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宝物   廣瀬嗣順

東京に住んでいた頃、「どの季節が一番好き?」と訊かれたら、即座に、「秋!」と答えていた私だったが、秋が一番落ち着いて沈思で好きだった。
 安曇野での生活は、冬の季節が余りにも永いせいか、春の気配に非常に敏感になってしまった。大気が緩んでくると、無性に早く春に逢いたくなって、春を探しにでかけたくなる。ニュースでは、桜前線予報が南から徐々に北上してきていることを告げている。しかし、私たちが棲んでいる北アルプスの山麓では、その気配すらない。秋にスッカリ落葉してしまった裸樹のままだ。
 生命が絶えてしまったのじゃないかと思う程、物淋しげだ。しかし、同じ安曇野でも、ワサビ田附近には、しっかり春が訪れている。毎年決まって、妻と二人で、水の緩んだ万水川に向い、ワサビ田の対岸(黒沢明の「夢」のロケ現場であった)の小径を散策しながら春探しを始める。

 田の畔道には、名も知らぬ雑草が緑々と春が来ていることを告げている。ワサビ田を背に北アルプスを臨むと春霞で山岳がぼけてみえる。冬にはなかったことだ。北アルプスの稜線は真白でまだまだ冬以外の何ものでもない。しかし、まだ冷たい大気の中にも、ホッと春の暖かさを感じる。日に日に春めいて後一ヶ月もするとあらゆる草木が一斉に花を付けることになる。
 田にはまだ水は引かれていない。五月の初めには水も引かれ逆さアルプスが見られるだろう。春を感じながら臨む安曇野の風景が好きだ。曾って春になると蓮華が田一面に咲き誇ったにちがいない心象風景が浮かぶ。近代的な建物やクモの巣の如く張りめぐらされた電線、電柱も目に入らない。写真に切り取られた現実の風景と違って人の心の目で見る風景が変らず美しい。写真と絵画との違いのように今見ている風景は、私自身の心に焼き付いたかつての安曇野の風景にちがいない。百年、二百年前の人々と同じ風景を共有し合っている瞬間があることを感じる。

 そんな感慨に浸りながら小径を妻と歩いていると、そんな幻想を打ち破る事件が起きた。空から何と一尺もある紅鱒が私たちの目の前スレスレに降ってきたのだ。「空から魚が降って来た」。小説のタイトルにもなりそうなことが現実に起きたのだ。まだ生きている。血だらけになりながらもドクドク跳ねている。
 空を慌てて見上げると奪った獲物を落としてしまったトビがくるくると私たちの動向を窺っている。生きている魚を近くの清流に逃がしてやると、落し主のトビがすかさずその魚を又もしっかり捕えて悠然と飛び去ってしまった。春の珍事である。この近辺には、清流の水を利用して、養鱒場が多々ある。近辺の樹木には、それこそ無数のトビが虎視眈々と鱒を狙っているのだ。「おい、あまり大物を狙うなのよ」と鳥達に云ってみる。

 すべての生物が死に絶えてしまったかのように、動く物が何もなかった冬の時期が終って、春の気配を感じる頃になると、ジッーと土の上を観察しているとそれこそ多くの小さな虫たちが活動し始めている。日々にその種類が増え、「あ、生きていたんだなあ」と、ホッとさせる。五月、六月ともなると夥しい虫に辟易させられるのだが。
 この近辺には小鳥の森がある。まだ葉は付けていない。と、突然、妻が訊いてくる。
「ねえ、樹の緑には何種類位の色があるのかしらね?」
そうね、六十四種類位の微妙な緑があるんじゃない」
「そのくらいあるかもね。ほんとうに沢山の緑。でも何故知っているの?」
「ハッパ六十四というじゃないか」
 などとくだらないことをいいながら、心は次第に弾んでくる。

 こうして三月の末に春を探し歩いていると、いろいろなことに気付いたり、遭遇したりする。日々の微かな時間に、歩くことによって本当に多くの物を目にすることができる。
 何もなかった処に、芽が出て、葉を付け、突然、花をつける。刻々と舞台が変わってゆく。小さな処に目をやれる。次々と新しい発見がある。植物や虫たちだけじゃない。静かだった森も、野鳥のさえずりで、日増しに騒しくなってゆく。野鳥の種類も増え、産卵の時期を迎えることになる。居ながらにして勦・植物の営みを観察できるのは、此処ならではだろう。
 心の中に取り入れる宝物があっちこっちに一杯ころかっている。たぶん、誰もの生活附近に、多数の宝物がちりばめられているにちがいない。それに気付さえすれば、心一杯の倖せを取り込むことができるのに、普段の生活では気付こうとしない。いや、気付けないでいる。心が閉じていると何も感じない。何も見ていないのと同じだ。

 絵本館にこられる人にも同じことがいえる。入館料を払って、折角入って来ても、何も見ようとしない人達がいる。世界にたった一枚しかない作家のメッセージが織り込まれた原画に気付かないで通り過ぎてしまう。
 立ち止まって、フッと見れば、心の中に何かが入り込む筈だ。人生の中で、小さな倖せを上手に取り込める人と、全く気付かずに通り過ぎてしまう人がいる。私は心の目を大きく見開いて、心の中にいろんなものを感じさせてあげたい。「こんなことで」と笑う人がいるかもしれない。が、結構だ。私は大きな倖せより、小さな倖せの積み重ねが、人生を生き活きさせてくれるにちがいないと思っているのだから。
                       (安曇野絵本館)

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