日本最大の編集者がここにいた
地域雑誌「谷根千」93号で打ち切ります。23年間、ありがとうございました。
鶯谷という駅がある。谷に清流が流れ、木立がこんもりと生い茂り、その森から鶯のさえずりが、朝に夕に聞こえてきたのだろう。そんな景色を伝える駅名だが、その駅の改札を抜け、国立博物館の裏を通り、芸術大学の脇を通って、言門通りを渡ると、谷中、根津、千駄木という地域に出る。あるいは日暮里駅から、谷中の墓地を横切っていくのも風情のあることだ。
裏通りは蛇がのたうつようにくねくねと曲がり、その両側にはひさしをつらねて人家がぎっしりと建て込んでいる。その路地裏を歩いていくと、私たちはそこそこに古い時代の景色に出会うことになる。次第に遠くなりつつある昭和の景色であったり、短くも美しかったのであろう大正の景色であったり、あるいはあの漱石の小説で描かれているような景色に出会ったりする。景色だけではない。そこに漂う空気やにおいまでが、なにやらその時代をただよわせていて、なつかしさと同時に、なにか胸がしめつけられるばかりの気持ちになる。胸がしめつけられるのは、私たちの生きた時代が、あるいは私たちの原風景ともいえる景色が、どんどん遠くなり、やがて消え去っていくという寂寥感からやってくるのだろうか。
二十三年前、この地に小さな季刊雑誌が発刊された。「谷中・根津・千駄木」である。以来この雑誌はとぎれることなく刊行されて、現在八十九号まで刊行されている。しかしこの雑誌にも、間もなくピリオドが打つ日がやってくる。その八十八号の裏表紙に、その終刊宣言なるものが載せられた。
このたび、地域雑誌「谷中・根津・千駄木」は二○○九年春に刊行予定の九十三号で締めくくることにしました。
一九八四年十月に創刊以来、二十三年間、多くの人にお会いし、お話しを聞き、活字を起こし、ほかのメディアでは決して伝えられないものを、読者とともに共有してきました。
そして、長いものに巻かれず、トラブルにはおそるおそる首を突っ込み、紙つぶてで闘い、打たれれば引っ込んでまた顔を出し、まちがいを訂正し、苦言に頭を垂れ、しかし懲りず、好き勝手に作り続けることができたのは、「こんな雑誌があっていい」と許容して下さった、この町のおかげです。
「三号雑誌にはなるまい、三年続けよう」という思いで創刊し、いつの間にかここまできました。しかしこの数年、継続できる最低ラインの七千部を割り、回復できずにいます。そこで、定期購読の節目である二年八冊を責任をもって刊行し、九十三号を最終号とすることにしました。
長く購読を続けてくださっている皆さま、本当にありがとうございます。もう少しです。ぜひ最後まで見届けて下さい。今後二年間、今までの資料を整理し、聞き書きを充実させ、精魂込めて「谷根千」を作ります。
二○○七年二月二十五日
私はこの雑誌の長年の購読者であり、刊行者の一人である山崎範子さんとは深い交流があり、彼女の原稿を「草の葉」で連載したこともある。そんなこともあってこの報に接したとき、いろいろと私の心にしみこむものがあって、私はやはり私の最後の仕事に踏み出さねばならないと思ったりした。その一つが山崎範子さんの本を作りたいという思いだった。「谷根千」の刊行者の一人である森まゆみさんは、いまではすっかり読書社会のスターになっていて沢山の本を出している。しかし山崎さんの本はいまだ一冊も出ていない。このことが私には不思議でならないのだ。なぜ編集者たちは彼女の才能に気づかないのだろうか。なぜ編集者たちは彼女の本を出さないのだろうか。彼女の書く文章には鋭い切れがあり、その対象を捉える視線は深い。それでいて、その文章はあたたかく、読む者を幸福にさせる。彼女は上質のエッセイストとして、独自の世界を作り出していける才能をたっぷりともっているのだ。
印刷所の男たちが版下を谷根千に変身させる夜 山崎範子
「谷根千」四十三号の配達は猛暑の中を走ることになった。「東京の気温は三十四度まで上昇しました」というラジオの声が聞こえてきたとき、私は神田神保町の交差点で信号待ちをしていた。
幹線道路沿いにはアスファルトがジリジリと太陽を照り返し、脇道に入るとビルの裏側から排出されるエアコンの熱風。加えて光化学スモッグの発生で目が痛む。
「谷根千です。新しいの届けに来ました」
一度に五十冊、百冊を自転車から降ろせる店は少ない。たいがいは十冊か二十冊。一冊だけ届けるところも数軒ある。納品伝票に記入し、返品を受けとり、売れ数を計算して領収書を切る。書店によっては改めて請求書を送る。バックナンバーを置いてもらっている店では、在庫を調べて計算するので時間がかかる。
飲食店は昼飯時を避け、病院はなるべく午後、料理屋は仕込み時間と、店によって都合の良い時間が違う。
帽子を被り、タオルを首に巻き、商業用自転車を乗り回す日々が、二週間ほど続く。夕暮れ、汗と埃の汚い顱で仕事場に戻り、配達をチェックしていると、仲間のOも同じような汗まみれの顔で帰ってきた。二人で顔を見合わせ、無言でニヤッと笑う。疲労困憊した体から声はでないのだ。でも、心の中は同じことを考えている。
「帰ったらフロに入り、ビール、ビール、ビール、ビール……」
版下作業のとき、毎日雨ばかりだった。写植の打たれた印画紙の巻き物を抱えていると、「今どき、そんな時代遅れな」と声がかかる。知り合いは原稿をフロッピーで渡す。マッキントッシュでレイアウトする。私もその気がないわけではない。が、よくわからないだけだ。まあ、そのうちに、今回はこれまで通りで、と言い訳しながら今日まできた。
印画紙と版下用の台紙とカッターナイフと三角定規とペーパーセメントとシンナーを机の上に置く。そしてウームと考える。レイアウトのイメージはまだ頭の中にホワッとあるだけ。
とにかく手を動かす。台紙に線を引き、印画紙にペーパーセメントを塗る。貼りはじめると頭の中のホワッが少しづつ形になる。
手作業の緊張と、創造の昂揚がまざりあった気分。私の大好きな時間。
版下作業の数日は孤独の時間と、仲間三人の密着した時間がサンドイッチのように重ねられてゆく。この期に及んで、
「ここの文章、やっぱり気になるから削ろう」
「空いたところはどうする」
「何か、写真ない? 図版は? じゃあ、ヒロちゃん、このイメージで絵を描いてよ」
この春、四人の毋になったOは、谷根千唯一のイラストレイダーでもある。頭を抱えながらもMや私の注文を軽妙にこなしていく。毎号の「確連房通信」やおたよりのロゴ絵も凝る。そして、例えば三十二号の谷中生姜特集号では田植罫、レンコン罫、ウズラの足跡罫、三十三号ではススキ罫に瓦屋根罫を描く。
毎度のことながら、貼ってみると文章が余り、泣いて写植を切ることもしてしまう。本文より手間のかかる広告作り。表紙のおぼろげなイメージを形にし、色を決めるのもこの時間だ。そして夜が明ける頃、四十八頁分二十六枚の版下が出来あがり、印刷所の三盛社に入稿する。
地域雑誌を創刊しようと思いついた時、私たちは近所の二つの印刷所に相談した。ひとつは、「君たちはまだ素人だから、ぼくが細かいことも面倒みてあげよう。安心しなさい」と言い、もうひとつは、「こういう雑誌は初めてだから、一緒に考えていいものを作ろう」といった。心はすぐ決まった。
後者が創刊以来十一年、ずっとお世話になる三盛社の渡辺正晴さんの言葉だった。私たちのチョイお兄さんの年齢である。現在はお父さんの跡を継いで三盛社の社長さんとなりなかなか忙しい。
雑誌を作り始めた頃、しょっちゅう印刷所に出入りをした。ズラリと並んだ紙見本を見たり、フイルムを印刷機につけるところを眺めたり、インクの濃淡の調節の説明を聞き、バタバタバタと大きな紙に刷られ重なってゆく谷根千にドキドキした。最初は中トジのホチキスもひとつひとつガシャッと手作業でとじていたのだった。町の印刷所の夜はいつも遅い。
三盛社の殿内さんにできたてホヤホヤの版下を届ける。目の下に隈のある顔で、
「お願い、一日でも早く作ってね」
と拝むようにたのむと、
「いつもと同じだけの時間はかかるよ」
とつれない返事。殿内さんのこのクールさとやさしい目がたまらない。そういえば二十六号にOが描いた殿内さんの似顔絵は大評判で、「アナタが殿内さんでしょ。谷根千にのってた顔にソックリ」
と、何人かから声をかけられたと苦い顔していた。
殿内さんに版下のチェックをしてもらうようになって六年。その前は大石さんが面倒をみてくれた。大石さんは着流し姿の似合う、渡世人ぽいステキな人だった。私は夢のなかで大石さんと手をとりあい、駈け落ちしたことがある。雑誌で紹介したお店に、「谷根千を見てきました」と、ご夫妻で足を運んでくれた。
「大石さんはね、君が帰ったあとに版下についているゴミをきれいに取って、どんなに遅くなってもその日のうちに面付け(印刷のために版下を並べること)していたよ」と殿内さんが教えてくれた。大石さんは若くして病気で亡くなったのだ。
こうして版下を印刷所に届け、青焼き校正が無事済むと、原稿書きから校正、版下と続いた机上作業からの解放の日となる。
谷根千が三盛社の中で雑誌の形に変身し、茶色の紙に包まれて仕事場に納品され、私たちがコワゴワ包みを開けて、新しい「谷根千」に一喜一憂するまでに、およそ一週間の平和な日が続く。
配達は愉しい 山崎範子
谷根千三十九号が刷り上がって今日で五日目。さすがに配達の自転車を漕ぐ足取りが重くなってきた。
MとOと、今は名古屋に住むTとそして私の四人が、熱病にうなされたように毎晩雑誌作りの話をして、出会ってから四ヶ月後に地城雑誌「谷中・根津・千駄木」は創刊した。夢と勢いだけが売るほどあった当時から、丸十年がたつ。
三十九号の特集は「坂」。上野台地と本郷台地が、それぞれ私たちの活動範囲の東端と西端で、その中央が昔、藍染川と呼んだ川筋の低地となる。だから、どこに行くにも何をするにも坂の上り下りに明け暮れる毎日。
ナルホド、坂をテーマに話を聞けば、人の出会いや別れ、そして再会。「天空に口を向けた壺のような空間」「坂のある町を歩くと空がきゅうに近くなったり、遠くなったり」と町に住んだ画家の棚谷さんや詩人の諏訪さんは語ってくれた。ロマンがあるなあ。
ケレドモ、今の私たちはそんな甘いことを言っていられないものね。今回、特集を担当したOはリードの文章に、
ジャガイモ下げてズッシズッシとのぼる坂
谷很千の配達はいつも坂で苦労する
生活するためにこんなやっかいな道はない」
と書いた。
さあ、配達! と仕事場を出るとき、およそ七百冊の谷根千を自転車に積む。たった四十八ページの小冊子だけれども、これだけ集まるとけっこう重い。最初のうちは車体がブルブル震えて、ハンドルを取られそうになった。よく急ブレーキをかけては派手に自転車ごと倒れた。その頃から比べれば、名人の域に達するくらい、荷物満載の自転車乗りは上達したような気がする。
この十年間で最悪という倒れ方は、上野駅前の昭和通りを渡っている最中だった。うしろから私の横をすり抜けようとした子どもの自転車が、私の車輪にぶつかってバランスを崩した。あいにく上野を配達はじめにして、浅草、入谷、根岸、三の輪を回るつもりで目一杯積んでいたものだから、荷台のゴムがちぎれて雑誌の包みが道路に飛び出した。信号は赤になる、子どもは泣く、車はクラクションを鳴らすで往生した。まず子どもにけががないのを確かめて泣くんじゃないといい、次に雑誌の包みを抬って路肩に置き、最後に子どもと私の自転車を脇に寄せた。そうそう、クロネコヤマトのお兄さん、手伝ってくれてアリガト。
もうひとつ。東大農学部前の通りを走っていたとき、尾長が顔をめがけて飛んできた。「あ、鳥!」と上を向いた瞬間に右目上に火花が散った。どうしても目が開けられないので配達を中断して仕事場に戻る。「これでモシモのことになったら、Yはいい奴だった。最後まで馬車馬のように走っていたって皆に言ってあげるね」などと笑いながらMがタオルで冷やしてくれた。
十年間の間に雑誌を委託する店は少しずつ増えて、現在は三百ほどの場所に手分けして配る。新しく開店する店もあれば、閉じる店もあり、たった十年でもひと昔、栄枯盛衰があるのだなあ、と町を走りながら感じる。
私は今、地域内の九十軒、地域外の七十一軒の配達を受け持っている。そのうちの十数軒は「夜の店」。子どもの寝静まった十時すぎ、おもむろにジーンズ、スニーカー姿で夜の町に出る。この辺りは私が育った町に比べると驚くほど風紀がよくて、静かなものだ。冬の寒い日などは、私ばかりが貧乏くじ引いて配達しているような気もしないでもないのだけれど、これはこれで楽しい仕事。
今晩の一軒目、映画狂の店主の居酒屋〈天井桟敷の人々〉に向かう途中、学童保育で顔見知りの父母達に出会う。
「ナニしてんの? 一緒に飲みに行かない? もしかして仕事、大変ね」
なんて看護婦のお母さんに言われるとかえって恐縮してしまう。
洋食の店〈スマイル〉のお兄さんは雑誌をよく読んでくれて、店の空いている日はつい話込んでしまう。根津の辺りを数軒まわり池之端へ。〈楽屋〉というシャレた看板が取り外されていた。どうしたんだろうか。
〈オウ・ド。ヴィー〉というバーに向って谷中の坂を下る。ここさえなければ夜に坂をのぽらなくてもいいのに、と少しくさるけれど、実はここのマスターの新田さんのファンでもあるのだ。帰りは車の絶えた坂道を、手離しジェットコースターで下る。最高。
お金の無さそうな人で満席の〈あかしや〉、お金のたくさんありそうな人で混む〈美奈子〉。お店とお客さんて、いつの間にかよく似合ってくるから不思議。店の混み具合や雰囲気で、いろいろなことがわかってくる。この店、続くかな? と思った次の配達の時、「閉店」の貼り紙を見て胸が痛む。やさしいおかみさんは雑誌を精算したあとに、いつも台所脇に私を呼んで、ちょっとした料理をつまませてくれた。
さて、夜の配達の最後は〈ココナッツ〉。このスナックは夜の十時頃から明け方まで閧いていて、千円札一枚でもなんとかなる店。ジュークボックスがあって百円で四曲、大好きな石川セリの「八月の濡れた砂」も聞ける。ここで私の住むD坂マンション仲間の安達さんが、配達の終るのを待っていてくれる。谷中墓地脇に住むキクちゃん、静かに話す太田さん、谷中でカレー屋さんをしているハルさん、建築家で酔っぱらいの吉田さん。谷根千三十号の映画特集を作る時、ここで映画や町の映画館の話を皆に聞いた。飲みながらの取材が終ったらもう外はうっすらと明るくなっていたっけ。でも、この時の取材ノートは解読不可能な文字が延々と続くだけで役立たずになってしまった。
「お疲れさま」と安達さん。オシボリに冷えたビール。あーあ極楽。
こうして遊んでいるのか働いているのかわからない一日が暮れ、明日もいかに坂を上り下りせず配達するか、思案するのだ。
草の葉ライブラリーより一月に刊行されます。
山崎範子著
「谷根千ワンダーランド」
Web Magazine 「草の葉」創刊号の目次
創刊の言葉
ホイットマンはこの地上が最初に生んだ地球人だった
少数派の輝く現在(いま)を 小宮山量平
やがて現れる日本の大きな物語
ブナをめぐる時 意志 星寛治
日本最大の編集者がここにいた
どこにでもいる少年岳のできあがり 山崎範子
13坪の本屋の奇跡
シェイクスピア・アンド・カンパニー書店
サン・ミシュル広場の良いカフェ アーネスト・ヘミングウェイ
シェイクスピア書店 アーネスト・ヘミングウェイ
ジル・サンダーとは何者か
青年よ、飯舘村をめざせ
飯舘村に新しい村長が誕生した
われらの友は村長選立候補から撤退した
私たちは後世に何を残すべきか 上編 内村鑑三
私たちは後世に何を残すべきか 下編 内村鑑三
チャタレイ裁判の記録 記念碑的勝利の書は絶版にされた
チャタレイ裁判の記録 「チャタレイ夫人の恋人」
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草の葉メソッドに取り組むためのガイド
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草の葉メソッドの中級編のテキスト
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