見出し画像

父は、自分でピリオドを打ったのよ、冬の海で

 元町の商店街を左に折れて、閑静な坂道をあがり、外人墓地の前を通っていく。ぼくはこの通りがすっかり好きになった。異国の墓石が海を眺めるように立ち並んでいる。夜の海には、光りがきらきらとまたたいているのだ。
「大学にいっているのは、学者になるためではないのよ。そんなことじゃないわけよ。これだけはやってしまわなければならないってことがあるでしょう。これだけを片付けてしまわなければ、一歩も前に進めないってことが」
「それはあるさ」
「なにかに、いつも怯えている、とても嫌な女なのよ。だからいまの私を、脱ぎ捨ててしまいたいってことがあるわけ」
「ぼくはいまの君が好きだ」
「一生懸命、あなたをだましているのかもしれないわよ」
「それでもいまの君が好きだよ」
「だましてても、いいわけ」
「君はだましてなんかいないよ」
「そうよ。だましてなんかいないわ」
「だから、イギリスにいってしまうわけかな」
「それを書かなければ、永久に書けないってことがあると思うわ」
「それはあるさ」
「それを書いてしまったら、ちょっと勇気がでてきて、学者にだって教授にだってなってやろうかって思うかもしれないわ。そんなふうになったら、きっと誰かさんのように、雨のなかを歩いていけるのよ」
 まるで子供が、必死になって、なにかを訴っているかのようだった。しかしぼくは譲れないのだ。それは譲ってはならないことだった。それを譲れば、ぼくたちの愛は終わってしまうのだ。
「君がすべきことは、ぼくにむかって歩いてくることだよ」
「私はいま一生懸命、あなたにむかって歩いているのよ」
「イギリスにいくことが、ぼくにむかって歩いていることなのか」
「そうよ。あなたにむかって歩いていくために、イギリスにいくのよ」
 なんという詭弁だ。なんという奇妙なこじつけだろう。
「君がもどってきたとき、ぼくはもういないかしれない」
「それは仕方がないことだわ」
「どうして仕方がないんだ?」
「仕方がないでしょう。私が逃げ出してしまったんだから」
「君はぼくから逃げるわけ」
「そうじゃないわ。でもあなたには、そうみえるんでしょう」
「そうみえるよ」
「そうなんだわ。誰がみたってそうみえるのよ。だからあなたがいなくなったって、仕方がないんだわ」
「なぜそんなにあっさりと、仕方がないんだなんて言うんだ。いつも君は、書き損じた紙を、くしゃくしゃにまるめて、ぽいと屑箱に投げ捨てるみたいな言い方をするんだ」
 オートバイが、剃刀で切り裂くような音をけたてて、走り去っていった。ぼくはいらいらしていた。なにひとつうまく運ばない。ふつふつと怒りがぼくのなかでたぎっていた。彼女を打ち砕くどころか、彼女はその芯をいよいよ固くしていくだけなのだ。
 公園に突き当たった。木立ちが、黒い森となって、闇のかたまりをつくっていた。彼女のマンションまであとわずかだった。
「ちょうど、三十のときだったらしいのよ」
 と彼女がふと言った。
「なにが三十のときなんだ」
「父が大学を去って、ヨーロッパに渡ったときが。どうしてだか、わかる?」
「君のお母さんを略奪したからだろう」
「そのこともあるけど、もっと大きな理由は、最初の大発作がおこったのよ」
「大発作って」
「癲癇の大発作が。それも講義をしている真っ最中におこったの」
「うん。それは前にもきいたよ」
「父の父が、やっぱり三十のとき、分裂病に襲われて、廃人になってしまったの。私の家系って、とても濃い精神病の血が流れているのよ」
 彼女がいつか漏らした黒い血とは、このことなのだ。そのことをぼくはもう知っていたが、宏子ははじめて明かすように話すのだ。
「ずうっと私の寿命は、三十までだって思っていたのよ。三十までで、私は終わりだって。そんなふうに生きてきたのよ」
「どうして三十までにしてしまうんだ。おかしいよ」
「そうよ。とてもおかしいことだって、自分でも思うわよ。それこそ精神病者特有の妄想だって」
「そうさ、なんの根拠もないことだと思わないか」
「そうかもしれないわ。でもわかるのよ。きっと三十になったら、父や祖父がそうであったように、崩壊の日がくるってことが」
「田島修造は、三十で崩壊しなかったじゃないか」
「父って、とても強い精神力をもっていた人なの。それに母がいたわ。母が彼をささえていたわけ。だから強くなれたんだわ。私には父のような強さがないのよ。だからいつもこう思っていたの。崩壊がおそってくる前に、まだ力が残っているうちに、自分で自分のピリオドを打とうって」
「なぜピリオドなんだ」
「結局、父だって、自分でピリオドを打ったのよ。冬の海で」
 もうそこが彼女のマンションだった。

画像1


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?