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戦史 2  久保正彰


ヤン・ヴァンデルロースト「いにしえの時から」 

  ヴァンデルローストは、この作品の中で、古きよきその時代の旋律やリズムの模倣をした音楽を書いたわけではない。作品は、あくまで21世紀の音楽として書かれ、ポリフォニーを現代技法の中で昇華させている。同時進行する動きは、曲の始めに近いところで現れるサクソフォン・セクションやトロンボーン・セクション等の各アンサンブルだけでなく、木管、金管、打楽器の別なく、楽器群の組み合わせや速度を変化させながら、手加減のないハイエスト・テクニック満載のスリリングな場面としてつぎつぎ現れる。

 が、それだけではない。コーダに至る直前に現れる、心が温まるような美しいメロディーとハーモニーは、実際にこの曲を聴いた誰もが“必ず涙腺が緩む”箇所と言うほどの安らぎと感動を与えてくれる。この部分では、名曲『カンタベリー・コラール』などと同じ種類の幸福感を体感する人も多いはずだ。そしてコーダ。ここは神に捧げる愛を感じさせるテーマが高らかに歌われ、すさまじいパッションとともにクライマックスへと向かっていく。

 今度のウィンド・オーケストラ版が作られるに当たり、ハープ、ピアノなど多種多彩な楽器が加えられたが、それだけでなく、新曲を書くのと同じぐらいの情熱と時間がオーケストレーションとスコアリングに費やされた。

 実は、完成までの間に『あまりに難しい曲になってしまう』と言って、一時スコアリングが中断された時期もあった。そんな作曲者に対し、『手加減しなくて結構です!』と勇気づけたのが、今回初演を指揮する鈴木孝佳(タッド)氏だった。ヴァンデルロースト、鈴木両氏は、名演との誉れ高いタッド・ウインドシンフォニーのCD『カンタベリー・コラール』以降、厚い信頼関係に結ばれている。
 結果、出来上がった曲は、まさに何年に1度現れるかどうかと言えるほどの、聴きごたえ万点の音楽となった。間違いなく、作曲者の最高傑作の1つである。
(バウンドパワー)

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戦史 2  久保正彰


 この間の新旧の激しい移り変りは、当時の文学作品にも影を落している。キモーンは追放解除後、一たん帰国すると、再び海軍を率いてキュプロス鳥水域にむかったが、四四九年戦没した。その後間もなく上演されたソポクレースの悲劇「アイアース」には、没落の英雄キモーンにたいする追憶の気持がよせられている、という意見もある。ともあれ、劇の後半で船乗りたちを従えた弓兵テウクロスと、重装兵の装い厳めしいアガメムノーン、メネラーオス両将の姿が舞台上で対決し、両将が船乗りや弓兵を奴隷にするぞと威嚇する場面を当時の観衆一般がどのように受けとったか、片や重装兵と片や船乗り軽装兵がアテーナイでははっきりと別個の社会的・政治的階層を示すものであっただけに、劇的緊迫感はいっそう高められたにちがいない。

 また、その劇的対立のあいだを縫って、女神アテーネーの導くところ己れの知と才覚によって解決を見いだしていく知将オデュッセウスの姿にも、新しい民衆指導者の姿が感じられたかも知れない。神話上の題材による悲劇作品に現実の投影をつかもうとすれば、往々にして誤りを犯しやすいけれども、当時のアテーナイの政情を盧れば、文学史家の想像もあながち空論と排しさることはできないだろう。

 じじつ、海洋制覇をよりどころとして生活権獲得の道を急ごうとしていた下層市民を、もとの状態に揺りもどそうとしていた旧派の動きも、なお活溌であったことが知られている。キモーンの追放後、ペリグレースの民衆指導を阻止しようとして旧派の先頭に立ったのはメレーシアースの子トゥーキュディデースであった。トゥーキュディデースという名はアテーナイでは比較的ひんぱんに見られるが、この人物はキモーンとの姻戚関係にあったといわれている所から史家とのつながりも一応考えられる。また現代おこなわれている一説によれば、史家の名はこの旧派領袖にちなんだもの、とも言われている。いずれにせよ血縁関係からいえば、史家はペリグレースよりもその反対党の領袖二代に近い関係にあったことは疑われない。

 政治家トゥーキュディデースは巧妙な政治手段で旧派の結束をかため、主としてペリグレースの経済政策を衝いて失脚を計ったが、ペリグレースは各地へ移民団をおくり、植民地経営権を下層民に分譲し、都市の美化運動、祭典や競技の振興などで民心をよくつかみ、遂に信任投票にかけて逆に政敵トゥーキュディデースを失脚させた(四四三年)。今日なお、その並びない美しさを残しているパルテノン神殿の構築も、このときペリグレースが提案し、着工されたものである。史家は後年ペリグレースをして「われらはいかなる苦しみをもいやす安らぎの場に心をひたすことができる。一年の四季をつうじてわれらは競技や祭典を催し、市民の家々の美しいたたずまいは、日々の喜びをあらたにし、苦しみを解きながす」と語らしめているが、これらはみな史家が少年時代から青年時代にうつりゆく日々とともに目のあたりに実現されていった大アテーナイの景観であったにちがいない。

 しかし変っていったのは、単に町の景色だけではなかった。史家はその生い立ちから想像しても、一般市民の耳にすることができたよりもさらに一そう激しいペリグレース非難の言葉を日常耳にしていたのではないだろうか。それにもかかわらず、神殿や祭典よりもさらに強く、ペリグレースを肯定するものがかれの心のどこかにあったにちがいない。そして長ずるに従って、それがぺリグレースの政策の絶対的な優秀性として考えられるようになったのではないだろうか。それはポリスという生活形態を高め、あらためていく新しい意欲として感じられたにちがいない。

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 思うに、新らしい生活権を与えられ、仕事にいそしみ、何かを次々に作りだし生みだしていく、一般市民の行動憲欲の新鮮さが、三重櫓船を漕ぐ船員たち、神殿の破風を刻む彫刻工たち、港の商工業者たちの言行に漲っていたにちがいない。この力がどこから生れたのか。史家の身近の旧派の会話はこれを圧迫しようとこそすれ、けっして助長しようとする方向を指していなかったろう。かれらは民衆の利権増大がただちに秩序の崩壊と、すべての価値の転変にむすびっくのではないかとおそれ、新しい金こそ社会秩序をおびやかす危険であると考えていたからである。しかしかれらのいう秩序や正義とは、あくまでも物質的な特権の固執ではなかったろうか。

 再び文学作品を例に引くことを許されたい。メレーシアースの子トゥーキュディデースが追放された翌年。あるいは翌々年、史家が二十歳前後の頃、ソポクレースの悲劇「アッティゴネー」が上演された。四四二、あるいは四四一年に公けにされたこの劇の主題はすでによく知られているとおり国にそむいた戦死者の屍を埋めてはならぬと国法を盾に主張するクレオーツと、人間すべてを拘束する不文の敬虔を説くアンティゴネーとの葛藤を劇化したものであるが、クレオーンの措辞、論法は偶然か作者の故意か、旧派の政策論と酷似していることが知られている。これにたいして、クレオーンの国法にてらせば明らかに犯罪者であるアンティゴネーの、不文の法とはなにを指しているのか。作者は主人公に、それは人間が昨日今日取りきめたものではなく、人が人である限り守るべきものとして神が与えたものであり、現世の敵味方のべつなく守らねばならぬもの、と言わせている。

 この高い道徳性、人間の良心とさえ言ってもよいものの自覚は、どこに眼ざめたものであろうか。後年、史家はペリグレースの口をつうじて、「これこそ自由な市民が、新しい秩序を己が内から造りだしていく礎である、われらはこの不文の法をあつく尊ぶ」と言わせている。ソポタレースの主題とペリグレースの葬礼演説をただちに結びつけることは多々誤解を招く恐れもあるが、しかし両者ともに、既成の社会的桎梏を脱してあたらしい秩序を説くとき、物質的な規範ではなく、内面的な道徳的秩序をその基盤におく態度において、期せずして一致している点は認められてよい。またこの一致から、当時の民主主義指導の理念が求めていた真のよりどころを知ることもできよう。

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