見出し画像

人生のデビュー

 その日、智子ははじめてできた彼女の部下と、新しい仕事の打ち合わせをしていた。そのとき、隣に住んでいる有明家の奥さんから、電話が入ってきたのだ。
「奥さん、ちょっと、宏美ちゃんが、たいへんなのよ」
 なにかただならぬ事態を告げる声だった。
「どうしたんでしょうか」
「もう服をずたずたにされて、泣きながら、帰ってきたの」
 宏美が、なにか事故にでもあい、大怪我でもしたのかと、智子は青くなって受話器をもちなおしたが、その様子を問いただしていくうちに、ようやく二人は落着いて、智子にもそのたいへんという状態がわかってきた。
 なんでもベランダで洗濯物をとりこんでいるときに、声をあげて泣きながら宏美がもどってきたが、シャツが引きちぎられて、胸まではだけ、その様子はだれかに暴行されたかのと思わせばかりの姿だったらしい。驚いた有明は、宏美を彼女の家にいれ、傷の手当をして、娘のパジャマに着替えさせたところだと言った。
「いま、やっと落着いたけど、さっきまで泣きつづけていたの。よっぽどひどいめにあったんでしょうね」
「すみません。いますぐ帰りますから」
 智子はその日、仕事に追われていて、三時には彼女を訪ねてくる人とも会わねばならなかったが、それどころではなかった。彼女はシビックを走らせ、ゼームス坂に戻ってきた。
 宏美は有明家の居間で、アニメのビデオをみていた。顔や腕や肩口にバンドエイドが貼られていて、それをはがしてみると、爪を深くたてられたのか、後にのこりかねないような深い傷もあった。智子がなによりもショックを受けたのは、引き裂かれた衣服だった。ブラウスが、あとをとどめないほどに引き裂かれていた。
 自宅に連れ戻すと、宏美をカーペットの上にすわらせ、そして智子もかたわらにすわって、
「いったい、どうしたというの」
 このときまた、新しい悲しみとくやしさが噴き出てくるのか、宏美はしゃくりあげながら、その様子を話した。
 その日、教室を掃除する当番が、三班と五班だった。その掃除の最中にささいなことから、由利という子と口げんかになり、一人ではかなわなくなったのか、由利は仲間に応援を求めた。すると女の子ばかりか男の子まで、バイキン、バイキンと騒ぎたてたらしい。宏美はその合唱を止めさせようと、一人一人にむかっていって、そこで叩き合いつかみ合いの喧嘩になったと言った。
 智子は学校に電話を入れたが、担任の宮崎はもう帰っていた。まだ四時前だというのに家に帰ったのですか、と思わず口に出そうになるのをおさえこんだ。
 その夜、何度目かの電話で、やっと宮崎はつかまった。智子は話しているうちにいけないと思いながら、涙声になり、ときには怒りで声を荒げながら宏美の様子を話した。しかし宮崎は、そんな智子をさかなでするかのように、
「それは、相手の子供たちの言い分も聞いてみないと」
 とか、
「そうですか。あしたよく事情をしらべてみます」
 とか、なにか他人事のような調子だった。宮崎は少しもそのことを自分の問題としてとらえてはいないのだ。
 智子はまた、はげしく思いをめぐらした。いったいこれ以上、宏美を学校にやる意味があるのだろうか。宏美は毎日学校で、息がくさいとか、バイキンだとか、エイズだとかいった言葉でののしられ、排斥され、無視される。いったいそんな学校に、どんな意味があるというのだろうか。
 いままで、どんなにつらくとも、どんなにいじめられても、いつかかならず道は開かれると思っていた。かならずどこかで、この暗闇から脱出できると。だからこそ、がんばっていきなさい、負けてはいけない、どんなにつらくても学校にいきなさいと言ってきた。しかし状況は悪くなるばかりだった。少しも未来などみえない。
 それはきっと、宏美のクラスが腐敗しているからなのだ。他の子にとってはそうでないかもしれないが、宏美にとっては、そのクラスは腐敗そのものだった。そんな学校にいかせる意味など、まったくないではないか。まちがっていたのだ。宏美の側に立って考えるとき、それはやっぱりまちがっていたのだ。
 智子はこの日、決心した。その夜、十一時前に帰って邦彦に、智子はその決意を伝えた。疲労困憊している身には避けたい話だったが、あらたまって強い調子で言われると、避けるわけにはいかない。
「どうして、それがやめることになるんだ」
「あの子は、これまで一生懸命だったのよ。もうこれ以上、なにをがんばれと言うの。なにに対してがんばれと言うの」
 智子は、興奮からか目に涙がにじませている。
「宏美は戦ったんだろう、十人もの子供を敵にまわして、戦ったんだろう」
「それはちがうわ。男の子と違うのよ。そんな戦いなんて、まったく意味のないことなんだわ。互いに傷つけあって。そんな暴力が、いったいなにになるというの。あの子は暴力のきらいな子よ。幼稚園のときだって、どんなにたたかれても、あの子はけっして手をださなかったでしょう。そんな子が戦うなんてそれはすごいことなのよ。それだけ、あの子の傷が深いの。戦いだなんて。そんなことじゃないのよ」
「だからと言って、それが、どうして学校にいかせないという結論になるんだ。それは脱落することだよ。この社会から脱落させることじゃないか」
「そうよ。脱落させても仕方がないじゃないの」
「どうかしているぞ。脱落してもいいだなんて」
「だってあの子にとって、学校っていったいなんなの。バイキンとか、エイズとか言ってののしられるクラスっていったいなんなの」
「社会には、そんなことがいくらでもあるじゃないか。社会はもっと残酷だ。そういうことを乗りこえることによって宏美は、強くなっていくんだよ。いまここで退いたら、宏美は永遠に立ち直れないよ」
「なにから立ち直るというの。私、わかったのよ。こんな学校、宏美にはなんの意味もないんだってことが。強くだとか、耐えるだとか、そんなことはどうでもいいの。いま宏美に必要なのは、もっとのびのびと生きていくその環境なのよ」
「社会はきびしいんだよ。戦わなければならないときがある。そういうことから背をむけて、生きるなんてことはできないじゃないか。学校にもいかないで、これから家でぶらぶらさせるというのか。いったい近所の人たちはどう思うんだ」
「あなたは、そんなことが心配なの」
「そうさ、社会の顔というものがあるじゃないか。この家が社会につながらない顔になるなんて、たまらない。そんな結論は、ぼくはぜったいに許せないな。いろんな方法があるはずだよ。学校を代えるとか、いまからでも私立にいれるとか。とにかく学校をやめさせるなんてことは、親の義務を放棄することだ」
 邦彦の言うことは、わかりすぎるほどわかっていた。それまでやはり彼女もそう考えていたのだから。しかしそれは学校にいけない子供の心を無視した大人の見方だということが、いまようやく智子にわかりはじめていた。智子は思った。いま宏美にかぎりなく身を寄せなければならないのだと。
 その次の朝、宏美はおきてこなかった。ぐっすりと眠りこんでいた。どんなに調子がわるくても、律義に起きてきて、お腹が痛いとか頭が痛いとか言うのだが、この朝は深く眠りこんでいる。
(ああ、この子はこんなに疲れていたのだ)
 いよいよ智子は、この子のために、いま一つの大きな決断をすべきときにきたのだと思うのだった。
 その朝の十時ころ、学校から電話がかかってきた。宮崎だった。
「話がありますので、ちょっと学校にきていただけませんか」
「昨日の件ですか?」
「ええ、そうなんです。ちょっとこみいったことになりそうなので」
「その話でしたら、先生のほうから、こられるべきじゃありませんか。いつも先生は父兄を呼び出して。先生ってそんなに偉いのですか」
「いや、そうじゃありませんけど。実はその問題で、平井さんのお母さんからも抗議がありましてね。顔をだいぶ深く傷つけられたと、それはたいへんな剣幕なんですが。それと山本さんのお母さんからも」
 智子はかっとなって言った。
「宏美はどうなんですか。宏美は十人もの子を相手にして、戦ったんですよ。衣服をびりびりに破られて、あちこちに爪をたてられて、体中に傷をつくてきたんですよ。一度、引きちぎられたブラウスをごらんになるといいわ。どんなひどい争いだったか、わかるはずですよ。あなたは、なにもみていない人なんです」
「お母さん、そう興奮なさらずに、ちょっと冷静になって下さい」
「あなたが、あまりにも事態をきちんとみていないからです」
「それじゃあ、午後にでも、こちらからうかがいますが」
「いいえ、結構です。今日は会いたくありません。会えばなにを言い出すかわかりませんから、もう少し時間を下さい」
 そう言って、一方的に電話を切った。
 その日、昼過ぎに、智子はゼームス塾をたずねた。がらんとした部屋で、ノートをひろげていた長太は、がさがさと机の上をかたずけて、彼女の席をつくると、
「ああ、コーヒーでもいれましょう」
「いいえ、おかまいなく」
「いえ、ぼくが飲みたいので」
「じゃあ、私がいれますよ」
 部屋の片隅に流しがついていた。グラスやらカップが乱雑におかれていたのを洗いながら、智子は長太に話しはじめていた。そうやって話していくうちに彼女の混乱やら興奮した感情が去っていって、自分が整理できていくようだった。
 コーヒーをカップにいれると、香ばしい香りが部屋に満ちた。彼女も椅子にすわり一口すすった。インスタントコーヒーだが、なんだか心にしみこむようにおいしかった。
 長太は、メモ用紙を、智子の前に差し出すと、
「これが、谷岡さんの《自由広場》の住所と電話番号です。そうだ、いまちょっと電話をいれてみますよ。いつならいけますか」
「いつでもいいです」
「明日でもいいんですか」
「ええ」
「そうですね。早いほうがいいですね。ちょっと電話をいれてみます」
 谷岡と通話がつながると、弘は訪ねる時間まできめてしまった。
 そこは谷岡というごく普通の主婦が、学校にいけなくなったわが子のためにつくった塾だった。それがいまでは不登校児童や親たちの一つの心の拠点となっているようだった。長太は会うたびに谷岡に会うことをすすめてくれていたが、智子はようやくそこを訪ねる気分になったのだ。いまはわらにもすがる思いだった。
「この品川にもずいぶん多いんですよ、学校にいけない子が。ぼくが知っているだけでも五、六人はいるな。ぼくのところにも、毎年問い合わせがあるんです。お宅の塾では不登校の子供は面倒みないのかって。ぼくのところは変わっていますからね」
「ほんとうに変わっていますよ」
「ええ、変わっています」
 と二人はしみじみと笑った。彼女は昨日から笑いを忘れていたのだ。
「児童館の望月先生なんかも、しばしば相談をうけるらしいですよ。望月さんとそんな子供たちのことを話すといつも、もうそろそろ品川にも、自由広場みたいな、不登校児童のための拠点が生まれるべきだという結論になるのですがね」
 そして長太は、またこんなことも言った。
「田所さんは、ほんとうに先生というタイプですね」
「あら、どうしてですか?」
「ぼくは、どうも女の先生というのが苦手だったけど、でも田所さんをみていてそんな先入観が、吹き飛んでしまいましたね。ほんとうにうまいもの。子供たちをあつかうのが」
「あら、そんなこと、どこでみたんですか」
「丹沢にいくときですよ。ぼくなんかよりもはるかに子供たちに人気がある。人気があるというのは、やっぱり人格ですからね。田所さんはほんとうは先生になるべき人なんですよ。いや先生であり続けるべき人なんですよ」
「一度挫折しましたから。そのとき自分の力を知ったんです。自分にはその力はないなって」
「でもいつか言ってましたね。中学の教師をしていたときが、一番自分の人生のなかで輝いていたって。あの時が自分の原点かもしれないって」
「ええ」
「ぼくはこう思うんですよ。宏美という子は、田所さんにとって、最高の教材だと思うんですね。宏美を教材にして申し訳ないが、つまり田所さんのような人は、この最高の教材を他人にゆだねるのではなく、田所さん自身が育て上げていくべきだと思うんですよ。そこからいろんなものが見えてきたり、切り開かれたりして、たぶん田所さんの新しい人生がはじまると思うのです」
 そのとき智子には、その言葉の真の意味がわかっていなかった。
 藤沢で小田急線に乗り換えて、鵠沼海岸で降りる。そこからのんびりと広がった住宅街のなかを通っていく。あたりは品川のように、ごちゃごちゃしていない。家々がたっぷりとした庭をもち、木立が気持ちよく葉を繁らせていた。空気まで新鮮なのだ。
《自由広場》はごく普通の家のなかにあったが、一歩足を踏み入れると、子供たちのざわめきがあちこちから聞こえた。小学生たちが、ばたばたと部屋のなかを走り抜けていくし、居間では何台もパソコンがカタカタと音をたてている。二階ではギターがかき鳴らされているし、庭の隅に立っているプレハブの家では、なにか活動でも行われているのか、ときおりわあっという喚声があがった。
 谷岡はもう五十をこえた女性だった。彼女は智子を庭に連れ出して、葉をいっぱいに繁らせた木立の下にある椅子にすわらせた。そして智子の陥っている苦悩が、よくわかっているのだと言うように、
「あのね。不登校の原因って、いろいろあるのね。だから一つのパターンでとらえることはできないと思うわよ。その原因って、子供の数だけあるはずよ」
「ええ、そうでしょうね」
「だから、脱落なんていうとらえ方だってできるけど、例えば、その子たちはカナリアだということがあるのよ」
「カナリアですか?」
「そう。なんでも昔は、カナリアをもって炭鉱に入ったというじゃないの。ガスが少しでもたまっていたら、まずカナリアが倒れてしまう。学校にいけない子や、学校にいかない子って、そのカナリアだと思うのね。学校がもっているいろんなガスを、だれよりも一杯にすってしまうの。もちろんそれは学校だけじゃなくて、その背後にある家庭での問題とか、社会のあり方とかがあるわけだけど。とにかく敏感な、感受性の鋭い子ほど、そのガスを深くすってしまうのよ。宏美ちゃんって言いましたっけ。きっと宏美ちゃんも、そういう子なんじゃないのかしら」
「ええ、とってもよくわかる子です」
「大人たちは、よく言うのね、昔からいじめがあり、学校にも沢山の問題があったけど、それでも子供たちは学校にいっていたって。それなのにいま広範囲にわたって、不登校の子供たちがふえているのは、子供たちがわがままになったのだ、それを許す親も、自由や教育をはきちがえているって。そういう議論によくなってしまうのよね。それは昔の社会には、それだけ自由というものがなかったからなの。まだ社会が成熟していなかったからなのよ。ひたすら全体のなかに個性を埋没させる時代だったわけでしょう。でも次第に個性とか自由とかいうものが育ってきて、日本人の意識が変化してきた。学校がつくりだすいろんな否定的要素も、じっとたえていかなければならなかったけど、いまははっきりと、それを否定する子供たちがあらわれた。それはようやく日本人の思想とか、意識というものが多様化して、成熟してきたことなんだと思うね」
 宏美にもう友達ができたのか、四、五人の女の子たちとばたばたかけてくると、
「みんなで海にいくんだって。いってもいい?」
 どう返事をしたものかと迷っていると、
「いいわよ、いってらっしゃい」
 と谷岡がこたえ、そして私たちも海にいきましょうかと智子を誘った。
 二人は子供たちのあとから海にむかった。海岸まで歩いて五分もかからなかった。
 穏やかな海だった。灰色の砂浜が果てしなく続いている。子供たちはもう豆粒ほどになっていた。二人は砂の上に座った。
「いい環境ですね」
「そうね。子供って、ほんとうに海が好きなのよ。ここに連れてくると、一日中遊んでいるわね」
「そういう環境が、いまのところにはまったくないんですよ」
「家にとじこもって、ファミコンか、そうでなかったら塾とかですものね」
「ええ」
 そしてまた谷岡は、自分の過去を話すのだ。
「二番目の子が不登校になったころ、それはすっかり落ちこんだわよ。ほんとうに私の家は、社会から脱落したのかと思ったわ。そしてうちの子をいじめる子供たちを叱ったり、その子の親を憎んだり、先生がよくないとか、校長先生が悪いとか。もう大変だったわね。学校からはじきだされていくその原因ばかりを追及したりして。結局それは、同じところをぐるぐると回っているばかりで、かえってどろ沼に落ちていくばかり。そして子供に原因があるのだろうと思って、あちこちの病院に連れていって」
 まるで自分の姿を描写しているようだと思い、智子は赤くなった。
「でも、あるとき気がつくのよ。学校というものを、いつも中心にして考えていた。でも子供の側に立って考えてみたら、どうなるのだろうかって。子供が学校にいけないなら、そこからスタートしてみようって。学校にいかないなら、それと同じくらいのものを、彼の回りに作ればいいのだって。ぐずぐず悩んでいたり、人を憎んだり、家族を憎んだり、いつまでも愚痴をたらたらとたれ流しているのではなく、彼となにかをはじめていけばいいんだって。どうせはじめるのならば、学校に負けないようなことをしてみようと思ったのね。そして二人で家でいろんなことをはじめていたら、一人また一人と同じような子が集まってきたの」
 智子にとって、その一日は目が開かれるような思いだったが、なかでも一番感動したのは、《自由広場》にいる子供たちだった。子供たちの表情が明るく、生き生きしているのだ。それまで智子は、不登校の子供たちって、どこか暗く、どこか陰気な表情をたたえているのではないかと思っていたのだが、そんな暗い影などどこにもなかった。むしろ一人一人の子供の表情のなかに、豊かな感性や知性といったものを感じるのだった。谷岡はそのことをこんなふうに言った。
「学校にいけないから、なまけているわけじゃないの。勉強をしていないからなにも学んでいないわけじゃないの。ああしてただ遊んでいるだけのようだけど、実は深いところで、心の対話をしているのね。あの子たちは、次の脱皮にむけて、静かに英気をやしなっているのよ。この時を抜けると、すばらしい飛躍があるものよ」
 彼女は、その日の感動を邦彦に話して、明日からでも、宏美を自由広場に通わせたいと言った。しかし邦彦は、はげしく反対した。とにかく学校にいかせることだ、その努力を放棄すべきではないと。しかし新しい世界に立った智子には、もうその論理が、あやまちに満ちたものにみえるのだった。もはやいくら議論しても、その間隙を埋めることができない地点に、二人は立ってしまった。
 結局、あの事件が起こってから、学校にいかなくなった宏美を、智子は《自由広場》に通わせることにした。そのことが、邦彦との間に決定的な溝をつくってしまうことになるのだということを、そのときの智子にはむろん予期することなどできなかった。
 藤沢まで一時間半ほどかかるのだが、宏美は毎日六時前におきて、七時過ぎには家をでる。毎日が楽しいらしく、いってきますという声が輝く朝日のように明るいのだ。そんな宏美の姿をみると、その選択はけっして間違っていなかったと思った。
 宏美のその通学が軌道にのると、智子もまた仕事に打ちこめるようになっていったが、しかし智子のなかで微妙な変化が生まれていた。それはふと長太がもらした、あなたのような人は、宏美という教材を他人にまかすのではなく、自分をつくりだす教材にすべきだといった言葉が、しみじみと彼女のなかに広がっていったからだ。書庫の奥に投げこんであった、さまざまな教育学の本を取り出して、ぱらぱらとめくることが多くなった。
 あちこちに鉛筆で書き込みがあった。そんな書き込みをみていると、かつて燃えるように取り組んでいた日々が胸をえぐるように思い出される。ずいぶん勉強したのだなと思い、燃えていたのだなと思い、そしてもう一度、教育とはなにかということに思いをめぐらしていくのだった。
《自由広場》には、子供の父母や、その活動を応援する人や、さらにそこから巣立った若者たちなどで構成される運営委員会が月に一度あった。毎回二十名近くの人がその席に顔を見せるのだが、その顔ぶれといったら多彩で、魚屋さんがいたり、スーパーマーケットの経営者がいたり、大学の助教授がいたり、もちろんフリーターの若者たちや魅力的なお母さんたちもいた。そんな人たちとの会話が、智子にはとても新鮮で刺激的だった。
 その運営委員会は、連続授業といったものに取り組んでいた。それはその広場にやってくる子供たち全員を対象にして、一つのテーマを一年かけて追い続けていくという授業だった。ちょうど宏美が入ったときは、山本という定時制の高校の教師が《地球にやさしく》というテーマの授業を展開していた。ビデオ鑑賞からはじまり、さらには子供たちを海や山や川に連れ出していって、さまざまな角度から自然へ切り込んでいく活動だったが、自然の好きな宏美には毎月この日が待ちどおしくてたまらないようだった。とにかく一日中自然とかかわっていることができるのだから。
 それにもう一本《音楽冒険》という授業も行われていた。さまざまな楽器に挑戦させ、果てはバンドをつくり、演奏会までしようという活動だった。そのコンサートが保育園や老人ホームで行われたが、地域と深く接触していくこの活動のありかたに、智子は新しい学校の萌芽を感じるのだった。
 そしてその《音楽冒険》のあとになにをするとかということになって、思いつきで提案した智子のプランが採用され、なんとその連続授業を智子が行うはめになってしまった。その授業が探検シリーズだったから、智子は《世界の言葉探検》と名づけた。大使館にかけあって、駐在している館員の子供とか、あるいはその国から派遣されたビジネスマンたちの子供たちを《自由広場》に招き、その国の言葉や歴史といったものを学んだり、その子供たちと一緒に歌ったり遊んだりするという活動だった。アイルランド、ケニア、インド、トルコ、ペルー、そして日本人はもっと隣国のことを知らなければと、中国や韓国やフィリッピンの子供たちも招いた。
 その授業は大成功だった。外国語というものが、英語だけではないということを肌で知り、なによりも世界の子供たちと手をとりあって遊んだということが、なにやら子供たちの視野や思考を、世界的な規模にさせたのではないかと思わせるばかりだった。
《自由広場》の活動に領斜を深めていくにつれ、智子の内部にとじこめていたものが、再びぐつぐつと湧きたっていく。そんな彼女の心のドアをたたくかのような電話が、ゼームス児童館の望月からかかってきた。学校にいけなくなった母親が、《自由広場》のことを聞きたいと言うんですがと、望月は切り出してきた。
「お母さん一人で悩んでいるんですよね。そのお母さん、このままではノイローゼになってしまうなんて言うんですが、ぼくにはもうそのお母さん、すでに重傷のように思えて。とにかく話しをしてもらうだけでいいんですが、会ってくれませんか」
 児童館にいくと、その母親と不登校になったその子が智子を待っていた。三年生だというその子は、なにか小動物が穴ぐらから、ちらりちらりと外をうかがうようにおどおどしている。それにくらべて母親のほうは、実にたくましい女性だった。クリーニング店を夫と二人できりもりしているが、朝から夜中まで仕事に迫われ、子供の面倒までとうていみることができない、とにかく学校にいってもらわなければ、ほんとうに困るのだと悲鳴を上げるように愚痴りはじめた。
「こんな女の腐ったみたいな性格ですからね、やられたらやり返すということができないんですよね。主人が殴られたら殴りかえせ、いじめられた何倍にもして返してこいって言うんですけどね。ときどき喧嘩の特訓をしたりしてね。でもだめなんですね。こんな弱い性格の子だから、すぐにめそめそ泣いてしまうんですよ。だからいじめるほうにしたら面白くて仕方ないんですよね。とにかくすぐに泣くんだから。なんか先生に言われたりして、クラスのみんながむかつくときには、みんなでこの子をいじめるらしいんですよ。この子をいじめれば、むしゃくしゃしたものがはれるらしいんですね。この子の隣の女の子はクラス委員をしているんですがね、それがひどい子で、授業中にですよ、この子をつねったり、爪でひっかいたりするんですよ。ほんとうにいやらしい子で、かわいい顔しちゃって、あたしは優等生だって顔をしちゃって、机の下でつねったりひっかいたりで、ああいうのを二重人格っていうんですか、ほんとうにいやらしい子ですよ。そのことを先生に話すと、まさかという顔でしょう。なんにも見ていないんですよね、先生なんて。どれだけ陰険ないじめにあっているかが……」
 彼女はとめどなくその話を続ける。彼女の胸のうちに、それだけたくさんの恨みや嘆きや苦しみが蓄積されているのだろうが、こういう愚痴の羅列は聞くものを疲れさせるだけだった。
「一度、自由広場にいらっしゃるといいわ」
 そしてその広場で、どんな活動が行われているかを智子は話したが、その母親はまるで上の空だった。智子の話の腰を折ると、再びわが子がどんないじめにあっているかを、えんえんと繰り返す。
 同席している弘もまたそこから引き離そうと、
「ですからお母さん、一度学校からはなれた、別の視点からみるということも必要だと思うのですよ」
 と話題を切り変えようとするが、彼女は先生や学校を攻撃し、もうこの問題は教育委員会にもっていくしかないと言った。智子は思った。問題はこのお母さんにあるのだと。
 その母親が帰ったあと、弘は悪いことでもしたように、
「すみませんでした。話があんなことばかりで」
「しかたがありませんわね。私も以前は、たぶんあんなだったのかしれないと思いました。なにもみえなくなるんですよね」
「一度学校から、目をはずせばいいんですけどね。それができないんですね」
「そうなんです」
「学校にいけない子が、最近はほんとうに多いんですよ。児童館の職員や学校の先生たちでつくっている子供を考える会というのがあるんですが、そこでもしばしば話題になって、品川にも自由広場みたいな学校にいけない子たちの拠点ができればいいなという話しになるんですね」
 と弘は言ったが、そのとき智子は、なんだか自分にむけられた言葉のように思えた。そんなふうに受けとめるようになったのは、智子の心がうごめいていることの証拠でもあった。事実彼女の心は動いているのだ。
 学校にいけない子供たちは、そのクリーニング店の子のようにじっと家にとじこもっている。そして母も子も学校にいけないことに苦しみ悩み、ひたすら学校にもどれる日を待ち続けている。そんな子供たちのためにいま自分は立ち上がらなければならないのではないのか。それがこれから自分が一生かけて実現させていく自分の宿題ではないのか。いま働いている貿易会社の仕事は順調にのびている。それはそれで面白い仕事だった。しかしなにか彼女の魂といったものを充足させるものではなかった。
 その日、学生時代からの友人である妙子に会って、その話を雑談のなかにとけこませてみた。じっと智子の話をきいていた妙子が言った。
「もしも、あなたがそんな事業をするなら、離婚しなければならないわね」
 智子ははっとして、
「どうして、離婚なの?」
「それは立派な事業よ。その事業をはじめるには、あなたに離婚の覚悟ができているかどうかだわね。田所智子から、野島智子に戻るってこと。そこまで考えておかなければだめね」
「夫を説得すればいいことでしょう」
「そこが甘いのよ。あなたは」
 五年ほど前に、彼女は離婚して、五反田に女手一つでレストランを開業させた。それが成功して、いま二件目を目黒にだそうとしていた。彼女は離婚することによって自己を確立したのだった。その彼女に甘いと言われても仕方がなかった。
「あなたの自宅ではじめるわけでしょう」
「それ以外に考えられないわ」
「彼はぜったいにうんとは言わないわよ」
「でもなんとか説得してみるのよ」
「彼はきっとどこまでも反対するわよ。彼ってそういう人じゃない。あなたはそういう人を選んだのよ。あなたは会社夫人におさまるために、彼と結婚したんだし、そのために先生であることをやめた人じゃないの」
「彼の職業と結婚したわけじゃないわ」
「そこが甘いと言うのよ。彼があなたに期待しているのは、これからもまたずうっと期待しているのはビジネスマン夫人としてのあなたなのよ。彼はエリートの道を歩んでいるわけでしょう。課長夫人、部長夫人、そして果ては重役夫人。彼があなたに期待しているのはそれなのよ。その夫人が家でおかしな塾をはじめたら、彼の人生設計、台無しじゃないの。それだけであの人、出世レースから脱落するわね」
「そうなるのかしら」
「きまっているでしょう。あの人たちの世界ってそうなのよ。あなたが塾なんかはじめたら、たちまち会社の査定リストに、私生活に乱れありって書かれるわね」
「私生活の乱れなわけ」
「そうよ。あの人たちの世界ではそうなるの。だから彼は会社では、宏美ちゃんが不登校児童だなんて、一言も言っていないはずよ。そのことがばれたら、たちまち出世レースからはじきとばされるの。妻や子供が管理できない人間に、どうして部下がまかせられるかっていうわけよ。あの人たちの世界って、そういうおかしな社会なのよ。だからあなたが、彼をちゃんと出世させようと思ったら、正しい夫人になっていなければならないの」
「そういうことなんだなって思う。思いあたることがいっぱいある」
「問題の一つはそこね。それとさ、その仕事をはじめて、どこで採算を生みだせるかでしょうね。結局、事業というのはバランスシートで成り立つわけだから。お金の計算をきちとしなければいけないのよ」
「それはすぐには無理だわね。そのことですぐに収入を期待できる事業じゃないもの」
「でもただのボランティアみたいなものだったら、たぶんどこかで駄目になるのよ。その谷岡さんのとこだって、そんなに長く続いているのは、その仕事でちゃんとした収益をあげているからでしょう」
「いまはそこそこの収入があるはずだわ。子供たちだって、四十人近くそこに通っているんですから」
「やっぱりその情熱を持続していくのはお金なのよ。それで食べていけるという保証がなければ。ただ甘い幻想だけではじめたら、一年ももたないと思うわ」
 なかなか辛辣だった。たった一人で、幾多の試練を乗り切ってきた彼女ならではの言葉だった。それはなるほど一つの事業だった。その事業をつくりだすには、そこに冷酷な計算が必要だった。その計算ができていなければ事業はスタートできないのだ。
 それにしても、その仕事をはじめるには、離婚からだと言われたとき智子はどきりとした。なにか智子の内部を、女の勘の鋭さで見抜かれたように思えた。実際、そのとき智子と邦彦の関係は悪くなっていた。智子はときどき邦彦の背後に女の影を感じていた。ゴルフにでかけたのに、ほとんど陽に灼けてかえってこない日もあった。それまではどんなに遅くなっても、必ず家にもどってきたのだが、ときどき帰ってこない日もあった。そんな日の翌日は、いやにやさしくなるのだ。
 なにか邦彦は、どんどん智子から離れていくように思えた。そして智子もまた離れていく彼の心に比例するかのように、邦彦がいやがるその塾づくりを心のなかにはらませていく。二人のあいだに走った亀裂の深まりと軌を一つにしていた。そういう意味でも、妙子の指摘は図星だったのだ。
 その日、邦彦は、ひどく機嫌がよかった。夫婦の間に、久しぶりにしみじみとした会話ができた。邦彦が言った。
「宏美も、ずいぶん明るくなったね」
「そうなの。毎日が楽しくて仕方がないのよ」
「それでよかったのかね」
「中学校になれば、きっと学校にもどれるわ。もっとたくましく強くなって」
 智子は《自由広場》の話をして、さらに、
「品川にも、そんな広場ができないものかと思うわ。ほんとうに不登校の子供って多いの。宏美があそこにいっているせいか、いろんなところでそんな話をされるのよ。品川にもそういう子供たちの集まる広場がないものかって」
「子供たちも、ストレスがいっぱいで大変なんだな」
 智子は、邦彦にもだんだんわかってきたのだと思った。彼女はそのときはじめて自分のなかにふくらんでいく話をしてみた。
「この家で?」
 と邦彦は、信じられないものを聞いたとでも言うような声をあげた。
「ええ、はじめるとしたら、ここからスタートする以外にないのよ」
「じゃあ、おれたちはどこに住むんだ?」
「昼間だけよ。子供たちは、夕方には帰っていくの。日曜日は休みだし」
「土曜日は、あるんだろう」
「ええ、でもその日は、みんなで外にでる活動をするわ」
「とんでもない話だ。家というものは疲れた体を休ませるためにあるんじゃないのか。そこが子供たちの暴れまわる場所になるなんて。そんなこと断じていやだね。君は気がちがったとしか思えないな」
「それがいやだったら、会社の寮が川崎にあると言ってたでしょう。そこに私たちが入ってもいいのよ」
「そのために、わざわざ引越すのか」
「ええ」
「馬鹿も休み休み言ってくれ。なるほど、ここの土地は、君の実家のものだ。しかしこの家を建てたのは、おれの金だ。そのローンも終わってないというのになんという馬鹿げた話をするんだ」
 そして彼は毒づくように、宏美を藤沢のそのなんとか広場にいれてから君はおかしくなった。やれ会議だ、やれ全国大会だ、やれ運営委員会だとかけずりまわっている。おれのワイシャツのボタンがとれようがおかまいなしだ。もうおれのことなどどうでもいいのだ。おれの意見などどうでもいいのだ。そして邦彦はこれが結論だと言うように、
「いいかい。この家をそんなことに使うことは、ぜったいに反対だからな。ここはおれの家だ。そんなことはぜったいに許さない」
 邦彦が怒るのは、当然かもしれなかった。だれだっていきなりそんなことを言われたら怒りだすだろう。しかし智子はその話を、たとえばのつもりで話したのだ。そんなふうにするのも、一つのプランだという程度にすぎなかった。邦彦がいやだと言えば、またそこから新しく考えればいいのだ。そんな気持ちで話したのだ。
 しかし彼のはげしい怒りは、智子に二人の間に走る亀裂の深さを思わせるのだった。それまで邦彦は、もっと智子のそばにいた。どんな話でも、たとえそれが彼の反対することであっても、いつも智子に身をよせた考え方をしてくれる人だった。宏美のことも、教育の問題も、言葉がかよいあっていた。しかしいまはなにか言葉というものが、プラスとマイナスのように激しく反発しあう。
 それからしばらくして、また弘から電話があった。
「クリーニング屋さんの子がいましたね」
「ええ」
「あの子が、大変なことをやってしまったんですよ」
「どうしたんですか」
「家に火をつけてしまったんです。風が強かったもんだからまたたくまに燃え広がって、あたりの家三軒がまる焼けというひどいことになりましてね」
 智子は声もでなかった。穴ぐらから外をおどおどとのぞいているようなあの小学生の姿がありありと目に浮かんだ。ぐちゃぐちゃと愚痴をたれ流していた母親。あのとき彼女もまたその子も危険信号を発していたのだ。
「それで、児童館の職員とか、学校の先生とかでつくっている子供を考える会で、この問題をとりあげることになったんですが、そこでぜひ田所さんにスピーチしてもらいたいと思いまして」
 その夜、会合の場所となった児童館にいくと、畳の部屋に十二、三人の人たちが車座になっていた。その放火事件が、こと細かく報告されると、あちこちから発言がとびかった。
「とにかく一日家にとじこもっていたわけだからね」
「しかも一人の友達もいなかった」
「ストレスがたまっていったんですね」
「家庭のなかもまたストレスがいっぱいでね。逃げ場がどこにもないわけだから」
「家族もまたその子を追いつめていったんだと思うね」
「学校にいけない子を、児童館で面倒をみるということはできないわけですか」
「児童館は原則として、朝から開かれているけど、学校にいきなさいという指導がまずされますからね」
「児童館のいまの体制では、とても不登校児童を面倒みることはできないでしょうね。まず法的な問題に抵触してくるし」
「しかしこれだけ多くの不登校児童がいるかぎり、もうそろそろ行政は、具体的にこの問題に手をつけていくべきなんだね」
「そうだね。ぼくらにも反省することがたくさんある」
「もっと積極的に声をかけて児童館に連れ出すとかね」
「待っているだけではいけないということですね」
 智子はそんな会話を聞きながら、なんと心やさしい人たちなのだろうと思った。彼らの目はこの地域にむけられ、子供たち一人一人にむけられている。
 その報告がなされたあと、智子がスピーチする番になった。そのころ智子は「不登校児童を考える全国集会」の実行委員になっていたりして、不登校に苦しむ人たち、それと戦っている人たち、さらに苦難をのりきった沢山の人たちの実践の例を知っていた。だから智子はそんな例をいくつもぬいこんで話していった。彼女の話は一座に深い感銘をあたえたようだった。
「もうそろそろ品川の地に、そんな場が生まれるべきですね」
 智子のスピーチが拍手のうちに終わると、すかさず長野という人がそう言った。
「行政が手を出すということは、まずありえないからね」
「社会では、まだ認知されていない」
「しかしこれだけ多くの不登校児童がいる以上、いままでのように家庭や子供に責任の一切をおしつけて、そのすべてを覆い隠すことなんてできないよ。またそれをしてはいけないんだと思うね。そんなことをしていると、今度のように子供たちは放火というかたちで反乱するかもしれない」
「まず長太さんの塾あたりではじめたらどうなんだろうか」
 とだれかが言うと、爆笑がおこった。
「いや、彼は蝶を追いかけることに忙しくてだめだよ」
「長さん、いまごろくしゃみしているな」
 長太はいまは塾で授業をしているはずだった。もし彼がここにいたら、きっとその視線を、自分に向けてくるだろうと智子は思った。それこそあなたの役ですよと。
 その集会が終わって、自宅にもどってくると、もう十時をすぎていた。
「お父さんは、まだなの」
 と居間でテレビをみていた宏美に訊いた。
「一度帰ってきたけど、またでかけていったよ」
「どうしたのかしら」
「電話があってね……」
 と宏美は言いかけたが、ふとそこで言葉を切ってしまった。なにか隠しているそぶりだった。ひどく気になって、
「だれからの電話なの。宏美ちゃんがとったんでしょう」
「うん」
「会社の人なの?」
「ううん、うん」
 とあいまいに濁そうとした。ひどくあやしげな態度だった。智子は詰問するように、だれなのと、その人、名前をいったんでしょうと問いただした。
「松沢さんだって」
「松沢さんって?」
「ほら、一度家にきた人よ」
 ああ、そうかと思った。だからこそ宏美は、言葉をにごそうとしたのかと思った。宏美にも、いま二人が、危うい状態にいることを鋭く感じとっているにちがいなかった。そしてその松沢という人こそ、二人の間に亀裂をうみだしている影の正体ではないかということを。
 智子もまたそのときはじめて、邦彦の背後にただよう濃密な女性の影の正体をみたように思えた。会社から自宅が近いせいか、邦彦はよく部下たちを家に連れてくるが、その松沢という子も一度きたことがあった。そのとき邦彦は、いま会社で一番の美人なんだと智子に紹介したが、それは酔っているための冗談だけではなく、上品な表情をした、姿のきれいな子だった。智子はその子にとてもいい印象をもったことがあった。それから何度か邦彦の会話のなかにその女性が出てきた。そして彼女が邦彦の課から引き抜かれて、専務の秘書になったということが話題になり、彼女の送別会をひらかねばならないなと邦彦が深いためいきとともに言ったとき、智子はかるい嫉妬にとらわれながら、あなたが一番寂しいんでしょうと言ったものだった。
 その彼女なのだろうか。邦彦が急激にかたむいている人は。彼女から電話がかかってきた。それはたぶん宏美が電話に出たから、松沢は自分の名前を名乗ったのだろう。もしその電話に智子がでたら、彼女はきっとすぐに切ってしまったにちがいなかった。それほどまでの危険な電話をかけてくるには、なにか至急の用があったからなのだろうか。たった一本の電話で、邦彦はあたふたと出かけていった。なにがあったというのだろうか。そんなことをぐるぐると考えていると、智子はその夜ほとんど眠ることができなかった。
 その夜、邦彦は帰ってこなかったのだ。
 それから一週間後にも、また邦彦は家に帰ってこなかった。智子はその次の日に、会社に泊まりこみだったと言い訳をする邦彦にこう言った。
「前から話していた塾をはじめたいと思うのよ」
「この家でかい」
「そう、ここで」
「それは、おれにここから出ていけということじゃないか」
「あなたはそうしたいんでしょう」
 智子は、激しくつきあげてくる嫉妬をかくしながら言った。
「君の土地だから、おれは出ていけというわけだな」
「私たちはもうだめみたいだわ」
「別れようということなのかな」
 そうではなかった。彼女が言いたいのは、そんなことではなかった。そしてまた塾を開くことでもなかった。たとえそうであるにしても、いま話したいのはそのことではなかった。それなのに、彼女はまたこう言った。
「あなたがそれを望んでいるんでしょう」
 智子の胸の奥に、妙子の忠告がきりきりとよみがえってくる。あなたには離婚などできないわよ。離婚してまでそんなことをやるつもりはないのよ。そしてまた谷岡のあのやさしい声もふと耳をついた。家庭を大事にしなければ。その家庭に守られてはじめてできることなのよ。それらの声が、智子のなかで、悲しくこだますのだった。それなのに智子は、またそれらの声をふりはらうように、
「別れることしかないのかもしれないわ」
「君がそうしたいというなら、考えてもいいさ」
「もうそこまで、きてしまったんでしょう」


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?