チェーホフ、文学の本道に
アントン・チェーホフ 原卓也
初期短篇の世界
アントーシャ・チェホンテの作品は八二年末頃からは、ユーモア雑誌の誌面をたえず賑わすようになり、特に八三年に、中学時代チェーホフも愛読したユーモア作家レイキンの編集する「破片」が一行八カペイカで作品を買うようになってからは、毎月百ルーブルほどの収入をもたらすようになったが、家族のために五十ルーブル以上かかる上、いそがしくとびまわるためには馬車代も一日一ルーブルはかかるので、生活はいっこう楽にならなかった。
チェホンテの名前は八八年一月に発表した短篇「ねむい」を最後にロシアのジャーナリズムから消えるが、それまでに書かれた三百篇以上の作品を読むと、二十歳台のこの青年がいかに広く深く人生を知っていたかがわかる。そこには官吏も、医者も、薬剤師も、地主も、百姓も、学生も、辻馬車の馭者も、神父も、巡査も登場してくる。初期短篇に描かれている人物を集めただけで、立派に一つの町ができると思われるほどだ。
もちろん、それらの中には、もっぱら金めあてに書いた、語呂合わせや、軽いくすぐりだけでもっているような作品も少なくない。しかし、のちのチェーホフの世界にそのまま通じるような、珠玉の短篇もまた少なくないのである。それらは主として、人間の愚かさ、醜さ、人生の悲しさ、虚偽などを、ごく些細なエピソードを通じて、思い知らせてくれる。「海で」という短篇では、新婚の牧師夫妻の泊る一等船室を節穴からのぞく少年の目の前に、金持のイギリス人に牧師が新妻を一晩売りつける光景が展開する。また、「でぶとやせた男」では、駅で偶然に出会った中学時代の旧友が、最初は抱き合って喜ぶが、やがて片方が八等官であり、もう一方がすでに三等官にまで出世していることがわかったとたん、八等官のやせた男が急にかしこまって言葉遣いまで改め、どちらも気まずい思いで別れてゆく。
この種の諷刺や、苦いユーモアに貫かれた系列の作品としては、ほかに代表的なものとして、「小役人の死」「カメレオン」などがあげられる。これらの作品は、プーシキンの「駅長」やゴーゴリの「外套」以来、ロシア文学の一つの伝統となった、社会の片隅にいるちっぽけな、虐げられた人たちを主人公としているが、チェーホフはそれらの人々を、しみじみとした哀感をこめてさりげなく描いてみせた。こうした諷刺的な作品と同時に、彼は人生の悲しみを一連の短篇で描き示した。
その中でも、チェホンテ時代の代表的な名作の一つである「悲しみ」にいたっては、とても二十五歳の青年の筆になるとは思えぬほどである。主人公である細工師は、いつも酒をくらっては女房を殴りとばすような生活を永年つづけてきたが、ある日女房の様子がおかしいことに気づいて、あわてて雪の中を橇で町の病院まで運ぶことにする。途中、細工師はこれまでの一生で女房に何の喜びも楽しみも与えず、苦労ばかりさせてきたことを思い返し、丈夫になったら今度こそ楽をさせてやるとしきりに話しかけるのだが、何の返事もない、女房はすでに死んでいるのだ。絶望した老人はやけくそに馬をかりたて、気がついた時には自分が病院のベッドに寝ており、しかも凍傷にかかった手と足を切断さわたあとだ。
他の作家なら長篇に仕立てるかもしれぬこのようなストーリイを、チェーホフは三十枚たらずの短篇にみごとにまとめてみせたのだった。この系列の作品としては、「かき」「ふさぎの虫」「アガーフィヤ」「たわむれ」「コーラス・ガール」「ねむい」などが、代表的なものである。
これらを見てもわかる通り、チェホンテは実に多彩な、器用な作家であった。当時人気のあったハンガリーの作家マヴル・イオーカイ(一八二五一一九〇四)の翻訳小説を模して、「不必要な勝利」というメロドラマ風の中篇を書いたり、ツルゲーネフばりの感傷的な中篇「咲きおくれた花」を書いてみたり、本格的な推理小説ともいえる長編「狩場の悲劇」を書いたりもしている。さらに大学二年の時には、「ワーニヤ伯父さん」「桜の園」の母胎ともいえる四幕の長篇戯曲「プラトーノフ」を書いているのだ。
こうして一八八五年頃には彼はユーモア雑誌界のたいへんな人気作家になっていた。「あるがままに人生を描く」というのが彼の文学の基本であったし、友人の大学生たちに「君には信念も思想もないのか」と問われれば、「どちらもない」と平然と答えて、文学を生活の手段と割りきっていたチェーホフが、しだいに自己の文学を創りだそうという気持ちを固めていったとしても、それは当然のことである。特に一八八六年、大新聞である「新時代」の編集長である作家スヴォーリンと知り合い、同紙に期限を切らずに作品を書くようになってからは、その感が強い。スヴォーリンは思想的には反動的な人物だったし、作家としても二流以下であったが、いち早くチェーホフの豊かな才能に着眼して、これを大事に育てあげていった功績はきわめて大きいと言ってよい。
文学の本道に
一八八六年三月、チェーホフは老大家グリゴローウィチから手紙を受けとった。「不幸なアントン」で知られるこの老人作家は、今日でこそさほど高い評価を受けていないが、ドストエフスキー、ツルゲーネフ亡きあとの当時のロシア文壇では隠然たる勢力を有する存在であった。グリゴローウィッチはチェーホフの作品をほめそやしたあと、せっかくの才能を濫費せぬよう忠告してくれたのだった。それまで「純文学」と、かかわりのない場所で仕事をしてきたチェーホフにとって、これは感激すべき出来事であり、まして彼自身、「私は下らぬ仕事があきあきしました。もっと大きな仕事をするか、でなければいっそ全然仕事をせずにいたいものだという気がします」と兄あての書簡で述懐していた矢先だけに、よけい心を打たれたのであろう。
こうしてチェーホフが本格的な文学としてはじめて世に問うたのが、厚い雑誌である「北方報知」に発表した長編「曠野」だったのである。みずから「曠野」の百科事典と自負し、少年エゴールシカの目を通してロシアの広大な自然の美しさをあますところなく描きつくしたこの長編は、ガルシンをして「ロシアに新しい第一級の作家が現われた」と感嘆させたものであり、チェーホフ自身も、今後はもうユーモア雑誌や新聞には執筆すまいと決心した。そして、本格的な文学への彼のスタートを祝福するかのように、この年彼はプーシキン賞を授けられたのだった。
しかし作冢としての地位が確立するにつれて、風当りもまた強くなってきた。特にナロードニキ系の文学者たちからは、作品に主義・主張がないことを批判された。この頃のチェーホフの代表的な作品に、戯曲「イワーノフ」、中篇「ともしびし」、「わびしい話」などがある。「ともしび」は、八十年代末期に青年たちの間にひろまったペシミズム扱った作品であるが、結局は主人公である技師の「この世のことは何一つわかりっこないさ」という言葉で結ばれている。この言葉は、作品に対する批判に「芸術は自己の作中人物や、彼らが語ることの裁判官になるべきではなく、ただ公平な証人になるべきです」と答えたチェーホフの心境と共通するものであった。
「わびしい話」では、それがいっそうはっきりする。これは、明確な思想も人生の目的も持たぬまま、いたずらに虚名を馳せて老境を迎えた退職教授の心境をつづった小説であるが、小説の最後で、役者との恋にやぶれた養女が「もうこんなふうには生きてゆけない。わたしはどうすればいいんですか?」と教授に悲痛な問いを投げかけても、教授はただ力なく「わたしにはわからない」と繰り返すほかないのである。
社会の悪を告発し、いかに生くべきかを説くことを一つの主要な伝統的課題としてきたロシア文学にあって、問題の解決を最初から放棄しているかのようなチェーホフの小説が、とりわけ進歩的な知識人たちに一種の苛立ちを与えたことは、容易に想像できる、
小説を肅きはじめるにあたって、十九世紀前半の貴族作家たちと異なり、文学的なサロンはもとより、思想サークルや文学グループともまったく縁がなく、商業ジャーナリズム内のいわば、一匹狼として出発したチェーホフが、才能にまかせて書きまくるという生活の中で、どちらかといえば、政治的・哲学的思想に縁遠い人間であったとしてもむりはないだろう。
「芸術家に必要なのは問題の解決ではなく、正しい問題提起だけだ」と強弁し、そこに一面の真理の含まれていることは確かではあったが、チェーホフ自身もものを書く人間としての自分の生き方に疑問と不満をいだきはじめていた。「僕は勉強する必要がある。何もかもはじめから学びなおさなければいけない。文学者として僕はまったくの無学者なのですから」という彼の言葉には、謙虚な真剣な自己反省のひびきがこもっているのである。
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