壮大な史劇にして雄大な政治劇に取り組むための素材集 19
イプセンの「民衆の敵」を翻訳した笹部博司氏は、この劇についてこう評している。
「民衆の敵」は、エンターメントとしても申し分なく、コメディとして最高で、人間ドラマとして一級で、なおかつ政治劇、社会ドラマとしてもきわめて深く、本質的である。人間の愚かさ、醜さ、いい加減さをあますところなく描き尽くし、なおかつ突き放していない。そしてそのどうしょうもなさからこぼれおちるのは、人間という生き物の魅力である。生きているということは、嘘をつき、間違いを犯し、罪を犯し続けることだ。イプセンはそのことを厳しく断罪しながら、少しも否定はしていない。強く告発しながら、容認してもいるのだ。
アスラクセン
議長として、さっきの発言が不適切だと認め、取り消しを求めます。
ストックマン
取り消さないね。僕と自由を奪い、真実を語ることを邪魔しているのは、ここにいる民衆というやつなんだ。
ホヴスタ
多数の方に、正義がある。
ピリング
真理だって、多数にある。こん畜生め!
ストックマン
多数に、正義も真理もあるものか。断じてそう言い切れる。多数という欺瞞と驕りが、社会をだめにしている。多数に自分を委ねるということは、自らの考えを放棄するということだ。一個の個人が自由な考えで行動しようとすると、社会の反逆者にならざるを得ない。一体、社会における多数とは何なのか。賢明なる人たちの集まりなのか、それとも愚かなる人たちの集まりであるのか。この地球の上には、いたるところに、その愚かさが絶対的な多数を形成している。馬鹿者どもが数をたよりに、賢明なる人間を踏みつけているのだ。
いま私たちの目の前に出現したドラマは、なにやらイプセンの「民衆の敵」をお子様ランチのようにしてしまうかのようだ。百条委員会という怪しげな委員会によって退職させられた斎藤元彦と、政治的リングでヒール役であった立花孝志によって、日本の民主主義、日本の政治、日本のマスコミ、そして日本人が鋭く深く暴かれていく。