩りをはじめなければならないな。そこらにころがっている才能じゃだめなんだ。どんなに高いギャラを支払ってもいいから一流を集めるんだ。まずアートデレクター、エデイター、カメラマン、ライターと、これから大部隊の兵隊をかかえるその頭になる七人だね。七人の侍だよ。あの映画の通りだ。あんなふうにして人材を集めてくるんだ。戦いに勝つには一流をそろえなければだめだぜ」
 新雑誌の製作は三チームによって作られるので、スタッフの数が膨大になる。そこで専属の社員は一チーム二、三人にとどめておいて、あとはすべて外部のスタッフで構成しようということらしい。そうすることによって製作コストを節減できるばかりか、より多くの才能をかかえることができるからだろう。三つのうち、すでに二つのチームはほぼ陣容を整えて動きはじめているらしい。一つは上野という四十五になる男が、もう一つは岩動という三十八になる男が、それぞれのチームの指揮をとっているという。そして残るもう一つのリーダーがぼくだというのだ。
「三チームの編集長の年代を、四十代、三十代、二十代とした。まあ君は間もなく三十代に突入だが、まだ二十代だよな。そんなふうに異なった年代の人間をトップに据えるのは、それぞれの世代の感覚や思想やスタイルを全面に出そうというわけだよ。だから君が担当する版は、君の個性を全面に打ち出せばいい。雑誌の個性というのは集団で出来上がるものではないんだ。面白いことに、しかしそれは恐ろしいことでもあるが、たった一人の編集長によってきまっていくものなんだ」
 またもやこの男はぼくを驚嘆させるのだった。あまりのショックでちょっと言葉も出なかった。
「ぼくが編集長ですか」
「そうだよ」
「しかしぼくにそんな力があるんでしょうか」
「情けないことを言うなよ。おれは三十前にすでに三つの雑誌を作っている。もっともいずれも一年ももたなかったがね。しかし三十のときにだした《木曜島》という雑誌は成功した。あれはいまでも続いているだろう。三十ぐらいになるとようやく世界がみえてくるんだな。それまではただがむしゃらに走るばかりだった。みっともなく転倒してはあわてふためいていた。しかし三十を越えると、退くことがわかっていくんだな。さあっと迂回したり、ぐるりと遠回りすることも知っていく。いわば人間がずるくなるわけだがね。しかし現実というものが一筋縄でいかない以上は、おれたちもまた利口に立ち回っていかなければならない。そういうことがわかってくる。ようやく付け焼き刃ではない本物の力もついてくるんだろうな。君もようやく本物の仕事をはじめる年齢にたっしたわけだよ。君の時代がこれからはじまるわけだ」
「しかし百万部を売る雑誌をつくる力なんてぼくにはありませんよ。都会生活はわずか十万部程度でしたし、しかもぼくの担当するページはグラビアだけでしたし」
「おれの目は節穴ではないよ。瀧口さんから君を紹介されて、君の都会生活での仕事を全部見たんだ。君の作ったページのほとんどに目を通してみた。なかなか面白いと思ったよ。なかなか鋭い創造力をもっているし、造形する力もたしかだと思った。君に賭けてみようと思うだけの仕事を君はしているんだよ」
 この男はぼくの敵だった。ぼくは敵の動きを探りだすために放たれたスパイだった。それなのにずるずると崩されていく。なにか大きな力でぐいぐいと引きずりこまれていくのだ。

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