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芸術家と共存する街づくりを

小さな一歩だが、世界を転覆させるための一歩を、より鮮明にイメージしてもらうために、写真を植え込んだ。世田谷の「ボロ市」である。この市の歴史はさかのぼること四百年前、安土桃山時代に端を発したらしい。衣類や草鞋のつぎはぎに古着が売買されたからボロ市と呼ばれたようだが、いまでは骨董品からさまざまな雑貨品まで展示販売されている。毎年一月と十二月の十五日、十六日には、七百店ちかい露店が道路に立ち並び、掘り出し物を求めて連日二十万の人々が訪れる一大イベントだ。

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次の写真は「高円寺阿波踊り」である。これは五十年前、高円寺商店街に青年部が結成され、沈滞する商店街を盛り上げようと「高円寺ばか踊り」が誕生した。しかし「ばか踊り」の人気はさっぱりで、何度も存亡の危機に見舞われるが、しかし高円寺商店街は挫けなかった。本場の「阿波踊り」を本格的に学習して、その名も「高円寺阿波踊り」と変えて再出発させると、なんと毎年八月の最終の土曜日曜に開催されるこのイベントに百万人もの人々がやってくるようになった。

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ヨーロッパに飛んで、パリのモンマルトンの丘だ。その丘に芸術の都パリを象徴する広場がある。一人畳二畳ほどのスペースが与えられ、常時百四十人ほどの画家たちが画架を立て、彼らの描いた大小の絵が展示され販売している。画家たちは全世界から訪れる観光客たちのポートレイトを描いたりして、生計を立てている。その広場は画家たちの聖地でもある。その聖地から未来のロートレックが、モディリアーニが、ブラックが、ピカソが、ゴッホが生まれていくのだ。

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そして四点目はわが品川区の荏原中延商店街「スキップロード」である。三百四十メールほどのアーケードをもつちょっとした規模の商店街だった。しかしどの商店も売り上げは下降する一方で、五十年六十年とつづいた店が相次いでシャッターをおろしていく。空になったその建物に新しい店舗が入ってくるが、これがまた一年足らずで去っていく。かつてはそのアーケードには百四十、百五十もの店舗があったがいまでは百を切るばかりになっていた。この商店街の一角にわが「草の葉ギャラリー」は乗り出すことにした。やがてこの商店街に「絵画市」が生まれていくだろう。

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その通りを行きかう人は絵などにまったく関心がなく、路上に立てかけた私たちの絵の前をちらりと一瞥するだけで通り過ぎていくだろう。私たちの絵など売れるわけがない。しかし私たちの絵画の出店は社会に静かな波紋を引き起こすだろう。日本には数十万の画家たちがいる。この数十万の画家たちがたった三人の画家たちが起こしたムーブメントに衝撃に受けるはずだ。なぜ衝撃を受けるのか。それは画家が画家として生きる権利を獲得する戦いが品川の一角で生起したからである。

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芸術家と共存する街づくり

塩谷陽子著「ニューヨーク──芸術家と共存する街」はもう十年も前に出版された本だが、ここに書かれていることは少しも古くなく、むしろこの本で指摘されていることはいよいよ日本と日本人は切実な問題として迫ってくる。日本の芸術は健在のように見える。あらゆる領域の芸術世界にスターが生まれ、さかんに興隆しているように見える。しかしそれはある一部のある特殊な例に過ぎない。その作品が売れてそれだけで食べていける芸術家は、それこそほんの一握りであって、大多数の芸術家は彼の作り出す作品だけでは食べていけない。

大多数といったが、例えば、この日本には本物の画家はどのくらい存在しているのだろうか。少なく見積もっても一千、いや、そんな数ではなく、隠れキリシタンならぬ正体を隠した画家は数万人にのぼるかもしれない。私のいう本物の画家とは、絵を描くことで人生を貫こうと決意している人のことである。彼らはたとえその生涯に一枚の絵が売れなくとも画家であることをやめないだろう。彼らは神の声を聞いたのである。あなたはこの仕事を生涯をかけてやり抜きなさいと。それがあなたの天職なのだと(英語で天職をcallingという)。そういう本物の画家が、おそらくこの日本には確実に数十万人存在しているのだ。

数十万という数は少しも驚く数ではない。人間はパンだけでは生きていけない。魂のパンもまた同様に食べていかねばならない。芸術家とはこの魂のパンを作る人たちのことである。一億二千万人の胃袋に食を提供する人々が、この日本には数百万人必要なように、一億二千万人の魂に作品を提供する芸術家は数百万人必要なのだ。農業者が数百万人存在するように、画家が数百万人存在しても少しも不思議ではない。

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芸術家を育てる街に

さまざまな領域の芸術がある。音楽、映画、文学、演劇、ダンス、絵画、彫刻と。それぞれの領域でスターが生まれる。彼らの作品は売れ、その公演活動はいつも満席になり、何度もマスコミに登場して世の脚光を浴びる。しかしそんな彼らの背後に、何万何十万という本物の芸術家が存在しているということに、私たちの社会はもう気づくべきなのだ。

彼らの作品は売れない。懸命に創造を続けるが、しかし一作も売れずにその生涯を終えるだろう。大半の芸術家がそうである。私たちの社会は、そんな彼らをけっして芸術家などとはいわない。彼らは人生の落伍者であり、敗北者なのだ。売れない芸術などに人生を浪費した屑であり、人間失格者なのだ。屑になりたくなかったら、さっさと撤退して、真面目なまともな社会人になれということになる。

塩谷氏はこのことを鋭く提起しているのだ。どんな時代にも、どんな社会にも、芸術家は生まれる。芸術を天職とせよと天の声を聞いた芸術家が、今日もまたあちこちで誕生する。この日本には本物の芸術家は、数十万人、いや、ひょっとすると数百万人の数にのぼるかもしれない。社会はそんな彼らの存在を認め、芸術家として生きる権利を彼らに与えよということなのだ。これはどういうことなのか。塩谷氏は説明の導入としてエイズ患者のことを例に出しているが、社会が芸術家を向ける視線とエイズ患者に向ける視線が相似するからなのだろう。

例えば、あなたの息子が高校を卒業すると、これからプロのバレーダンサーを目指して生きていくと決意表明したら、あなたの家庭は混乱するだろう。あなたの娘は美大を卒業して、画家になろうと毎日だらだらと、さっぱりわけのわからない絵を描いている。女の子だから、それはあなたの許容範囲だが、ある日その娘が、売れない彫刻家と結婚すると宣言したら、あなたの家庭は大混乱に陥るだろう。見識のあるあなたにしてからそうなのだから、日本の社会が芸術家に向ける視線は、さらに険しく、彼らが近辺に存在することさえ嫌悪するのだ。売れない芸術に人生を浪費している彼らは、人間の屑であり、人間失格者なのだ。こういう社会に「芸術家は、現代社会の中で、芸術家として生きる権利がある。だからその権利を守ってやる必要がある」という思想が、さらには「芸術は、教育や福祉とまったく同じに、コミュニティーが責任をもって扱う課題だとみなすべきものである」という思想を植え込んでいくにはどうしたらいいのか。

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建物ではなく人間に投資する

この新しい思想を打ち立てるために、ニューヨークの人と街で展開されているさまざまな活動がこの本で紹介されている。それらの活動を私の住む品川の街に引き寄せてみるとき、例えばこういうプロジェクトが組み立てられる。いま学校の教室がたくさん余っていて、廃校になる学校さえあるが、それらの空き教室や廃校になった学校を、芸術家たちに低料金で貸し出し、アトリエや練習場として使ってもらうといった取り組みである。あるいは廃業になった工場や倉庫や店舗がいたるところにあるが、それらの建物を行政が借りて、芸術家たちのアトリエとして提供していくといった取り組みである。

町や村がその地域に文化を起こそうと、巨額の資金を投じて音楽ホールを建てたり、美術館を建てたりする。しかし文化とは建物が起こすのではない。建物にいくら巨額の資金を投じたって、文化など起こるわけがない。文化とは人間が起こすものであり、その地域に文化を起こしたかったら、文化を起こす人間に投資すべきなのだ。

品川区にもたくさんの文化施設がある。すでに一千人を収容できるホールが大井町に、五百人を収容できるホールが荏原町に立っている。いまこの二つのホールは、たんなる貸しホールとして存在しているが、これからの時代、それぞれのホール専属の楽団や劇団やバレー団を養成していくべきなのだ。品川にはオーケストラだって、バレー団だって、劇団だって数多く存在している。彼らの公演活動を援護していく新しい思想に立った文化政策である。

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われらのO美術館

芸術家たちをもっとも苦しめるのは、彼らの創造を発表する場所がないことだった。しかし幸いなことに、品川区に住む画家たちにはその場所があった。O美術館(大崎の地にあるからそのローマ字の頭文字から取られた)である。この美術館はだれでも所定の使用料を払えば作品を展示できる貸し美術館で、品川区在住の画家たちはこの美術館ホールを、発表の場として利用できる。だから品川区に住む画家たちは恵まれているということになる。しかし本当にそうなのか。

本当のことをいうと、O美術館の存在の思想は、文化とか芸術とか芸術家などどうでもいいのだ。O美術館の思想(それを思想と呼ぶならば)とは、ただの貸しホールの思想であり、文化とか、芸術とか、芸術家といったこととは一切無縁なのだ。その貸しホールが、さまざまな団体に貸し出され、一年中埋まっていればその目的は達せられる。それがO美術館の思想であり、取り組む仕事だった。したがってO美術館を管轄する品川区の社会教育課は、O美術館に貸しホールの管理者を送りこめばいいということになる。

いってみれば、公務員としてあまり能力のない人物が適任で、事実、仕事のできる人材はまず美術館などに飛ばされることはない。貸しホールの管理者などだれにでも勤まる閑職であり、したがって無能なる人物が適任者ということになる。こういうことまで書くのは、品川区に限らず、日本の行政の文化とか芸術に対する姿勢というものが、ここによくあらわれているからである。

もし品川区の社会教育課が「芸術家が芸術家として生きる権利を守る必要がある」という思想、さらには「芸術を、教育や福祉とまったく同じレベルで取り組む」という新しい理念に立つとき、その仕事は一変する。

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人々が絵を購入する活動

社会教育課はO美術館に、力量をもった人材を配置しなければならないだろう。新しい時代を切り開くことのできる人材である。送り込まれた美術館スタッフは、画家たちを援護するさまざまな仕事に果敢に取り組むことになる。彼らの創造をO美術館に展示する。それは当然なことだ。そんな単純なことでお茶を濁すならば、それまでの貸しホール的仕事となにも変らない。美術館スタッフにはさらなる仕事に立ち向かわねばならないのだ。

その展覧会に多くの人々が足を運んでくるようなキャンペーンを展開することである。そしてさらに、そこで展示された作品が、区民が買い上げいく活動にも取り組まなければならない。「芸術を、教育や福祉とまったく同じレベルで、コミュニティーが責任をもって取り組む」とはそういうことである。

それは画廊業をはじめよということではない。O美術館がその展覧会紹介の記事を品川区の広報誌に載せ、公共施設のあちこちにポスターを張り出し、マスコミにも特集を組んでもらい、さかんに宣伝キャンペーンを繰り広げるのは、私たちの隣人である芸術家が、いまどのような大きな仕事を結実させたかを伝えることにあるのだ。

精神の行為というものは目に見えないが、例えば五十点もの作品を展示する個展を開いたとすると、それは五十階のビルを打ち建てたことに等しい創造なのだ。私たちの隣人が、この品川の地に巨大な建造物を打ち建てたのだ。O美術館に足を運んでこの大きな作品群を見てほしい。そしてもしそこにあなたの胸を打つ作品が展示されていたら、ぜひその絵を購入していただきたい。

彼らは無名の画家である。だからそれらの絵に付けられるプライスは、あなたの経済生活のなかで十分に買える額である。私たちと同じ時代を生きる隣人が、苦闘の果てに打ち立てた作品を、あなたの精神に与えるパンとして購入していただきたい、とO美術館のスタッフは住民に投げかける。

「芸術家が芸術家として生きる権利を守る必要がある」という思想、さらには「芸術を、教育や福祉とまったく同じレベルで、コミュニティーが責任をもって取り組む」という思想をこの社会に根付かせるには、そこまで行政の活動が踏み込むということである。それまで一度たりとも美術館などにいったこのない人々が美術館を訪れるようになり、やがて無名の画家たちの絵が一点また一点と売れていくとき、そこにはじめて塩谷さんのいう「芸術家と共存する街」が誕生するのだ。

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